39話 3月18日 2度目の大規模侵攻
夜闇が満ちる廊下に立っている。
自室に戻ろうとドアノブを握る。
扉を開けば、ベッドとサイドテーブルだけが置かれた、暗く狭い部屋があるはずだ。
ノブを捻って扉を押すと、古びた蝶番が酷く軋んだ。
月明りが射し込む部屋には、全身を黒いローブで包み、フードを目深に被った人影が、ベッドに前かがみで座っていた。
いるはずのない人影に、その姿に、恐怖を感じて身体が硬直する。
「――この世界は、双六のようなものだ」
人影はこちらではなく、窓から見える月の方に視線を向けて話し出した。
その声は低く単調だが、どこか演技かかっているようにも感じる。
「神が盤面をつくり、悪魔が升目をつくる」
不法侵入者?変質者?
それに間違いはないのだろうが、あまりにも不自然だし、不気味だ。まるで僕が帰ってくるのを分かっていたかのような、そんな風に見える。
確信めいた予感が去来する。
こいつは、人間ではない。
「――では、人間は?」
問いを発しながら、固まった身体に落ち着けと言い聞かせる。斧が収まっている、腰のホルスターの留め具を外す。何時でも武器を使えるように。
「ただ、賽を振るだけだ」
人影は手袋を嵌めた手をフードにかけ、ゆっくりと頭部を見せる。その姿は――
「髑髏……?」
月明りに照らされて現れたのは、皮や肉の一片も無い白骨化した人間の頭部だった。眼窩と鼻腔に夜闇を満たした頭骨が、こちらを向いている。
「お前は何処へ行くんだろうね?」
歌川国芳が描いた巨大な骸骨の表情がそう見えるように、目の前の髑髏は笑みを浮かべている。
突発的で強烈な動揺に支配された身体が、人影に向けて斧を振るう。だが、手応えを得ることは無く刃は空を切った。
込めた力の分だけたたらを踏む。
ぎし、と木の床が軋んだ音だけが、部屋に残る。
人影は消えていた。
疲れているのだろうか。
これは夢だったのだろう。これまでに何度か見た、気味の悪い夢だ。
そうに違いない。
街から離れ、随分と馬車に乗って黒い森の中にある"聖なる泉"に到着したのが、ついさっきだ。
目の前には美しい湖が広がっていて、僕は砂浜に座りながらぼうっと水面を眺めている。
"聖なる泉"に行く、と聞いた時は、何となく大きな池を想像していたが、規模が違ったようだ。
対岸で作業をする人が豆粒大に見えるくらいには、この"泉"は広い。
正直、ここに来るまでの記憶が曖昧だ。意識を失ったというよりは現実感が無かったのだ。身体だけここに来て、魂はまだあの大広場にあるような、そんな気がする。
僕とアントニオさん、そしてフベルトさんは他の使徒と別行動を取り、聖なる泉の周辺につくられたと野営地まで来ていた。
今月いっぱい大規模侵攻作戦はやっているから、木こり達をもう一度手伝いに行こうという話は、以前から出ていたのだ。
その話をしていた時は、こんな雰囲気になってしまうとは思わなかったが。
「ヘイト、すまん、熱くなって……悪かった」
隣に来たアントニオさんが、腰を下ろしながらそう言ってくる。
「いや、そんな……アントニオさんの言う通りです。悪いのは今まで聞かなかった僕の方ですし……」
アントニオさんは僕のことを心配してくれている。ありがたいことだと思う。彼がこんな風に話すのも、他の皆と別行動を取っているのも原因は同じだ。
エルザさんに、勘治先生が間もなく送還になってしまうことを聞いたあと、皆で集まった。その時――
『なんでヘイトに送還のこと言わなかったんだ?』
とアントニオさんが勘治先生に詰め寄った。
『言う必要があんのか?』
そう先生は返答した。
そのいいかげんな言葉は、アントニオさんに火を点けてしまう。
言葉を尽くしてまくし立てるアントニオさんと、不機嫌な表情を変えずに一言も発さない勘治先生。酒場の雰囲気は最悪だった。
『ヘイトも何で聞かなかった?』
と僕も怒られた。彼の言う通りだ。本当に、聞く機会などいくらでもあったのに、いずれ別れが来ることは分かっていたはずなのに。
それから、先に黒い森へ向かう僕らと、送還祭で街に残る勘治先生、教授、ローマンさんと一度別れた。
「――いや、俺にも悪いところはある。その話題に触れないようにしてきた気がするし――これまでにタイミングはあっただろ?とっくに話してるのかと思ってたんだ」
「普通はそう考えると思います。まあ、先生からしてみれば、わざわざ僕に言う意味も、あまりありませんよね」
「ハッ、そんなことないさ。一緒に戦ったヤツくらいには言っとくもんだよ。勘治の口数が少なすぎるだけだ」
「フフッ、それは間違いないですね……」
聖なる泉は中央部から水際に向かって徐々に水深が浅くなっているようだ。
スケールの小さい砂浜、といった感じの湖畔に並んで座り、快晴の空を映したような水面を見ながら、他愛のない会話を続ける。
