35話 ~憑霊~
夜闇の中、櫓の上のイケメンが手を振っている。
松明の明かりに照らされたイケメンが微笑みながら、こちらにひらひらと手を振っている。
「ローマン、何してても絵になるな」
と呟いたのは一緒に夜警をしているヒルさんだ。
それを聞いて、葉巻を口に咥えたラロさんが言う。
「そのうえ、弓で国の代表に選ばれたんだから、完璧だよな」
「え、そうなんですか……」
初耳である。どおりで彼の弓は百発百中なわけだ。
今の夜警は並んで見張り櫓を見上げているこの三人。この人選は昨日の夜と比べて気が楽だ。まあ人選には思惑など無く、まだ動ける人間を集めて適当にシフトを組んだだけだが。
交替の回数から察するに、あと2時間足らずで夜明けだろう。今夜は僕がひとりで周る時間帯もあった。
そのことをヒルさんに言ったら、寝坊では、とのことだ。担当する者の疲労が酷くて、交替の時間に起きられなかったのだろう。
どうせ僕は一晩中起きているのだ。ゆっくり休んで欲しい。
「伯爵、大丈夫ですかね……」
ディマス伯爵と、彼を心配していたふたりの騎士の姿が頭に浮かんで、口からぽつりと言葉が出た。それを聞いたヒルさんがあっけらかんと話し出す。
「ああ、あんくらい平気だ。旦那はもっと酷ぇ地獄を見てきてるからな。出てるゲロは本物だし、かなり苦しいだろうが、わざと大袈裟にやってんだ」
「なんでそんなことを?」
「ありゃ新兵に向けた見本なんだよ。自分の背中を見せて、お前らもこうあれ、気合入れろってケツ叩いてんのさ」
「スパルタだな」
ラロさんが鼻で笑いながら同意する。
「ああ。黒い森で戦った騎士はいい面構えをするようになる、っていつも笑ってるよ。大した御方だ」
ヒルさんの口調はどこか呆れを含んでいる。
「ぶ、部下思い?なんですね」
彼ら騎士団の仕事場は生死を懸ける戦場なのだ。騎士が弱く育った時、戦えず困るのはその本人である。ある程度の厳しさも必要なのだろう。
部下の成長のためなのだ。多分。
「どうだかな、旦那が街に来るたび俺は手合わせさせられて、騎士団に誘われてんだ。
剣を振るのと、自分の軍を強くするのは旦那の趣味だ。いい迷惑だよ」
違うのかもしれない……
「そういや昨日の手合わせ言い出したのも伯爵らしいな。見応えあった。
――あ、ヘイトのも」
ラロさんが思い出したように言う。
「え、僕試合には参加してませんが」
「この前ラグナルと戦ってただろ。あんな試合なかなか見れるもんじゃない」
そう言えばラロさんはあの暴動の時、ニヤニヤしながら観戦していたらしい。話していたことまで聞いたのだろうか。思い出して妙な恥ずかしさを覚える。
「こっちは必死だったんですけど……」
「だから良いのさ。帰る前にいいもん見れた。死の聖母に感謝だ」
クックッ、とラロさんは刺青まみれの顔で笑っている。いや、微妙に目が笑っていない。
怖い。
「今月の終わりにラロも送還か、領主と教会の連中は寂しがるだろうな……なぁ、元の世界でも教会に関わってたのか?」
「ああ?違えよ――しみったれた無法者だ」
「?」
ヒルさんの問いに、ラロさんが返答を濁している。何と返答したものか悩んでいるように見えた。
「へぇ。お前がか?」
「ああ、非合法な組織だ。非合法なタバコを売って、邪魔だったら人も殺す」
「へえ、自警団と大体一緒だな」
「違うさ――クソみたいな仕事だ」
ラロさんは自嘲気味に笑い、紫煙を吐いた。
「兄弟みたいに育った友達がいたんだが、敵の組織に殺されちまって、ムカついて何人かで復讐に行った。
その組織が管理してるコカ畑に行って、見張りの構成員を全員地獄に送って、畑を全部焼いてやった。
仲間が農家まで撃ち殺しちまって、気が付いた時には、生きてるのは俺ひとり」
もしや、と思い反射的に下を向いた。どうやら超弩級の重い話に急展開してしまったので、できるだけ静かにする。空気になるのだ。
「殺って、殺られて、周りが炎に飲まれて、地面に寝転んで、空を見てたら、煙を吸ったのか、葉が燃えてたからか、笑えてきて、もう何もかもどうでもよくなっちまった」
「へえ、そっちの世界も不条理だねえ。で、そこからどう生き残ったんだ?」
ヒルさんは微塵も動揺した様子を見せず、世間話をしているかのようだ。
