40話 3月23日 絡みつく罠
暗い森が広がっている。
深い森と色の濃い雲は光を阻み、足元には樹木のくっきりとした影が立っていた。
見上げると、密集する枝葉の隙間から旋回する紅い鳥が見える。
野営地にいる林欣怡さんの"鳳凰"だ。彼女は文字通り空の目となって僕たちを見守ってくれている。
鳳凰は高く、鋭い警戒の鳴き声を上げている。
敵が近い。
間を置かず、木立の隙間を縫うように駆けてくる狗共を捉えた。間合いに入った狗の脚に向かって、両手に持った斧を掬いあげるように振るう。僕の腕では致命傷を与えられないが、問題ない。
目的は1匹でも多く魔物の体勢を崩して、勢いを削ぐことだ。脚さえ止めれば200人を超える戦闘部隊の誰かが止めを刺してくれる。
高く上がったままの斧を、迫りくる狗の横っ面に向けて振り下ろす。刃が頭に食い込んだ狗は前転するように転がった。
すぐ後ろで甲高い獣の断末魔が聞こえる。
人間の叫び声は聞こえない。
良し、この調子なら今回の襲撃も凌ぎ切ることができるだろう。
ちらと目線を横に移すと、黄金の直剣を振るう赤髪の男と、穂先が十字の槍を振るう黒髪の男が見えた。
噂の"ネグロン家の剣"を名乗る傭兵部隊のメンバーだ。ふたりともかなり腕が立ち、得点を競うように次々と獲物を仕留めている。
その向こうに、淀みなく"鞘無"を振るう勘治先生も見えた。
しばらく斧を振るっていると、予想通り静かになる。
また奴らが襲ってくるまでの短い間に、斧に着いた血と脂を拭っておかなければ。
作戦はヒルさんが話していたように、順調すぎるくらいに進んでいた。
ネグロン家の剣は索敵能力のある聖遺物を保有しているようで、餓鬼などの厄介な魔物を潰しつつ、着実に進んでいる。
僕たちはヒルさんの予想を超えて、大規模侵攻作戦の最終目的地である"城塞都市"の目前まで来ていた。
仕事は進んでいるものの、歩を進めるにつれて不安が増していく。
日暮れまで時間はあるが、すでに辺りは薄暗い。道を通した場所まで馬車を使っているが、野営地のある"聖なる泉"までは10㎞近くある。
戦闘部隊の進む速度が速いため、後方にいる伐採部隊との距離もできてしまっていて、木が倒れる音が遠くから聞こえていた。
辺りの木々は視界を阻み。
枝葉と雨雲は空を覆って光を阻み。
これで雨が振ってきたら、撤退の難易度は跳ね上がる。
「全隊、進むぞ」
甲冑の聖遺物を装備した、金髪の男が宣言するように命令を下した。名はテルセロと言ったか、ネグロン家の剣を率いている騎士だ。
「待てよ。一雨来そうだ。これ以上進むと帰れなくなるぞ」
ヒルさんがドスを効かせた声で意見した。それを聞いたテルセロは苛立ちを見せながら高圧的に反論する。
「却下する。何度も言うが、大規模侵攻作戦の最終目的は"城塞都市"を魔物の手から奪還することだ」
「残りの時間でどうにかできるとは思えない。それに撤退が失敗すれば大幅に戦力を失うことになる。そうなったら奪還なんて夢のまた夢になるぞ」
「作戦の終了まで日数が無いことは貴様も理解しているだろう?城塞都市の現状を調査するのも重要な任務であり、セフェリノ様の――延いては国王の命令である。それを無視するのか?」
「だとしてもだ、進むのが速すぎて伐採部隊とも距離ができてる。せめて侵攻速度は落とせ」
「魔物の抵抗が薄い今こそ絶好の好機ではないのか!?」
「……後悔するぞ」
「もういい――進軍する!さっさと準備させろ!!」
テルセロの口調は徐々に苛烈さを増していき、話していても無駄だとばかりに話を打ち切った。
ああして進退を話し合うのは何度目かになる。その度にテルセロは"撤退"の意見を退けた。取り付く島もない。
「ふんっ、情けねえ。ビビってんのか?」
