42話 サンタ・ムエルテに抱かれて
防衛戦が始まっている。
倒木に木柵を追加した障害物の内側には、長槍を構えた木こり達が控え、柵に取り付く大量の狗共を押し返していた。
円形に敷いた陣を、敵は物量を活かして囲んでいる。
光源が少なく、暗くて視界は通らないが、ざわめきが魔物の多さを物語っていた。
この防衛線を上から見たら、膨らんだ風船のように見えるだろうか。
森の中に作られた倒木のバリケード、これが第一防衛線。
伐採地である広場に工作部隊が建設中のバリケード、これが第二防衛線。
敷設した道の出入り口を囲うように築かれたバリケード、これが第三防衛線。ここでは"聖なる泉"の野営地から物資を積んできた馬車が、帰りに人員を乗せて引き返している。
味方の手が回る範囲と敵の攻勢を考えつつ、外側から順に防衛線を放棄していって、最終的には全員が馬車に乗って逃げるまで戦う。
中身である空気が抜けきる前に、風船が魔物に食い破られたら負け。千切れた風船は中身を弾けさせて、黒い森に飲まれて終わりだ。
「ヘイト、手ェ貸してくれ!」
木こりの怒鳴り声が聞こえた方を見ると、木柵が崩されて数匹の狗が侵入していた。
右腕に魔剣、左腕に斧を持ちながら走り、数匹の狗が威嚇しているのを無視して斬り込む。
斧を顎に、魔剣を腹に、
そしてナイフを持った鎧の尾が口内へ強引に入り、血みどろになって出てくる。
手傷を負って怯んだ3匹の狗に木こりが止めを刺す。手が空いた者は柵の外を牽制しつつ、崩れたところを修理していった。
時間をかけては数が増えて手が付けられなくなるから、できるだけ迅速に叩かなければ。
僕は20名ほどの木こりと共に防衛線の一角を任されている。
日は沈んで辺りは暗く、降りやまない雨は篝火と松明を弱らせている。他の皆も同じような戦いをしているはずだが、遠くの姿は闇に紛れてほとんど見えない。
ドン――
という腹に響く音が、遠くから聞こえた。
防衛線の別の場所だろう。聞いたことのある音――おそらく餓鬼だ。
脚の遅い特殊個体が到達している。
これまでは狗だけだったから騙し騙しでも何とかなっていたが、そろそろ頃合いだろう。
爆発からほどなく、伝令役である軽装の騎士が走ってきた。
「ヘイト様、ディマス様より伝令です。『光を灯せ』」
「了解です。
――皆さん!導火線に火を点けて下さい!」
「おう!」
返事をした木こりの数人が、篝火の火をロープに移す。油を染み込ませたロープの先は倒木のバリケード――
「走れッ!!」
闇の中に木こりの怒鳴り声が響く。一斉にパイクを捨て敵から背を向けて走り出す。
ぬかるんだ土を蹴り始めて数秒――
種類の違う爆発音が鼓膜を塗りつぶした――
バリケードに仕込んだ"死の舞灯"が敵を巻き込んで爆発したのだ。
事前に、特殊個体の到達時点で第一防衛線は放棄すると聞いていた。
戦闘部隊の生き残りと後方部隊を集めた三百数十人じゃ、この防衛線は広すぎて手が回らず、維持できない。
この作戦はタイミングを誤れば味方を巻き込むが、
敵の撃滅、撤退の援護、時間稼ぎ、灯りの確保を同時にできる。
別の場所でも着火と誘爆が起こって火の手が上がり始めた。森の中に設置された第一防衛線は劫火に包まれ、魔物ごと周辺の木々を燃やし、巨大な篝火となっていく。
バリケードには木炭を仕込んでおいたため、倒木がそのまま並列型の焚火になって雨の中でもしばらく燃えてくれるだろう。
走りながら後ろを振り返るが、狗の影は見えない。
ずぶ濡れの森をこうも燃え上がらせるとは……死の舞灯の火力は凄まじい。
……だが、ここまで才能を使ってしまって、ラロさんは大丈夫だろうか。
一抹の不安を覚えながら、後方の篝火を目印にして伐採地を走った。
そう時間はかからずに広場に設置されたバリケードに到着する。円形の伐採地に急造された第二防衛線だ。足元はぬかるんでいるが、視界は通っている。森の中で戦うよりずっと良い。
問題は特殊個体か……
一緒に戦っていた木こり達は眉間に皺を寄せ、唇を歪ませて荒い呼吸を続けている。疲労が強そうだ。
「敵が来たら休めないかもしれません。今のうちに休憩してください」
「ああ、そうさせてもらう。斧寄越せ、新しいの持ってくるから」
「あ、ありがとうございます」
血と脂で汚れた斧を手渡して、重い足取りで離れていく後ろ姿を見送った。
「ヘイト様、ご無事でなによりです」