ラロさんはパチパチと燃える篝火のひとつを、やる気のなさそうな目でじっと見ている。
「それで終わりだ。意識がなくなって、気づいたら仏頂面の神と面会してて、この世界に来てた。ヒルたちの仕事とは違えよ。
――戻ったとき俺が死んだことになってたら、もうやめるさ。葬儀屋でもやるかな。元の世界でも、死体はある」
ラロさんは葉巻を足元に捨て、ブーツで踏みつぶす。
「たくさんな」
ラロさんは、ヒルさんと僕を見て、どこか疲れたような笑顔で言う。
夜風が煙と灰を運び、見えなくなった。
雑談を続けながら夜警をしていると、
爆発音が野営地に響き渡った。
近い。
ガンガンガンガンッ!と間髪入れずに、櫓から金属音が鳴り響く。
異常事態、夜襲だ。
最初の爆発音は餓鬼だろう、特殊個体が出現している。
鐘の音と騒がしくなる野営地が、昼間の戦闘を思い出させて、嫌でも危機感を覚えた。
「魔物は待っちゃくれないな。ラロ、ヘイト、行くぞ」
昼間の戦闘による皆の疲労は大きい。
起きて戦闘準備するまでには時間がかかる。
魔剣を振った反動でディマス伯爵は戦えない。
タイミングは――
「最悪だな」
ラロさんが鼻で笑いながら呟いた。
「クッソ……」
爆発音のした場所に着いたと同時に、ヒルさんが悪態をつく。
同じ気持ちだ。あまりに酷い有り様に目を背けたくなる。
夜闇が細部を隠しているが、すでに傭兵の数人が血だまりの中に伏していて、狗が群がっている。
柵にはペタの爆発により大穴が開き、そこから入り込んだ狗と、抵抗する傭兵が入り混じって戦っていた。
混戦状態だ、連携も何もあったものじゃない。
中身の入ったボロボロのブーツが転がっている。
「俺は傭兵に加勢して陣形を立て直す。ヘイトは穴まで突っ込んで足止めやってくれ。
ラロは柵の向こう側を焼いて、狗の勢いを削いでもらえるか?炎に照らされてローマンが狙いやすくもなる」
「了解です」
「分かった」
ヒルさんが端的に指示を出し、二振りの山刀を抜いた。
革のハーネスに装着されているホルスターから斧を取り、混戦の真ん中に突っ込んだ。両手で持った斧で、狗の脚を払い、顎に刃を叩き込みつつ、壊れた柵に向かって進む。
引き倒される傭兵の掩護をしたいが、それはヒルさんに任せるしかない。
斧を振り、殴り、蹴り転がして、爆破跡に辿り着いた。同時に目の前を炎が舐め、新手の狗を黒焦げにする。
火を抜けて来た狗の頭に、上から斧を振り下ろして叩き潰した。
これ以上柵の内側に入られたら、非戦闘員にまで被害が出るかもしれない。負傷者のいる野戦病院まで突破されたら悪夢だ。
自分の身体を、柵にできた穴の栓にして、絶対にここで敵を押しとどめる。
駆けてくる狗の口に向かって、斧を振り上げ顎関節を破壊する。
別の狗に脚に喰いつかれて姿勢を崩された。咄嗟に左手で狗の頸をホールドし、腰のナイフを抜き放って、肋骨の隙間から肺を掻き出すように滅多刺しにする。
力が抜けた狗を離し、斧を拾って姿勢を立て直そうとする。別方向から接近する狗の姿が、炎に照らされてはっきり見えた。
間に合わない……
せめて姿勢を低く、と思った瞬間、狗の身体がバラバラに弾け飛んだ。ローマンさんの援護射撃だ、頼もしい。
ラロさんの炎と、ローマンさんの衝撃波による援護があるから、多勢に無勢だが戦える。
転ばせた狗の頸に刃を振り下ろした。
よし、このまま――
足元で、何かが動く。
世界がスローモーションのようにゆっくりと動き始める。
膝くらいの身長、クルミのような頭部を傾げて、こちらを見上げている。
針金のように尖った指先を、己の肥大した腹部に向けていて――
餓鬼――
まずい――
後ろには皆が――
咄嗟にペタの硬質な頭部を掴み、
投げた。
爆圧と、
鎧に当たる破片。
身体が宙に浮いて――――
目を開いても、視界が真っ暗だ。
うつ伏せになっている。地面を見ているだけか。
呻きながら、地面に手をついて重たい身体を起こそうとすると、揺らぐ視界の端に駆けてくる狗が見えた。
斧はどこかへ行ってしまった。左腰の魔剣を、と思うが力が入らない。
無抵抗で突進を受け、馬乗りになった狗が首に噛みついてきた。手で押しのけようとするが、ダメだ。
立ち上がらなくちゃ、
そう思ったとき、力士のような体格の男性がタワーシールドで狗を蹴散した。
白い肌で、金髪。彼の不安げな顔が目の前まで来る。