「そうなんだろ。魔物も味方も大した事ねえな。肩透かしだ」
引き下がるヒルさんを見て、ネグロン家の剣の隊員がほくそ笑んでいる。ただただ不快だ。
戦闘部隊にいるネグロン家の剣は20名ほど、彼らを置いて僕たちだけで撤退するのも選択肢のひとつだ。
しかし、その選択肢は取れない。
伐採部隊と野営地に連中の仲間が残っているし、奴らは荷物や松明を持たせるために10代くらいの子供を数人雇っている。
非戦闘員を手伝いとして雇うのは珍しくないようだ。だが――
「グズグズするな」と赤髪の男が吐き捨てるように言い、手伝いのひとりを蹴り飛ばした。幼い表情が苦悶に歪むが、文句ひとつこぼさず作業を続けている。
ああやって目を背けたくなる扱いを続けるのは連中くらいだ。僕はあの傭兵共が魔物に襲われていても、掩護はするが確実に手を抜くだろう。
あんなでも勘治先生やラロさん、フェルナンドさんに睨まれているから大人しくしている方、なのだという。
あの連中が見放されたと感づいた時、何をしでかすか分からないし、黒い森という敵地で(一応の)味方と争うのは避けたいから、渋々集団行動をしている。
準備を終えた全隊は斥候を先頭に立てて、警戒しながら前へと進み始める。テルセロから離れ、戻ってくるヒルさんにアントニオさんが心配そうに声をかけた。
「ヒル、大丈夫か?」
「ああ、話が通じやしねえ。まあこういうのには慣れてるから良いんだけどな。それよりあいつら、勘治かラロにナメた真似したら殺されるぞ」
「ラロか……絡まれて病院送りにしたんだったか?」
「ああ、一昨日ラロに突っかかった奴が尻を丸焼きにされてたな――ラロと勘治はもう送還まで時間も無いし、この世界で何やったって自由だ」
「闇討ちすれば、嫌疑がかけられる頃には別世界ってわけか。確かに手も足も出せないな」
ふと、ディマス騎士団のアレホさんが、蹴られた子供にこっそりと"治癒の秘跡"を使っているのが見えた。歩きながらヒルさんに質問を投げかけてみる。
「騎士団は大人しく見えますけど、ディマス伯爵は何を考えてるんですかね?」
「『どうしたら安全に、表沙汰にせず、30人からの傭兵部隊を闇に葬れるか考えている。いい案は無いか?――――――冗談だ』とこの間言ってた」
「本当に冗談なんですか?それ」
「冗談だろ?半分は――まあ、何かあった時のために、騎士団をバラけさせないで戦力を温存してるように見える。旦那は静観するつもりかな」
ディマス騎士団はネグロン家の剣に前を行かせている。魔物の討伐数は稼げないだろう。だが、見ようによってはあの傭兵部隊を盾にしているとも考えられる。
騎士団のずっと後ろの方から、木が倒れる音が響いてきている。伐採部隊にはフベルトさんやローマンさん、フェルナンドさんとラロさんもいる。
彼らであれば多少の襲撃は退けられるだろう。そう思い込んで、後ろ髪を引かれつつ前へと進んだ。
雲行きはどんどん怪しくなる。
木陰がより色濃くなったことで足元は良く見えず、部隊の全体像も掴みにくくなっていた。
あれから2度の襲撃を退け、未だ歩き続けている。部隊の口数が少しずつ減り、静かになっているのは疲労の証明だ。
そんな中――
「うわっ!」と前を歩いている男が地面に両手を着いた。
「何やってんだ。しっかりしろよ」
と侮蔑を含んだ眼差しで男の仲間が言う。
「あ!?黙ってろよ。クソが、何だよこの蔓……」
転んだ男の足には、蔓で編んだロープが不自然に絡まっていた。
彼だけではない、辺りにはうずくまっている人影が幾つか見える。
「アントニオさん、あれ」
「ああ、そうだな――ヒルッ!"抱擁"がいる!伯爵と鳳凰に合図してくれ!」
アントニオさんが警戒を発すると同時に、空を飛んでいる鳳凰が鋭い声を上げる。
