29話 ラグナル・ヘダン ~その4~
夢を見た――
紅いランドセルを背負った少年が、前を歩いている。
「うらやましいなあ」
「え?」
夕日の逆光はその姿を黒く塗りつぶして、曖昧にしている。
ヒグラシの鳴き声が残響となっているが、彼の声は明瞭に聞こえた。
「ササキん家はうらやましいなあ」
「なんで?」
こちらに向けられた言葉の意味を理解できず、
まともな返答をすることも、瞳を逸らすこともできない。
彼はゆっくりと歩いている。帰りたくないかのように。
「父ちゃんも母ちゃんもいるんだろ?メシ食えんじゃん」
「夏休み……」
学期の終わり、夏休みに入る前、クラスの皆が浮かれる中で、僕とケイちゃんだけは憂鬱だった。
彼の着ている洋服は首元がたるんでいて、そこから青紫の痣が覗いている。
「給食、明日から無いんだよなあ――」
「そうだね……」
うらやましい、
うらやましい、か。
彼の発した言葉が、頭の中で残響となっている。
少年が不意に立ち止まり、こちらに振り返った。
「テアちゃん……」
紅いランドセルの少年は、儚げで、可愛らしい少女の姿になっていた。
プラチナブロンドの三つ編みが、夕日に照らされてキラキラと輝いている。
「ヘイト様」
僕は剣を握り締めて、黒を基調とした厳めしい鎧を着ている。
「しあわせですか?」
彼女は頬を緩めながら問う。
ケイちゃんに比べたら、僕なんて――
少し迷って、小さく頷いた。
その答えに満足したのか、テアちゃんは屈託のない笑顔を見せてくれた。
――僕は、幸せなのだろう。
雨音が聞こえる。
椅子にもたれ、すっかり重力に負けた姿勢を戻しつつ、ゆっくりと瞼を開く。
街の教会には雨音が反響し、満ちている。時間的に日暮れが近いのか、礼拝堂の中は薄暗く、白い修道服を着た人をちらほら見かける程度の人数しかいない。
眠くなることなどなかったのに、と思うが、侵攻作戦が終わってから今日までの数日間、気の休まらない日々を過ごしてきたからか、ここに到着した途端に瞼が重くなってしまった。
領主館に滞在していた数日間で、僕がラグナルさんと戦っていた時、杭の外がどうなっていたかを教授に聞いた。
侵攻作戦自体は成功だったそうだ。
特殊個体の報告数は確かに多かったが、充分な戦力を投入したことで被害を抑えることができた。
伐採した木の量も問題なし。
しかし、そのあと僕たちが起こした事件は、やはり大事になってしまった。
真っ先に動いたのは、ラグナルさんとよく一緒に仕事をしていた木こり達と、魔法使いのビダルさん、そしてレオンさん。
彼らはテアちゃんのこともよく知っていたから、数十人が僕たちを制圧しようと動き出して、勘治先生たちと衝突した。その様子は、死者が出なかったことを疑問に思うような状況だったらしい。
僕たちを取り押さえようと徒党を組んだ木こり達に対して、グラニを駆るフベルトさんが木の棒を持って暴れ、ローマンさんが矢じりを落とした矢で手足を撃ち、勘治先生は木刀で殴りまくった。
ビダルさんとメサさんは魔法の出し合いになった。しかし、ビダルさんは根絶作戦と侵攻作戦でかなり魔法を使ってしまったようで、終始メサさんが圧倒していた。
アントニオさんは、乱入してきたイザベルさんの相手をしていた。レイピアを振るう彼女はずっと楽しそうにしていたという。相変わらずよく分からないひとだ。
僕たちの中で、ずっと懸念点だったのがレオンさんだ。彼の持つタワーシールドは"業の盾"という名で、触れた物質の運動エネルギーを瞬間的にゼロにしてしまうようだ。
斬撃も弓矢も含め、あらゆる物理攻撃を止めてしまうレオンさんひとりに、僕たち全員が完封される恐れもあった。
そんなレオンさんを、フェルナンドさんは普通のロングソード一本で抑えて見せた。
事が済んでから、攻め切れませんでした、と申し訳なさそうに言う彼には、皆唖然としてしまった。
ラロさんもあの場にいたらしいが、僕とラグナルさんの殴り合いを杭に寄りかかってニヤニヤとしながら観戦していたらしい。
全く気が付かなかった。
状況は、勘治先生派の木こり達が乱入してきたことで、混沌としていった。一緒に仕事をする機会の多い彼らは、僕たちが武器を向けられているのを見て、加勢してくれた。
だがこれは、火に油を注ぐことになってしまう。辺りは罵声と怒号で騒然としていき、暴動のようになっていった。