ああ、レオンさんだ。
ヘイト、立てるか!?という声がずいぶん遠くから聞こえるのは、聴覚がバカになっているからか。
肩を借りてふらつきながら立ち上がると、さっきより多くの人影が見えた。どうやら徐々に増援が集まり、戦局が良くなっているようだ。
鍔の無い日本刀を閃かせ、群れに斬り込む姿も見える。
「一旦退こう」
レオンさんに肩を借りながら、陣形の後ろまで歩いて倒れ込むように座った。柵の中に入った狗はすべて仕留められたようだ。
身体の力と感覚はやっと戻ってきたが、粘つくような身体の重さを感じる。ペタ1匹にここまで追いつめられるのか、注意しないと。
掠れた声でレオンさんに礼を言うと、
「いや、君の判断のおかげでペタによる人的被害はなかった。だがあの至近距離で爆発を食らったんだ。もう休んでいた方が良い」
レオンさんは鎧に着いた土くれを手で払いながらそう言ってくれる。しかし、休むわけにはいかない。
「戦います」
魔剣を鞘ごと革のハーネスから外し、杖にして立ち上がる。
「なんで、そこまで……」
怪我人を減らしてきてください、とキレながら言うアイシャさんが頭をよぎった。
「皆が受ける怪我は、僕が引き受けます。そのための鎧ですから」
場違いなのは重々承知だが、彼女の姿を思い出して鼻で笑いながら答えてしまう。
「それは……」
レオンさんは絶句し、表情が沈んだ。
「私の――」
「ヒル!」
レオンさんが次の言葉を継ごうと口を開くと、それを遮るように自警団員がふたり走って来た。
ふたりは膝に手を着き、息を切らしながら報告する。
「野戦病院が――ある方向の柵が、壊されてる」
「は?……状況は?」
「ビダルが柵を補強して、辺りの傭兵を集めて狗を食い止めてる。柵を破ったのは憑霊だ――警備をしていた奴が"子"になってた」
「"親"は抑えてるのか?」
「いや、野営地に侵入されてる」
「嘘だろ……」
特殊個体。
黒い森の憑霊。
体長2mほどで、地面に拳を付けながら移動する、屈強な身体を持つ霊長類に似た魔物。体表は青みがかかっていて、乱れた長い頭髪が老人のような顔にかかっている。
その筋力は単純なタックルや腕の振りだけで、柵や人間を蹴散らしてしまうほど強いという。
加えて、人間の死体に魔法をかけて、"子"と呼称される敵性存在を作り出す。
戦闘が泥沼化して死体が増えるほど、敵の数が増えて戦局が悪くなるから、できるだけ早く本体である"親"を処理しなければならない。
が、力強さと耐久力。巨体に見合わぬ機敏さを持ち、単純に白兵戦をしても苦戦する敵だ。
ヒルさんはしばらく頭に手を当てて考え込むと、指示を出した。
「レオン、ヘイト。勘治を連れて野戦病院の方に向かってくれ。俺とラロはもう少しここの面倒見る」
お前らは野営地に警告して周れ、と連絡しに来たふたりにも指示を出す。
走り出そうとすると、
「ヘイト、持っていけ」
とラロさんが小指大の棒を渡してきた。
これは――
ラロさんはタトゥーだらけの顔でニヤリと笑う。僕は察して、小さく頷いた。
僕とレオンさん、勘治先生の三人で野戦病院に向かって走る。身体は重いが、まだ動く。動かさなくてはならない。
定期的に鳴らされる鐘の音が危機が去っていないことを伝えているから、それなりの人数が起き出して装備を整えているのが見えた。
「レオン」
勘治先生が隣を走っているレオンさんを呼ぶ。
「何だ」
「安置されてた死体が幾つあったか、覚えてるか?」
「ああ、そうか……クソ。
――確か、日が昇ったら弔う予定だったのが……6人だ」
「そうか――」
野戦病院になっているテントに着いた。篝火が倒れていて、夜闇が足元を覆う中、膝を着いている者や倒れている人影がかろうじて見える。
テントの入り口を守るように、ふたりの男性が4体の異形と戦っていた。
「俺が"子"を殺す。ウェンディゴを抑えろ」
勘治先生が返答を待たずに、鞘無を発現して機敏に動く異形へと斬りかかっていく。
急いで準備したのだろう。甲冑を最低限しか装備しないで剣を振っているふたりのうち、片方はアレホさんだった。
「アレホさん?大丈夫ですか!?」
「勘治様!?レオン様とヘイト様も?申し訳ありません、押されています」
無事でよかった……セナイダさんは?近くにいるのだろうか?