「戦闘態勢!」
テルセロが指示を出し、盾を構えた隊員が前に出る。数秒で影から這い出るように狗が姿を現した。
盾の斜め後ろに位置を取り、斧を振るう。少し数は多いがやることは同じだ。盾が勢いを止め、手傷を負わせて殺傷力を削ぎ、止めを刺す。
赤髪の男が振るう剣は溶断するように狗を真っ二つにし、黒髪の男は十字槍を器用に扱い、刺突と切断を切り替えながら戦っている。他のネグロン家の剣も大暴れだ。
数分の戦闘で狗の勢いが弱まってきたように感じる。
こちらが優勢だが、近くにはアブラソが潜んでいる。辺りには原始的な罠が設置されているはずだから、迂闊に動いて身動きが取れなくなればあっという間に狗のエサだ。
範囲攻撃で炙り出したいが、伯爵の魔剣は奥の手だし、ラロさんは伐採部隊にいる。
「特殊個体は10時方向に26m。根元に大きなうろのある木の傍だ。擬態しているぞ」
「了解だ!喰らえッ」
水晶のような球体を持つ、長身の男が指示を出す。すると十字槍の男は陸上競技のやり投げのような姿勢を取り、数歩の助走をすると手に持った聖遺物を勢いよく投擲した。
空を裂くように槍は一直線に飛び、木立に深々と突き刺さる。すぐに木立はもがくように枝を地面に付け、動き出した。
アブラソだ。巨大なナナフシのような魔物がわきわきと脚を動かして、こちらから背を向ける。
「仕留め損ねた……追うぞッ!」
十字槍は飛んだ軌跡を逆再生するように戻って来て、投げた男の手に収まる。
「深追いはやめろ!……おい待てっ!」
「特殊個体を殺せば良い金になる!ガキ共もたついてんじゃねえ!」
「ああ、クソッ!!」
ヒルさんの静止を聞かず、傭兵部隊は我先にと逃亡するアブラソの追撃を始めた。狗の襲撃は終わっていない。戦列は崩れて混乱が生まれる。
結局金か、ここで死んだら持ち帰れないのに。苛立ちを抱えながら動く狗に攻撃を加えつつ、アブラソの罠に掛かった人を手助けする。
雨が、ぼたぼたと降ってきている。
まずいな――
状況が絡み合い、
ロープとなって、
首にかけられる。
そんな感触がする。
掩護をしながら前へと進んでいると、狗の襲撃は止み、空が開けた。
「おい、あれ――」
どこかから声が漏れてくる。
皆は丘のような傾斜を前に、一様に上を見上げて、呆然と立ち止まっていた。
威容を誇る石造りの城壁。朽ちて半開きになった城門。
時の流れはその全てを風化させ、緑の浸食を許しているが、はっきりと人工物の面影を感じさせる。
「城塞都市――」
辿り着いてしまった――
丘の形状に沿って建設された城壁には、木の根が張りこそすれ背の高い木立は生えていない。だからここだけ台風の目のように、空を覆う枝葉が無い。
黒い森に飲まれた街はこうなるのか……そう思い、その終わった風景に、つい目を奪われてしまう。
トントンと、誰かに肩を叩かれて反射的に振り向く。すると、目線の高さに鎧の尻尾が見えた。
また動いた……と思うと同時に、腕の骨格標本のような尻尾が、後ろを指差すようなしぐさをしていることに気付く。
釣られるように指が向いている方に視線を向けると、くたびれた様子のアントニオさんと、彼の背後から近づく、フードを目深に被った人影が見えた。
――瞬間的に猛烈な違和感を感じる。森の中は枝や藪だらけだから、外套を着てフードを被っている人は多い。人影には足もちゃんとある、魔物ではない。
そうじゃなくて、
フードの男は、騎士のように抜き身の剣を携えていて、
自警団員のように革鎧で身を固めておらず、
滅多に剣を持たない木こり達のような格好。
そのちぐはぐさに引っ掛かっている。
僕の気のせいだろうか?そうも思うのに、まったく目線を外せない。
アントニオさんの姿越しに、人影が抜き身の剣先を地面に向けながら、ゆっくりと死角から近付いているのが見える。
