41話 長い日没
最初に視界を埋めたのは、雪崩と見紛うような魔物の群れ。
開け放たれた城門から、敵が扇状に広がっていく。
誰もが、丘から転がり落ちるように迫り来る死を呆然と見上げていた。
「第一波を防ぐぞ!"鉄柵"を使える者は12時方向に集中させよ!」
ディマス伯爵が声を張り上げると、一拍置いて、
「"鉄柵"の悪魔よ、契約を履行する」という合唱のような声が響いた。
丘の斜面に次々と漆黒の杭が生えて針の筵になる。そこに大量の狗が減速せずに突っ込み、飛び散った血飛沫が雨に混じって赤い霧が舞った。
鉄柵を前に群像と化した狗が淀んでいる。それを飲み込もうとするかのように、後ろの魔物が屍を足場にして乗り越えようとしている。
焼け石に水だが、ディマス騎士団が稼いでくれた数十秒で意識を切り替えられた。
ヒルさんは大声で指示を出しているが、恐怖に浸食された傭兵たちは、言葉にならない悲鳴を上げながら散り散りに逃げ始めている。その中にはネグロン家の剣の面々も多い。
原因となったであろう、白い精緻な甲冑を身に纏った男を見る。奴は微動だにせず、こちらの陣形を見ていた。
不気味で仕方がない。
「総員横陣!"堅体"の秘跡をかけて回れ!
――勘治様、我々は釣られたようだ」
「ああ」
ディマス伯爵が追加の指示を飛ばして勘治先生に近づく。雨露に濡れた髑髏兜と、眉間に皺が刻み込まれた険のある顔が並んだ。
「敵は城壁内に潜み、シンイー様の目から逃れていたのだろう。次は我々の後方か側面より攻撃を仕掛けてくる」
「囲まれたら終わりだな。殿はやる、道を拓けるか?」
「承った。鉄柵が使える者を預ける、何とか凌ぎつつ撤退を」
「……後ろは頼むぞ」
「うむ。
――30名、楔の陣で私に続け!伐採地点まで強行突破する!」
「はっ!」
潰走する傭兵たちに混じって、伯爵を先頭にした「Λ」の形で騎士団が走り出す。
木立の中でも統率の取れた鋼色の騎士と、まばらに影の中へ消えていく傭兵たちが対照的だった。
目の前には数えるのが馬鹿らしく思えるほどの魔物がいる。この場所に留まれば誰ひとり街へは帰れない。
全員がばらばらに走って逃げるとしても、狗の脚であれば捕らえられてしまう。
それどころか先回りされて退路を塞がれたらお終いだ。
それを防ぐために、伯爵たちは先んじて後方に周る敵を蹴散らすために走り出した。
兎に角、敵と戦いつつ3km後方にいる伐採部隊と合流しなくては話にならない。
勘治先生がこちらを向く。
「ヘイト」
「はい」
「俺とお前で殿だ。気合い入れろ」
「分かりました」
何を話したらいいか分からなかったから、先生と話すのは数日ぶりだ。どうしようかと、くよくよ悩んでいたが何のことは無い。
元々大して会話などしてこなかった。
ただ、先生と肩を並べて戦うというだけで、覚悟が固まる。
決意を籠めた右腕が、魔剣を鞘から引き抜かせる。
「ヒル、鉄柵のタイミングは任せる」
「了解だ――総員縦陣、撤退するぞ!」
森の中を小走りで移動する。木立を避けながらになるので整列とはいかないが、縦列をとって1匹の蛇のように動いている。
僕たち戦闘部隊に狗が肉薄する直前で、鉄柵の魔法が大雑把に敵の群れを分断した。鉄柵を抜けて来た少数の狗に手傷を与えて機動力を奪い続ける。
側面攻撃を仕掛けてくる狗は、残った騎士団や自警団が迎撃する。戦力が手薄なところをアントニオさんが、最後尾に縋りつく狗は先生と僕で叩く。
肉薄した狗の脚に向けて魔剣を斬り上げ、飛びついてきた次の狗へ、返す刀を横に薙いだ。