少し見回すが、彼女の姿は確認できない。
「"親"は?ウェンディゴは見たか?」
レオンさんが問う。
「安置所です。"子"もあそこから出て来た」
片方の年配の騎士が、肩で息をしながら指差して答えた。
そちらに目をやると同時に、闇から這い出るように3つの影が現る。
2体は革鎧を着用した手足を地に着き、蜘蛛のように這っている。モウセンゴケのように頭部がピンク色の粘毛で覆われた異形。あれが"子"だろう。かなり見た目は変わってしまっているが、人の面影を残しているだけに、やるせない気持ちになる。
勘治先生が引き受けた4体と合わせると、安置されていた遺体の数と合う。
そして、人より二回りも大きな体格で、皺だらけの顔をこちらに向けている魔物。威嚇するように口を開くと、錆びた釘のような歯が見える。
あれがウェンディゴ。目にするのは初めてだ。吐き気を覚えるような醜悪な外見をしている。
「君たち騎士で、"子"を抑えて貰えるか?"親"は――」
レオンさんが指示を出す途中で、ウェンディゴが猛烈な勢いで突っ込んでくる。
ワープするように距離を詰めるタックルを、レオンさんが構えるタワーシールド、業の盾が受け止めた。
「私たちがやる」
ウェンディゴは苛ついたように太い叫び声を上げ、殴打のように太い腕を振るが、完全に勢いを殺したレオンさんはびくともしない。
一際大振りの殴打をした隙を突き、盾の陰から飛び出して魔剣で斬りかかった。しかし、浅い。筋肉は硬くほとんど刃が通らなかった。
もう一撃入れて――
ウェンディゴが雑に振った腕に当たる。丸太がぶつかってきたかのような衝撃に身体が曲がった。
すかさずレオンさんが掩護して、追撃のパンチから守ってくれる。
「ありがとうございます。大丈夫ですか?」
「問題ない。任せてくれ」
怒りに任せるかのようなタックルやパンチを、レオンさんは最小限の動きで完封している。時折タワーシールドの陰から飛び出て、斬りつけて、また戻るを繰り返した。
青みがかかった身体には浅い切り傷が増えるだけで、ダメージがあるように見えない。ウェンディゴは僕を捕らえられずストレスを感じているのか、レオンさんではなくこちらを狙っている気がする。
動きながら周りの戦況を確認する。
勘治先生が相手をしている異形の数は3体に減っている。夜闇に紛れるように機敏な動作をする"子"は強敵のようだ。先生の腕前なら心配はないだろうが、時間はかかるだろう。
問題はふたりの騎士だ。アレホさんは経験が浅いとは思えないほど堂々と剣を振っているし、年配の騎士も確実に敵の攻撃を凌いでいる。
だが僕たちが到着するまで、疲労の残る身体で野戦病院を守りながら戦ってきている。荒い呼吸をし、剣の切っ先が下がってきているから、限界はそう遠くない。
さっさとウェンディゴを殺してアレホさんたちに加勢したいが、こいつの耐久力は伊達じゃない。筋肉も硬いし、焦れば強烈な一撃をもらってしまう。
僕とレオンさんでは、負けないが、勝てない。
どうする?一か八か、眼球から脳でも狙うか?先生じゃあるまいし、そんな針に糸を通すように正確な攻撃が僕にできるだろうか。
「――ハァアッ!!」
迷っていると、気迫の籠もった声と共に人影がウェンディゴを後ろから斬りつけた。皺だらけの顔が苦痛に歪み、耳障りな叫び声を上げてこちらに背を向ける。
その背中には大きな数本の裂傷ができ、背筋が裂けて白い骨が覗いていた。
人影は、振るわれる剛腕をバックステップで避ける。同時に左斬り上げを放って太い手首を切断した。
大理石のように白い柄と鍔、血に濡れたブロンズの光沢を放つ刀身。"エレンスゲの棘"だ。そして、魔剣を構えるその姿は……
「セ、セナイダさん」
胴と両腕に甲冑を着けて、白い唾を吐き捨てるセナイダさんが立っていた。
「おふたりとも援護をお願いします。私がこいつを仕留めます」
セナイダさんは猛獣のような眼光で魔物を睨んでいる。いつか見た魔物に対する緊張は、無い。
セナイダさんが加勢してくれたことで、流れが変わった。
レオンさんが力任せに放たれる攻撃を、巧みにキープアウトで防ぐ。僕は剣先で敵の眼球を狙い、ストレスを与えてセナイダさんから注意を反らす。
セナイダさんが隙を突き、7回に複製された大剣の斬撃で、強靭な身体をズタズタにしていく。
数回の攻防の末、上段から振り下ろされたエレンスゲの棘が、ウェンディゴの右肩に深く食い込んだ。噴水のように血飛沫が飛び、腕が千切れかかる。
殺った――!