外套を着る、赤髪を雨で濡らした女性が近付いて来た。メサさんだ。彼女も鉄柵の魔法が使えるから重宝されているだろう。
「――――勘治様も」
「?」
「ああ」
後ろから声が聞こえたので振り向くと、丁度バリケードの内側に入ってくる、鍔の無い抜き身の日本刀を携える姿が見えた。
別の場所を守っていた勘治先生も戻ってこれたようだ。
「勘治様たちで最後です」
「良かった……あの……撤退の方はどうですか?」
こちらの心配が伝わったのか、メサさんの表情が険しくなる。
「撤退路にも襲撃が絶えず滞っているようです。野営地から派遣された兵は馬車と道の警備に回しているため、こちらの防衛線に加勢はできないでしょう」
「そうですか……」
「ですが先程、フベルト様がイザベルに警備を引き継いで防衛線に合流。同じくレオン様とビダルが到着しています」
「それは頼もしいです」
殲滅力の高いフベルトさんと、"鉄柵"の魔法が使えるビダルさん。そして盾のレガロを持つレオンさんは、この防衛戦では理想の戦力だ。
「私はビダルと分担して魔物の攻撃が激しい箇所を援護します。おふたりとも、ご武運を」
「弓兵隊。狙わなくていい、1本でも多く射ろ――射撃開始」
凛とした、良く通る声が聞こえた。
丸太組みの監視塔がバリケードの内側に建てられている。見た目は高さ2mほどの、工事現場にある足場に近い。
そこには数十人の弓兵たちとローマンさんが立っていた。防衛線に到着する馬車が運んできた大量の矢筒が、彼らの近くに置かれている。
号令を受けて弓兵が斜め上に弓を構え、弦を引く。
ローマンさんだけが真っ直ぐ前を睨んで大弓のレガロ、"衝撃波"を引くと――破裂音が響き渡った。
一拍置いて別の爆発音が聞こえてくる。ペタを狙撃したのか……
第一防衛線のあった場所は森林火災のようになっているとはいえ、視界は良いとは言えない。雨が降っているなかで、膝ほどの身長しかない魔物に矢を当てた。
ローマンさんは相変わらず信じられない腕前をしている。彼は手を休めず、狙いを定めて矢を射る。
「ヘイト、お前はローマンを守れ」
「えっと?……バリケードの方は良いんですか?」
先生の指示、というか意図を理解できず疑問を口にしてしまう。
「お前は幽鬼が見えンだろ。連中を狩れ。狗は任せろ」
そこまで言って貰ってやっと分かった。レイスに潜入されて火力の高いローマンさんを狙われるとまずい。
「は、はい。分かりました。先生も、気を付けて」
先生はこちらを横目で見て、頷いて返答する。鞘無を肩に担いでバリケードの方へ向かう淀みない足取りを見送った。
ボロボロの鉈を持った外套の後ろから近付く。
目線を下に向けると、人間にはあるはずの足が無い。
大きく一歩を踏み出して左腕で首をホールドし、魔剣の刀身を水平にして肺の辺りに滑り込ませる。
一瞬の抵抗を見せたあと、レイスははらはらと崩れて闇に溶けていった。水を含んだ地面に錆びた鉈が落ちる。
レイスを殺すのはこれで4体目。それなりの数が侵入ってきている。
こいつの狙いもローマンさんだったのだろう。僕には幽霊のようなレイスの姿がはっきりと映っているが、皆は気付いていないようだ。
第二防衛線が騒がしくなってからしばらく経つ。
第一防衛線と森に上がった炎は雨で小さくなっているから、光源である篝火を保つだけで大変な仕事だ。
時折、ペタの爆発音が近くで聞こえていた。ローマンさんの矢を抜けてエスペシャルが迫ってきている。
バリケードは……守っている皆は無事だろうか。
フベルトさんと"神馬の子"はタイミングを見て防衛線から飛び出し、敵の薄い地点を走り抜けて攻撃し、バリケードの内側に戻って来るのを繰り返しているようだ。
攻撃へ出る度に武器がボロボロになっているらしい。敵の数は減るどころか増えていると聞いた。
バリケードをよじ登ってきた憑霊の"子"を、ヒルさんが潰しているのを見かけた。人の面影を残した異形が機敏に襲い掛かるが、遠心力を乗せた棍の一振りでその頭を砕く。
"子"がいるということは、親であるウェンディゴ本体が何処かに居るはずだが、姿は見えない。夜闇に潜んで人間の死体を"子"に作り変えつつ、こちらを窺っているのだろうか。
気味の悪さを抱えたまま、レイスを探した。
「――警戒!!」
絶叫に似た声が聞こえてくる。
切羽詰まった声色に、脊椎反射のように身体を向ける。
「11時方向から――」
声が、衝撃音にかき消された。
何が起きた――?