足を噛まれて引っ張られ尻餅をつく。靴底を縦に割れた顎に叩き込んで振りほどくと、先生が白刃を振って脚を斬り飛ばす。
そしてまた、皆から遅れないよう立ち上がって後方へ退がる。
1匹1匹殺している暇は無い。狗の脚に向かって必死に魔剣を振るう。
先生は流石だ。僕が2、3匹の脚を壊している間に6匹は斬っていた。勘治先生がいなかったらこの撤退は成立していない。
――――だが、時間の問題だ。
体感で15分ほど経過したか……見捨てるわけにもいかないから、何人かはアルマ・デ・ネグロンに置いてきぼりを食らった子供の手を引いていたり、走れなくなった子を背負っていたりする。
徐々に行軍の速度は落ちていて、その分"鉄柵"を使う頻度が増えている。
体力も魔法も無限に使えるわけではない。狗の量がこちらの処理能力を超えた時点で詰みだ。
漆黒の柵を迂回してきた狗共が木々の隙間を縫うように走り、迫ってくるのが見える。
「側面警戒!3時方向!」
「後ろも来てるぞ!」
どこからか狼狽が混じる声が上がった。
地面から杭が生えてくるが、明らかに数が少なくなっていて、いくつか隙間ができている。その隙間を埋めるために杭が生えるが、すでに多量の狗が抜けてきていた。
考えていても状況は変わらない。今は最善を尽くさなくては――
両手で握った魔剣を構え、猛スピードで走ってくる狗を見据える。
集中――
「ひでえな。モーセも驚くぞ、これは」
目の前を炎が攫った。傍らに黒焦げの炭になった狗が転がってくる。
「ヘイト様、ご無事ですか!?」
青色の刀身を持つ特大剣が振るわれ、炎を避けた狗が真っ二つに両断される。
「ラロさん!?フェルナンドさんも……何で……」
葉巻を咥えて不敵に笑っているラロさんと、2mはある巨体を豪華な甲冑に包んだフェルナンドさんが立っていた。ふたりは伐採部隊の護衛として後方にいたはずだ。
「ディマス様に貴方方の助太刀を頼まれました。現在、伐採部隊が防衛戦と撤退の準備を進めています。あと少しです。
――ラロ様!」
「りょーかい。準備はいいか?10秒後にデカイの行くぞ」
ラロさんはポケットからマッチ箱を取り出す。あの中身がすべて"死の舞灯"だとしたら相当な火力になるだろう。
「――――――走れッ!!」
フェルナンドさんが声を張り上げ、皆、手近な狗に一撃を加えて走り出す。
数秒置いて、すべてを塗りつぶすような爆音が広がった。薄暗くなった森の中が昼のように明るくなる。
辺りには多数の魔物の死体と、木立の隙間から、逆さまに吊るされて動かない人影が見えた。ひとつやふたつではない。
散り散りになった傭兵の誰かだろうか。取り逃がした抱擁の手に掛かったのだろう。
ヒルさん、アントニオさん、フェルナンドさん、ラロさん、勘治先生、自警団、騎士団。
炎に照らされて皆の姿が見える。
間を置かず炸裂する音に包まれながら、爆圧に背中を押されるように走った。
爆撃のあと、狗の襲撃は落ち着いている。ラロさんとフェルナンドさんがまばらに攻めてくる狗を受け持ってくれるおかげで、行軍は随分と楽になった。
皆体力を擦り減らしつつも、足は止めないでいる。
「ヘイト、さっきは助かったよ」
アントニオさんが移動しながら声をかけてくる。いつものような余裕はなさそうだ。
「あ、いえ、無事でよかったです」
「あの白鎧……何者なんだ?魔物か?」
「……分かりません。けど、あの白い鎧を着る直前は、人間の男に見えました。ちゃんと顔までは確認できませんでしたが」
「そうか……あの城壁から現れた魔物は、あの白鎧を狙ってなかったな……人に化けてるとか……」