そう思った時、刀身が肉に食い込んで抜けなかった一瞬に、左腕が振るわれた。直撃したセナイダさんの身体が、数メートルも転がって倒れる。
「セナイダさんっ!」
僕とレオンさんの注意が彼女の方に逸れた一瞬、ウェンディゴのタックルが当たり、レオンさんごと僕の身体が転がった。
腕に力を入れて何とか身体を起こすと、攻撃をもろに食らったレオンさんが、足を抑えて歯を食いしばっているのが見えた。
敵の右腕は、エレンスゲの棘が食い込んだまま垂れ下がり動いていない。ウェンディゴは血まみれの巨体でゆっくりと、夜闇に沈んだセナイダさんの方に向かっている。
呻きながら、鉛が詰まったかのような身体を立ち上がらせて走り出す。
"子"が、人の形を残しながら魔物と化した異形が、アレホさんに襲い掛かっているのが見えた――
「畜生ッ」
走る勢いで後ろからウェンディゴの背中に飛び掛かり、左腕で裸絞にし、右手の魔剣を突き刺す。
ウェンディゴは絶叫を上げた。渾身の力で頸を絞めても、筋肉の塊かのような身体が暴れて振りほどかれそうになる。
死ね――
振りほどかれたら、セナイダさんがやられる。ここで負けるわけにはいかない。
死ね――――
魔剣は刀身の半分まで刺せたが、骨に当たったのかこれ以上進まない。
死ね――――――
ウェンディゴの力が弱まらない。
セナイダさんは蝋が混じった血を吐きながら、手を地面に着いて立ち上がろうとしている。
まだ、生きている。
魔剣から手を離して両腕で頸を絞める。少しでもウェンディゴを足止めしようと、死力を尽くして身体を反らせた。頭の位置が上がって視界が開ける。
勝てない……
夜闇の中に、篝火の灯りで浮かび上がる、櫓が目に入った。
閃き、身体が動く。
左腕で太い頸を絞めながら、さっきラロさんから預かった"死の舞灯"をハーネスから取り出して、鎧の面に思い切り擦り付けた。
摩擦によって着火した死の舞灯が僕ごとウェンディゴを燃え上がらせ、劫火に包む。
炎熱に苦しむウェンディゴは、未だ暴力的な力で抵抗してくる。
まだ死なないのか、こいつ。
だが、これで終わりだ。
燃え盛る右手を挙げ、手を、12時、6時、3時――
上、下、右――
気付いてくれるだろうか?
大丈夫。彼なら気付いてくれる。
そんな信頼が、心に灯っている。
覚悟を決め、暴れる魔物を、左腕で絞め上げる。
次の瞬間――
破裂音が聞こえるのと、ウェンディゴと、おぶさっている僕が後ろにぶっ飛ばされたのは、同時だった。
衝撃が直撃した身体は、上も下も分からないほど転がり、どこかのテントを突き破る。
唐突に、身体の回転が止まった。
重い瞼を開くと、頭を失ったウェンディゴが血だまりを広げながら、ピクリとも動かず倒れているのが見える。
衝撃波なら、と思ったのだ。
さすがはローマンさん。
瞼が重い、視界が塞がっていく――
まだ、セナイダさんを安全なところに移動させなくては。"子"も残っている。
「……ヘイト様。アレホとセナイダが世話になった。後は任せて休み給え」
誰かに、肩を抱き留められているようだ。
「"調和"の悪魔よ、契約を履行する……
"戦士"の悪魔よ、契約を履行する……
"火炎"の悪魔よ、契約を履行する」
低く威厳のある声が、すぐ近くで聞こえて、
「この礼は必ず」
意識が闇の中に落ちた。