バリケードと監視塔が粉々に砕け散り、散らばった篝火が残骸を仄かに照らしている。
あれは――
ヒトのように二本足で立ってはいるが、その身長は2mをゆうに超えている。全身を包む膨張した筋肉が、その巨躯をさらに大きく見せている。
右腕にはバリケードを細枝のように粉砕した、禍々しい斧を肩に担いでいる。
首から上は狼に似ている、石か何かで出来た面をかぶり、正面から見ると口角が上がっているように見える。
獲物を見つけた愉悦を感じて、嗤っているかのようだ。
怪奇小説に出てくるような――
ミノタウロスや狼男に似た、正真正銘の怪物――
「人狼……」
最悪だ。
まだ撤退には時間がかかる。それなのに――
シェイブの開けた大穴から大量の狗が防衛線に侵入していて、バリケードを守っていた者を襲っている。
「クッソ」
弾かれたように足が動いた。
「第三防衛線まで退け!」
シェイブの左肩に矢が深々と刺さる。ローマンさんだ。続けざまに何度も弦を引く。
しかし屈強な身体とは対照的に、矢は細枝のようだ。肉が硬すぎるのだろう、あまり効いているように見えない。
射撃されたシェイブは斧を盾にして身を守りつつ、じりじりとローマンさんとの距離を詰めていく。
まずい――
間合いに入ったシェイブは、ローマンさんが射撃している監視塔に向けて斧を振り上げた。
轟音と共に、丸太組みの監視塔が斧の一振りで吹き飛ばされる。
「ローマンさん!」
攻撃の直前で監視塔から飛び降りた人影が地面に転がる。無事だろうか。
ローマンさんに近付こうとする狗に割り込めた。走りながら魔剣を斬り上げると喉に当たり、深く裂いて出血する。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ、ヘイト。問題無い。
――ッ!」
ローマンさんの目が驚きで見開かれる。振り向き、見上げると、斧を高く振り上げるシェイブと目が合った。
「伏せろ!」
出所の分からない声に反応して、咄嗟にローマンさんに覆いかぶさる。シェイブの一撃を防げるとは思えないが――
来るはずの衝撃は、感じない――
恐る恐る体勢を戻すと、傘のように盾が頭上を覆っていた。タワーシールドを持つ男性が斧の刃先を受け止めている。
「レオンさん……」
僕の傍でレガロを構え、シェイブの一撃を防いだのはレオンさんだった。
「まさかこんなに早く、この盾が必要になるとは思わなかったよ。
――ビダル、狗を頼む!」
「心得た」
とんがり帽子を被り、魔法使い然とした格好のビダルさんが周りの狗を鉄柵で地面に縫い留めた。
「ローマン。後ろに退がって第三防衛線から援護してくれ。君にしかできない」
「……分かった」
ローマンさんは一瞬悔しそうな表情を浮かべると、背を向けて第三防衛線の方へ走って行く。
シェイブの放つ重い2撃目、3撃目を、レオンさんは業の盾を巧みに扱って防いでくれる。
「私はシェイブの相手で精一杯だ――ヘイト、狗を減らしてくれ」
「了解で――」
「露払いなら我々もやらせてもらおう。"火炎"の悪魔よ、契約を履行する」
狗がまとめて炎に轢かれた。焼けた芝が雨を受け止めてジュッ、と音を立てる。
刀身に炎が灯った"エレンスゲの棘"――
黒い靄を纏ったナイフと拳銃――
身長ほどの長さがある棍棒――
鍔と鞘の無い日本刀――
「皆さん……」
ディマス伯爵を筆頭に、勘治先生、アントニオさん、ヒルさん、そして20名ほどの騎士が悠然と歩いて来る。
「レオン様に狗を近付かせるな。
――ビダル、鉄柵はまだ使えるな?我々がいる場所を区切って狗が広がらないようにしろ」