鎮静化したのは、先生の堪忍袋の緒が切れ、鞘無で数人の木こりを斬った時だ。
辺りは冷や水をかぶったように静まり返った。強烈な殺意を発する勘治先生には、フベルトさんやローマンさんを含めて誰も近づけなかったという。
そのタイミングで、教授が根回しをしていたヒルさんと、自警団のメンバーがその場にいた全員を拘束して、やっと事態は落ち着いた。
事前に打ち合わせがあったとは言え、キレた勘治先生を拘束したヒルさんが、うんざりした表情を浮かべていたのが印象に残っている。
拘束された僕たちは揃ってティリヤの領主館に連れて行かれ、今日に至るまでの数日間、軟禁されて尋問を受けた。
包み隠さずに事情を話したからか、手荒なことをされたわけではないし、建物から出ない範囲で動いて良いとのことだったので、特に不自由は感じなかったのだが……
この街の領主であるセフェリノさんに、長時間のお叱りを受けることになってしまった。大の大人が雁首揃えて怒られるさまは、滑稽だったろうが、僕はどうにも緊張が解けなかった。
領主曰く、
使徒同士が争うなど、事後処理はどうするつもりだったのか。
暴動の情報によって街が混乱することも考えてほしかった。
侵攻作戦は商会の範疇とは言え、事前に一言でも相談してほしかった。
メサやフェルナンドまで一緒になって何をしているのか。
――ぐうの音もでない。
セフェリノさんは冷静に、時に微笑みをたたえ、声を荒げることなく話していたが、よくもやってくれたな、と顔に書いてあった。
セフェリノさんは最後に特大のため息をひとつ吐いて、
「今回の件は、『テアが人間ではなく"影像"だと気が付いた使徒が、これを討伐した』と発表します。
街の混乱を最小限に抑えるために吟遊詩人たちを使うことになるでしょう。
ですが、目撃者まで完全に誤魔化すことはできません。あなた方はしばらく教会から出てこないで下さい。
これはあなた方の身を守るためでもある。
意見はありませんね?」
と、有無を言わせぬ口調で言った。
"影像"は特殊個体の中でも異質な存在で、いつの間にか家族や友人に成り代わり、コミュニティに紛れ込んでしまうらしい。
そうして知人だと思い油断していると、突然牙を剥いてくる。
テアちゃんが魔物だったことにする、というのは聞いていてつらくなったが、他に良い案など思いつかない。
テアちゃんの名誉を、僕にはどうすることもできないのを、悔しく思った。
教会に場所を変えて軟禁というのも、仕方がない。街の発表に納得のいかないラグナルさん派の木こり達が、どういう行動を起こすか予想できないから。
宿に殴り込まれでもしたら、女将さんや村の皆にも迷惑がかかる。ほとぼりが冷めるまで大人しくしておいた方が良いだろう。
裏方に徹していたことで特に行動を制限されていない教授が、木こり達と話をしに行ってくれることになった。
そういった経緯があり、明朝、人々が起き出す前に教会まで護送されてきた。これだけの騒ぎを起こしておきながら、ほとんど国会からの罰はなかったと言っていい。
アイシャさんは教会に戻ってきた僕たちを見るなり、泣き笑いのような表情をして、お帰りなさい、と言ってくれた。
彼女にも心配をかけてしまって、申し訳ないと思う。
固められ、首から吊られた右腕には、感触が無い。
無いが――
ふと、足音が近付いて来るのが聞こえた。
そちらの方向に目を向けると、
「ラ、ラグナルさん!?」
顔中に包帯を巻いているが、一目で分かる。
少し身構えてしまったが、剣呑な雰囲気は感じなかった。
「やあ、ヘイト。あー、隣いいか?」
ラグナルさんはどこか気まずそうにそう言った。僕は驚きが抜けず、
は、はい、と息を吐くような返事をして、席を少し詰める。
疲労からかその目は虚ろだったが、相対した時の敵意は感じられない。
ラグナルさんはゆっくりと腰を下ろした。
長椅子に並んで座り、前の方にある大きな十字架を見る。
「アイシャ、と言ったか?君がここにいると、彼女が教えてくれてね。帰る前に話をしなくていいのか、と」
「そう……ですか」
ラグナルさんと、何を話すべきなのだろう。非道なことを言い放った僕が、何を言えるというのか。
「ヘイト……君には礼も言わないし、謝りもしない」
「――当然です。言ってはいけないことを言いましたし、やってはいけないことをやりました」