アントニオさんは僕の視線に気が付いて、少しだけ笑みを浮かべ、肩をすくめて城壁都市を指差している。
気付いていない。
――ヘイト様、お願いします――
何故か、あの子のことを思い出した。
嫌な予感が身体中に広がる。
そう、あと数歩だ。
あと数歩で、
アントニオさんが、間合いに入る。
フードの男は腰を落として、ちょうど首の高さくらいに剣を持ち上げ、横薙ぎの構えを取った。
「……ッ!」
思考が言葉になって纏まる前に、
必死になって手を伸ばす――
届かない――
静かな森の中に、激しい金属音が響き渡った。
咄嗟に瞑ってしまった目を開くと、驚いたような表情で地面に倒れ込むアントニオさんと、怯んで半端に剣を構えた人影――
そして、閃くように伸びて割って入り、剣撃からアントニオさんを庇った鎧の尻尾が見えた。
痺れるような衝撃が尻尾から背骨に伝わっている。
フードの男は殺し損ねたことを残念がっているのか、少しだけ肩を落としたように見えた。そして剣を捨て、おもむろに懐から仮面を取り出す。
フードの中に仮面が入っていくのと、異常事態を感じ取ったネグロン家の剣のふたりが、剣と槍の聖遺物を男に向けて躍りかかるのは同時だった。
それぞれの切っ先が男に辿り着く寸前、フードの男の全身を黒い枝葉が覆う。
槍の穂先を紙一重で躱したフードの男は、槍の柄を掴んで己の懐に引っ張り込み、体勢が崩れた黒髪の身体を、剣の障害物にする。
赤髪は味方を斬るまいと寸前で攻撃を引っ込め、踏み込んだ力の分だけ体勢を崩した。
フードの男は掴んだ槍の石突で黒髪の鳩尾に一撃食らわせ、浮いた身体から槍を奪い取り、
ふたりの喉笛を一刀で的確に切り裂いた。
「は……?」
理解が追い付かない。
アントニオさんが剣を向けられて、庇ったと思った矢先に、
死体がふたつできあがった?
ふたつの身体が力なく雑草の中に沈むと、男は雨に濡れた外套を脱ぐ。重力に従ってするりと外套が落ちると、
血が滴る聖遺物の槍を手にする、夥しい量の返り血を浴びた、白い甲冑を纏う男が立っていた。
西洋甲冑の意匠を汲んでいるが、造形は美しささえ感じるほどで、とてもこの世界の技術で造れるような物のレベルではない。
頭部を覆う兜の前部は仮面のようになっていて、天秤のような装飾をあしらっている。
「仮面の……才能……?」
現実に付いて行けず、ただ呟く。
皆も同じだ、腕の立つふたりの傭兵が瞬殺された光景を見て、誰もが呆気に取られている。
白鎧は黄金に輝く剣を死体の手から拾い上げ、何とか体勢を整えたアントニオさんに向き直った。
「――!」
獣のような咆哮と共に白刃が閃く。
反応できない速度の斬撃を、白鎧は十字槍で防ぐと城壁の方に後退する。聖遺物である槍の柄は鮮やかに斬られていた。
「呆けてんじゃねェ!敵だッ!!」
勘治先生の怒鳴り声を聞いて、やっと我に返ることができた。戦闘部隊の全員が武器を構え、丘を背にする白鎧を取り囲む。
白鎧は取り囲む戦闘部隊を一瞥し、真っ二つになった槍を用済みとばかりに足元に放った。
じりじりと白鎧との距離を詰めていく。実力者がふたりがかりでも太刀打ちできなかったのを目の当たりにした。凄まじい技量を持っていることは確実だから迂闊には動けない。
白鎧は片手を挙げる。
降参しているようには見えない。
「逃げろっ!」
と水晶を持った長身の男が叫んだ。その顔は血の気が失せて真っ白になっている。
白鎧は、上げた手を前に倒す。
それはまるで、攻撃開始の合図のようで――
轟音と共に城壁が崩れ始める。
朽ちた城門が丘を滑り落ちる。
土煙が雨で洗い流された先に、
丘の上、城壁が崩れてできた大穴に、
絶望的な量の、魔物がいた。