伯爵は短く指示を出しながら、燃え上がる大剣を大上段から振り下ろした。火炎放射器のように迸った炎がシェイブを焼く。巨体はもがいて後退し、大きく距離を取った。
勘治先生とヒルさん、それに騎士団がレオンさんの方に走り、取り囲もうとする狗を殺し始める。
「ヘイト、戦闘員の撤退が始まっている。もう少し堪えよう」
アントニオさんが軽い調子で話しかけてきてくれた。不思議だ、いつもとあまり変わらない彼の表情を見ると、何とかなるような気がしてくる。
「はい……防衛線はどうですか」
「指揮はフェルナンドに引き継いできた。第三防衛線への後退が始まってる」
「ローマンさんとフベルトさんは?」
「撤退路にウェンディゴの本体が出て援護に向かった。ローマンは後ろだ。無事だよ」
丁度後方から破裂音が響き、狗がバラバラに吹き飛んだ。アントニオさんの言う通り無事のようだ。
「ここが正念場だな」
「はい!」
シェイブは姿勢を低くすると、斧を肩に担いで猛然と突撃してきた。助走と踏み込みの勢いを乗せた斧をレオンさんが業の盾で受け止める。
少し遅れて突っ込んでくる狗をレオンさんに近寄らせないように、先生や騎士と共に魔剣を振るう。
ヒルさんが伯爵を守り、伯爵は隙を突いてエレンスゲの棘を振るう。シェイブは炎を嫌がるようにまた距離を取った。
狗共も問題だ。
行動がいつもと少し違い、シェイブの死角を埋めるよう、随伴するように動いている。
シェイブの攻撃を防げるのはレオンさんだけだから、狗に邪魔をさせたくないのに、狗にかまけているとシェイブから即死をもらう。
かと言ってシェイブだけに注意していると、足首に狗が噛みついている。
脳がパンクしそうだ。
数度の攻防でシェイブは左半身の皮膚を爛れさせているが、動きが鈍っているようには見えない。
それどころか痛みと怒りで破壊力は上がっているように見える。レオンさんが突撃を防いでくれるおかげで何とかなっているが――
殺せども殺せども、狗の数は増えるばかりだ。狗の数が僕たちの処理能力を超えてレオンさんの邪魔をすれば、シェイブに突破される。
伯爵が酷く咳き込むようになっている。エレンスゲの棘による反動で、身体に蝋が溜まっているのか……そう長くはもたない。
シェイブは伯爵の攻撃が当たる度に距離を取るが、敵の攻勢に押されて後退しているのはこちらの方。
シェイブが身を屈める。突進してくる時の前動作――
視界の端で白い光が走った。
あの白鎧だ。闇から出でた甲冑が、黄金の剣を片手に一直線に駆ける。向かう先は――
「ビダル!」
誰かの声で肉薄されるより一瞬早く気が付いたビダルさんは、自らの盾にするように鉄柵を生やす。
が、白鎧の剣は魔法の柵を両断した。
尻餅を着いたビダルさんに向けて二太刀目を振りかぶる。
漆黒の獅子が白鎧に襲い掛かり、ふたつの影が縺れ合って転がった。獅子の姿が徐々に小さくなり、棍を巧みに振り回す人影になる。
"狼狂"の魔法を使ってビダルさんを掩護したヒルさんは、黄金の剣を振るう白鎧と激しく打ち合い始めた。
騎士のひとりに連れられて、腕を抑えたビダルさんが後退する。
一際大きな炎が闇を照らす。シェイブの半身が炎熱に浸食され焼け爛れた。
シェイブは降りやまない雨に火傷の慰めを求めて距離を取る。ダメージが通っていることを願うが、こちらの様子をじっと窺う様子を見る限り、奴はまだまだ倒れない。
――伯爵は、魔剣を地面に突き立て、膝を着いてしまっていた。
怪我を負ったビダルさん、白鎧と戦うヒルさん、魔剣の反動を受ける伯爵。