"聖なる泉"周辺には魔物が近付かないというのは本当のようだ。襲撃の心配をする必要が無いからか、警備の数は少ない。
水質は煮沸すれば飲料水に使用できるくらいに綺麗だから、この場所に大型の野営地をつくって拠点とするのは理にかなっているのだろう。
「アントニオ、ヘイト」
呼ばれて一緒に振り向く。フベルトさんが声をかけてきた。
「ヒルのところに顔出すよ」
学校の運動会で使うようなテント――タープと言うのだろうか――のひとつに、革鎧で身を固めた自警団が集まっている。
やあ、と挨拶してくる気だるげな顔が見えた。ヒルさんだ。
「や、久しぶりだね」
と茶色のポンチョに身に包んだ女性も声をかけてくる。林欣怡さん。大きな鳥の才能を持つ使徒だ。彼女も来ていたのか。
「シンイーちゃん久しぶり――作戦は順調そうだね」
「まあな、他の連中は送還祭か?いや、勘治も送還だとは知らなかったよ」
へえ、初耳だね、と驚いたようにシンイーさんも言っている。アントニオさんは肩をすくめて返答の代わりにした。
「勘治たち、黒い森にはもう来ないのか?」
「来る。多分」
「そうか――それは助かるな。ま、とりあえず座ってくれ。軽く今の状況を説明しとくぞ」
ヒルさんは言葉を選ぶように話し始めた。
大規模侵攻作戦が始まってから二十日が経過した。作戦の進行具合は順調だ。
お前らと別れたあと、ほどなくして"泉"まで到達して野営地の設営が始まった。"城塞都市"の方向にも侵攻を開始してる。例年よりも順調だよ、まあ今回も辿り着けないだろうがな。
作戦の参加者は増え続けてて戦力も十分にある。特にお前らと入れ替わるように参加した使徒グループと、とある"傭兵部隊"が参加してからは余裕を持ててるよ。死傷者数も大したことない。
この野営地を仕切ってるのはメルチョルって男で、領主子飼いの貴族だ。国会、商会、教会の派閥間に問題が起こらないように辣腕を振るってる。
商会の顔役をやっているシリノは、ビビッてここまで来ていない。代わりにアイツの側近が来てる。名前はファウストだったか……雇い主と離れてるからか、いつもより顔色は良い。
侵攻範囲、戦力、被害状況は今のところ問題なしだ。
「浮かない顔だね」
フベルトさんが言う。彼の言う通り話の内容とは反対に、ヒルさんは何か気になっている様子だ。
「あー、懸念点がふたつあってな……ひとつはさっき言った"傭兵部隊"についてだ」
「ふむ」
「人数は30人くらいで、自分たちのことを"ネグロン家の剣"って呼んでる。
戦闘を得意とするグループが金を稼ぐために侵攻作戦に参加することは珍しいことじゃない。旦那のディマス騎士団とかな。
連中が異色なのは、構成員全員が"聖遺物"やら"魔剣"やらで武装してることだ。連携は今一つだが、個々人の練度は高い。奴らの参加から侵攻速度が上がったのは事実だと思う」
「それの何が問題なんだ?」
「素行が悪い」
「なるほど」
「チンピラみたいのが混ざってんだよ。そもそも黒い森で戦うのは初めてなんだろうな、その辺はしょうがない。だが木こりや他の傭兵を自分たちの手下みたいに扱いやがる。
野営地内で徐々に反発の声が上がってるのが気がかりだ。ここはあくまでも黒い森だし、仲間割れは避けたい」
「良い状況じゃないな。もうひとつは?」
ヒルさんがシンイーさんに目配せすると、代わって彼女が話し始める。
「作戦が順調すぎるんだよね」
「と言うと」
「"鳳凰"を飛ばして森の様子は監視してるけど、魔物の抵抗が少ない。特殊個体の数も少ない気がする。ここまで深く森に入ったらもっと出てきてもいいのに。
それに撤退するような動きを見せる個体もいる。これは今まで見たことが無い。何だか不気味だよ」
「うぅん。敵と味方、どっちにも不安があるのか。落ち着かないな」
「ああ。魔物の動向はシンイーが、"ネグロン家の剣"の方は自警団で調べてる。
ネグロンって名前は聞いたことがあってな。確か王の臣下をやってるうちのひとりだ。貴族の後ろ盾があるんだろう。まだ何とも言えないが、クサい連中だ。気を付けてくれ」
「ああ、分かった。ありがとう」
忠告を貰い、少し会話して別れた。ヒルさんたち自警団は明日の作戦に参加するようだ。僕たち3人も同行させてもらって、伐採部隊で仕事をすることになった。
「あの、さっきヒルさんが言っていた聖遺物って――聖人の遺骸とか、身に着けていた物でしたっけ?」
この世界に来てから何度か耳にしていた単語だったが、詳しく聞いたことがなかったので聞いてみる。
するとアントニオさんが答えてくれた。
「元の世界じゃそうみたいだな。でもこの世界だと違う。聖遺物は、使徒がこの世界に遺していったレガロのことだ」
「ああ、なるほど。ラロさんとかが送還されたあと、"死の舞灯"がこの世界に残っていればそうなるんですね」
「そうだな。件の傭兵連中は過去に使徒が使っていたレガロを持ってるってことじゃないか?