そうか、とラグナルさんは呟く。
本心からの言葉だった。怒りをぶつけられるのなら分かるが、感謝も謝罪も貰える立場ではない。
固められ、首から吊られた右腕には、感触が無い。
無いが――人を斬った感触も、テアちゃんの表情も、しっかりと残っている。
僕は、謝るべきなのだろうか。
「5歳になったテアを連れて、家族で初めて海に行った時だ」
「え?」
話題について行けず、ラグナルさんの方を見ると目が合った。その瞳はどこか優しげで、続きを聞いてくれ、と訴えているように見える。
「――フィヨルドの小島で、木に茂った葉が輝くような夏の日だった。
いい天気だったよ……波も穏やかで、たまたま他の海水浴客もいなかったのを、よく覚えている。
私は海が好きだった。
海を眺めている時が、一番気持ちが安らいだ。
娘も、きっと海を好きになってくれると思ったんだ。
テアは最初から興味津々で、一緒に遊ぶととても楽しそうにしていたよ――
だが、砂浜でちょっと目を離した隙に、あの子はひとりで波の方に行ってしまった。
パパ、助けて、って声が聞こえて、
小さな波だったが、あの子もまだ小さかったから、足をすくわれてしまったんだね。
遠浅の砂浜だったから溺れるようなことはなかったが、海に引きずり込まれる感覚がして怖かったのだろう。
私の方を見ながら泣いているテアを見て、背筋が凍った。
急いで助けに行ったよ――
娘はすっかり海を怖がってしまって、もう近づかなかった。
大きくなればきっと好きになるわ、と妻は言ってくれたんだが。
――あれから、私が守らなければ、と強く思うようになった」
何と言えばいいか分からず、下を向いてしまう。
「さっき君と話すと思った時、ふとその時のことを思い出した。今の今まで忘れていたのに。
家族と離れたくない、と思いながら、皮肉なものだ――」
目線を下に落としたまま、次の言葉を待っている。
雨脚は、強まるでも弱まるでもなく、蕭々と降り続いている。
「この世界で出会った"テア"は、水を怖がらなかった。思えば当然のことだ。彼女は私と共に歩んできたんだから……
彼女に、一言礼を、と思ったんだが、もう呼べなくてね……」
ラグナルさんは、自分の両手を見つめてそう呟く。
レガロを発現させられるまで、体力が回復していないのだろう。
テアちゃんには、もう会えないのか――
「君は、その――両親と上手くいっていないのか?」
「あ、えっと」
また話題の転換について行けず、言葉が詰まってしまった。
「いいんだ、答えなくてもいい。ただ、あんな言葉、普段から感じていないと出てこないと思ってね」
戦闘中に口走ったことだろう。自分でも何故あんな言葉が出てきたのか分からない。
「ごめんなさい。
――よく憶えてないんです。
ただ、両親には、家には、あまり帰りたいと、思いません」
「そうか――」
曖昧な返答のせいか、何度目かの沈黙が訪れる。
静かに降り続く雨が、教会に反響している。
「ヘイト。私とひとつ約束をして欲しい」
「え?」
「私は、帰ったら――妻と話してみるよ。まだ、待っていてくれたらだが。
――怖いな。なんて切り出したらいいのか分からない。
だが、ちゃんと話してみる。
私たちの、未来について――どうしたいのか――」
「はい」
ラグナルさんは言葉を選びながら話している。彼が何を言おうと、誠実に答えたいと、そう思った。
「だから君も、帰ったら両親と話すんだ。」
「両親と、ですか?それが約束?」
「ああ、自分の気持ちを、どう思っているか」
僕が元の世界に帰ったとき、両親と話す。同じように、ラグナルさんも別の場所で不安を感じながら、家族と未来について話している。
そう思うと、少しだけ勇気が湧いてきた。
「同じ場所にいなくても、怖くても、仲間となら戦える――だろう?」
「――はい」
「約束だ」
ラグナルさんは僕が深く頷くのを見ると、満足したかのように屈託なく笑う。
その笑顔は、夢で見たテアちゃんにそっくりだった。
「さようなら、ヘイト」
彼はゆっくりと立ち上がり、礼拝堂の出口へと向う。
よろめきながらも、ひとりで歩く大きな背中を見送った。
それから数日後、ラグナルさんは元の世界へと還った。
送還の間際、見送りをする、彼の案内人を務めたシスターに、
この世界に来て良かった、と話していたらしい。