あの男が仮面を着けた時、男の身体を一瞬包んだ黒い枝葉は、使徒が才能を発現する際に出てくるものとそっくりだった。
「……分かりません。でも、あの白い甲冑はレガロのようにも見えました。レガロを使う魔物がいるってことでしょうか」
「そんなの聞いたこと無いな……」
時々立ち止まって後方を警戒するが、あの白鎧の姿は見えない。だが、まだ何か仕掛けてくる、そんな底知れない不安を感じている。
しばらく移動を続けていると、斧を持って立ち止まる木こりと何度かすれ違った。
よく戻ってきた、と僕を見つけた木こりが声をかけてくれる。
木々が減り、篝火が焚かれ、切り株がまばらに埋まっている広場に出る。前を走っていた人たちが立ち止まり、膝や木立に手をついて荒い息をしているのが確認できた。
後方の伐採部隊に合流できたのだ。
「良し!――壁を築け!」
「おう!」
フェルナンドさんが号令をかけると、返答をした木こりたちが一斉に斧を振り始める。
「材木!」
木こり達の掛け声ともに、木が軋む音が辺り一帯から聞こえ始めた。その音はすぐに、地面に幹が倒れる大きな音に変わる。
僕たちが走って来た道を遮るように、一抱えほど太さのある木が同じ方向に倒れると、工作部隊が倒木に沿って簡易的な木柵を造る。あっという間に、腰ほどの高さがある障害物が出来上がった。
木こり達は木を倒す直前まで斧を入れて、僕たちの到着に合わせて予定通りの方向に木を伐り倒した。
流石の腕だ。
これなら狗の群れは簡単に突破できないし、木柵の隙間から弓矢なり槍なりで安全に攻撃できる。
先んじて伐採部隊に到着していたディマス伯爵が指示を飛ばす。
「指揮できる者は集まれ、情報を擦り合わせる。今到着した者は休息をとれ。戦える者は敵の襲撃に備えよ」
ディマス伯爵、ヒルさん、ローマンさん、フェルナンドさん。そして野営地から早馬で来たイザベルさんが集まる。
僕は警戒に加わろうとしたが、勘治先生に連れられて参加した。
「ローマン様、フェルナンド、伐採部隊の状況は?」
「シンイーの"鳳凰"が緊急事態を報せてくれてから、馬車を使って"聖なる泉"まで非戦闘員の輸送を始めてる。フベルトはその警護に走ってるね」
「全員の輸送が完了するまで数時間はかかるでしょう。その間は、この伐採地点と敷設してきた道を死守しなくてはなりません」
「イザベル、"聖なる泉"の状況は?」
「泉の方には敵が来てないけど、シンイーの報告を聞いてパニックになってるね。教授の指示で防衛線の構築を進めてて、街と各野営地に伝令を送ってる。
私は『馬車と馬を総動員して部隊の撤退を支援する』って領主の部下の頼もしいセリフを伝えに来た。レオンとビダルが向かってるけど、それ以外にまともな増援は期待できない。ここにいる連中で時間を稼ぐことになるかな。
私は伯爵の騎兵と馬車を警護するつもりだけど、それでいい?」
「ああ、イザベル頼むぞ。ヒル、敵の戦力と我々の勝利条件は?」
「敵の数は俺たちを人海戦術で飲み込めるくらい。それに見たことない妙な白鎧も混ざってた。時間が経てば足の遅い特殊個体も追い付いて来る。
勝利条件はひとりでも多く、聖なる泉の影響下まで撤退することだな。
――いや、主のご助力を期待したいね」
「ふむ、何にせよ劣勢での防衛戦か。嫌になるな。
――私が指揮を執る。総員、戦闘態勢。
まだこの世に未練のある者は、無理をしてもらうぞ」
ディマス伯爵の凄みを利かせた言葉を聞いて、集まった全員が真剣な表情で頷く。
日没も敵も、すぐそこまで来ている。