でも俺の川の怪物 とか、フベルトの神馬の子はどうなるんだろうな。レガロは切り離されたら持ち主の身体に負担がかかるんだろ?」
「負担はかかるけど、ほとんどのレガロは切り離せるらしい。俺は最悪死ぬからやらないけど」
アントニオさんの疑問にフベルトさんが答えた。フベルトさんはグラニを失った時、しばらく生死の境を彷徨ったと聞いている。自らレガロを切り離すことはしないだろう。
ラロさんは切り離すことを前提としたレガロだから、身体への負担は大きくないように見える。使徒それぞれ、ということか。
「へえ、今度イザベルちゃんとカードするとき賭けしてみるかな」
「聖遺物、物によっては闇取引で売ると一生遊んで暮らせるって」
「ホントか?イザベルちゃんどんな反応するか楽しみだな……」
アントニオさんは発現させた黒いナイフを眺めながら、聖職者が聞いたら泣き出しそうな会話をしている。
何だか力が抜けたというか、精神がどんよりとしてしまった。僕は彼のように気持ちの切り替えはできない。
そうして数日の間、伐採部隊の護衛として働いた。
後方の部隊にいるとはいえ、ここは黒い森の相当に深い場所だ。それなのに魔物の数は少なく、勢いもないように思う。
楽であるのだが、不穏さを感じる。まるで最初の侵攻作戦の時のように、何かに機会を図られているかのような――
休憩時間に顔見知りの木こり数人と目が合ったので、挨拶を交わすと自然と会話になった。
「武器届いてるぜ、わざわざありがとうな」
「い、いえ。大丈夫です。あの、新しく来た傭兵さんたちのこと聞いてますか?聖遺物使うっていう」
「ああ、知ってるよ。あんま関わんない方が良いぜ?連中強えのは間違いねえが、礼儀がなってねえ」
「そうだな、礼儀も戦い方も人によってバラバラだ。どっかから寄せ集めてきたんだろ」
「騎士みたいなのもいれば、喧嘩屋みたいなのもいる。噂じゃあシリノの馬鹿が関わってるみたいだ」
それぞれ思うところがあるのか、顔に悪感情を滲ませながら口々に話していた。
「そうなんですね、皆さんも気をつけてください。ヒルさんも気を付けるように言ってました」
「おう、ありがとな。まあいざとなったら、後ろからぶった斬って狗共のエサにしてやるさ。心配すんな」
そりゃ良い、ガハハハッ、と木こり達は笑っている。彼らならやりかねない。長年この街で暮らしているだけあって、羨むほどに逞しいひとたちだ。
少し迷ったが、勘治先生が木こり達に話していたかどうか気になり、思い切って先生の送還のことを聞いてしまった。
「あの、皆さんは勘治先生の送還のこと、知ってましたか?」
「ああ?先生……?まさか、今月か!?」
「ええ、はい」
「そうか……まあ付き合いは長いからなあ、そろそろだと思ってはいたが」
「先生の送還祭は見たかったなあ」
「作戦には来るんだろ?そのとき礼は言えば良いか……」
先生の送還のことを木こり達は知らなかったようだ。だが、彼らはこれまで一緒に仕事をしてきている。ある程度、時期の察しはつくだろう。
「さ、休憩は終わりだ。護衛頼りにしてるぜ、ヘイト」
「あ、はい。了解です」
木こり達はそう言って作業に戻ってゆく。
先生は本当に最低限の人にしか送還のことを、別れの時期のことを伝えていなかった。そして、僕はその最低限の中に入っていなかった。
それに対して怒っているのか、悲しんでいるのか、残念がっているのか、自分でも分からない。ただただ、戸惑っている。
だが、例え事前に伝えられていたとしても動揺はしていただろう。送還が先延ばしにできるわけではないのだ。気持ちの整理はつかなかったかもしれない。
今の状況と変わらない。それならなぜ、僕はモヤモヤとした思いを抱えているのか。
勘治先生の送還。
不気味な夢。
味方と敵への懸念。
考えがまとまらない。
そんな中、送還祭を終えた教授、ローマンさん、
そして勘治先生が聖なる泉に到着した。