皆、限界だ。
「次は防げないな、勘治」
「なんだ」
アントニオさんの言葉に、先生は振り向かずに答える。
「"川と霧"をやる」
「……分かった。ヘイト、トーニォを連れて行け」
「え?は?」
「ヘイト、奇術を見せてやる」
アントニオさんは軽い調子でそう言うと、拳銃から弾倉を抜き――
掌一杯の弾薬と共に握り潰した。
アントニオさんの拳から濃密な黒い霧が発生し、僕たちを囲むように渦を巻く。
数十秒で辺りは黒い霧が充満し視界が通らなくなる。すぐ後ろにある第三防衛線の篝火だけが、ちらちらと明るく見える。
「これでしばらく時間が稼げ――」
アントニオさんは言いかけて膝を着く。慌てて身体を支えて顔を覗き込むと、血の気が失せていた。
「全員退くぞッ!!」
勘治先生の大声が近くで聞こえ、アントニオさんに肩を貸して最後のバリケードへ向かった。
ローマンさんがふらつくアントニオさんを引き取る。
「川と霧、トーニォが纏ってる霧を一度に出して敵の目を欺く、彼が持つ奥の手のひとつだ。私たちは安全だよ――しばらくは」
「アントニオさんの身体は大丈夫なんですか?」
フベルトさんは首を横に振った。
「レガロの使い過ぎで戦えないだろう。以前もそうだった。トーニォは先に泉へ向かわせるよ」
「ハハ、お先に。帰りの馬車は女性と一緒が良いなあ」
「トーニォ、意識を失っておけば誰と乗っても一緒さ」
ふたりは軽口をたたき合うが、アントニオさんは顔面蒼白だし、フベルトさんの笑顔にも疲れが滲んでいる。冗談でも言わないとやってられないのだろう。
「効果が無くなる前に撤収を進めよう。あと少しだ」
第三防衛線はもう大した広さは無い。
バリケードの内側では、限界を迎えたディマス伯爵と騎士たちが馬車に乗り込んでいる。
鉄柵の魔法を使える者は魔法をすべて出し尽くして第三防衛線のバリケードを補強したあと、聖なる泉へ向かったそうだ。
辺りは暗い。アントニオさんのレガロが影響しているのだけではなく、そもそも夜闇が深く、雨で篝火が弱っている。
もう篝火に薪をくべる者もいない。
誰が残っていて、誰が野営地に帰ったのかも分からない。
「ヘイト、先に行け」
勘治先生が声をかけてきた、自分はギリギリまで残るつもりなのだろう。付き合いは短いが知っている。このひとはそういうひとだ。
「お断りします。貴方が帰らないなら、僕も帰りません」
僕がそう返すと勘治先生は心底不機嫌な表情をした。何を言われようが残るつもりだった。
猫の手も借りたい状況だ。足手まといとは言われまい。
並んでバリケードの外に向かう。
「覚悟できてんのか?」
「そうですね……半年後の大規模侵攻の時、迎えに来てもらおうかな……」
先生は不機嫌な表情を解き、溜息を吐いて呆れ果てた。アントニオさんのように軽口を言ったつもりだが、うまくいかないな……
「僕がシェイブを抑えます。先生は狗をやってください」
「……分かった」
黒い靄が徐々に薄くなっていく。
ディマス伯爵の使った魔法の残火がうっすらと巨体を浮かび上がらせる。
シェイブの首がこちらを向いた。
シェイブが身を屈める。突進の前動作――
「ダメだったら、ごめんなさい」
返答を聞かずに走り出す。シェイブも同時に走り出した。
魔剣を片手に全力で地面を蹴る。
真っ正面の狼の姿が、みるみるうち大きくなり――
間合いに入った瞬間に足元へ飛び込んだ。
すぐ後ろで、強い振動が響く。
斧が振り下ろされたのだ。
良し、僕を狙った。
第三防衛線のバリケード、その後ろにはすぐ皆がいる。こいつを近付けたら一撃で突破される。
シェイブの方が狗よりも足が速い。走り出してすぐは狗を置き去りするから、その瞬間だけは狗に邪魔されず肉薄できる。
斧を持ちあげ、体勢を立て直す短い時間に、右足の健に向かって魔剣を振るう。
――浅い。
切り傷を付けただけだ。
嵐のような袈裟懸けの一撃を、右脚に纏わりつくように避ける。できるだけ、こいつを防衛線とは逆の方へ。
シェイブの一撃に巻き込まれた狗の身体が、紙切れのように散った。
一瞬の隙に斬りつける。
斧を振り下ろす速度は僕の反応速度を上回っている。見てから回避したのでは遅い。
幸いにもこいつは僕と同じく右利き。そして得物は斧だ。僕もこれまでさんざん振ってきた斧ならば、間合いと体勢はある程度想像がつく。
相手の右足元から大きく離れないよう、纏わりつくように駆ける。
相手が攻撃して体勢を立て直す隙に魔剣で斬りつける。
シェイブの足元だけが、台風の目のように安全だ。
近付く狗はシェイブの巨大な斧に巻き込まれ、それは今のところ僕には当たっていない。
だけど、この台風の目は本当に小さいし、常に動く。気まぐれに風に当たれば、それが終わり。
こちらの攻撃は有効打になり得ない。それは分かっている。どうせ倒せない。それでも足は止めない。
ひとりでも多く、聖なる泉へ撤退させる。
どれだけ駆け回っただろうか、
ぬかるみに足を取られ、シェイブが両腕に持った斧を横に薙いだ。懐に入って斧自体は避けられたが、相手の鈍器のような肘が自分の頭に当たり平衡感覚を失う。
スローモーションのように時間を感じる。
シェイブは斧を振り上げている。
僕はそれをただ見上げている。
片膝を着いてしまっている。
だめだったか――――
巨きな黒い影が勢いよく割り込んだ。
巨大な馬が狗を蹴散らしながら襲歩で駆ける。
「グラニ……」
フベルトさんの駆るグラニには勘治先生も乗っている。
フベルトさんはまったく減速せず、勢いを伴ったまま槍でシェイブの片足を攫う。脚を掬われた巨体が両腕を地面に付いた。
すぐグラニをこちらに向けたフベルトさんが、加速しながら折れた槍を放り投げて僕に手を伸ばす。
「掴まれ!!」
手甲に包まれた掌を反射的に握れた。
フベルトさんの後ろに乗り、三人で闇の中を駆ける。
いつの間にか崩壊した第三防衛線を通り過ぎるが、動く人影は見えない。
後ろを見ると、斧を手放したシェイブが四足を地面に着け、猛烈な速度で追いすがってきていた。
森に通った一本道、逃げ場は無い、このままじゃ追い付かれる。
「ラロッ!」
フベルトさんの叫び声を聞いて前を向くと、気だるそうに立つラロさんの姿が見えた。
フベルトさんが僕にしたように、ラロさんに向かって手を伸ばす――
ラロさんはやる気のなさそうに片手を挙げると――
ハイタッチのように僕の掌に触れた――
彼の手を掴み損ねる。
「ラロさん……?」
未だ朦朧とした頭で、理解できず振り向くと、夜闇に包まれる痩身が見えた。
口に咥えた葉巻の火種と、こちらを見て笑っている横顔も。
直後、来た道を遮るように炎の幕が上がる。
視界を炎が埋めた。
大きな炎が遠ざかっていく、みるみるうちに小さくなっていく。
シェイブは追い付いてこない。
魔物の影はもう見えない。
「フベルトさん……ラロさんが……まだ……」
声が届いていないのか、分かっていながら前を向いているのか、分からないが、グラニが足を止めることは無い。
炎が雨に流されていく。
ラロさんの炎が消えていく。
呪いの鎧から伸びた尻尾が虚空の方を向いているが、手を伸ばすことは無い。
「……嘘だ」