21話 使徒とイザベルと根絶作戦 ~その2~
狗。
黒い森の猟犬。
魔物を生み出すこの黒い森の中で、最も出会う確率の高い絶望。
四足獣のようなシルエット。全身を覆う緑色の短い体毛。
暗闇でも獲物を捉える嗅覚と聴覚。悪路でも速度が緩まない強靭な筋肉。
一目で異形だと分かる縦に割れた口。
生えそろった牙は、ずらりと並んだ包丁のようだ。
勘治先生が刀の才能、鞘無を出して狗の脚を丁寧に切り飛ばしていく。
ラグナルさんは右手に剣を、左手に手斧を持ち、一振りで狗を両断していく。
奴らからは死への恐怖というものが感じられない。脚を失くしても、顎を砕かれても、感覚器官を潰されても、逃げることなく命を奪おうと襲ってくる。
1匹でも脅威となる化け物が、黒い森に入った途端に数十という群れで向かってきていた。
こちらが取れる戦術は少ない。
弓矢による一斉射撃。騎馬隊による突撃。大がかりなファランクスなど、大軍を相手にする際に思いつくような戦術は、僕たちを取り囲むように生える木立と狗の機動力のせいで効果が薄い。
ローマンさんが弓のレガロ、衝撃波で接近する狗の数を減らしているが、味方や枝葉に当てないよう気を遣っているから、弓を引く回数は多くない。
フベルトさんは前線に来ていない。神馬の子は強力なレガロだが、伐採が済んでいない森の中ではその巨躯が邪魔になってしまう。
こちらに有利な点があるとしたら、敵の殺傷能力が牙に依存していることと、攻撃が群れを成しての突撃だけでワンパターンなことだ。
縦横無尽に森を駆けてくる狗共の勢いを、急造の障害物や罠、盾で止める。どうにかして隙を作ったら、あとは白兵戦だ。
「我が信仰を、前へ進む力に」とイザベルさんが呟いた。彼女の繰り出すレイピアでの刺突が目で追いきれないほど早くなり、剣を向けられただけで狗が倒れたように見える。
ヒルさんは魔法による変身はせずに、両手に持ったマチェーテで戦っている。
僕は前線で荷物を担ぎ、一歩引いた位置から皆が戦う姿をただ見ている。――無力さを感じながら。
「2時方向!30匹は来るぞ!」
辺りを警戒していたローマンさんが叫び、それを聞いたラグナルさんが指示を飛ばす。
「盾上げッ!
――ビダル、間隔を開けて鉄柵を出せ」
「心得た。"鉄柵"の悪魔よ、契約を履行する」
ラグナルさんの連れてきた魔法使いが、地面から次々と魔法の杭を生やした。その後ろに木こり達が盾を構えて戦列を作る。
「一息に殺す。イザベル、勘治、ヒル。私に合わせろ」
名を呼ばれた三人が、それぞれの得物を手に真剣な表情で頷いた。
間もなく狗の群れが全速力で突撃してくるが、柵と盾に阻まれ急激に勢いを失った。
「堰を切れッ!!」
木こり達が咆哮を上げ、一斉に盾で殴りつけて態勢を崩すと――
木こり達の隙間を縫うようにして四つの影が狗の群れに躍り込んだ。
イザベルさんの閃くようなレイピアが、勘治先生の舞うような鞘無が、ヒルさんの変身した畏怖を抱かせるような獅子が、ラグナルさんの嵐のように振るわれる剣と斧が、狗の群れを無茶苦茶に殺していく。
数秒遅れて木こり達が突撃し、槍で、斧で、棍棒で、まだ動ける狗にとどめを刺していき――
ラグナルさんが言った通り、あっという間に狗の群れは死骸の山になった。
何度見ても凄い光景だ。
自分の身体が万全だとしても、同じことはできないだろう。
太陽の光は真上から漏れている。根絶作戦が始まってからそれほど時間は経っていないようだ。
この辺りの狗を減らせているのか、奴らの攻勢は緩くなっているように思う。だが、進みづらい森の中で激しい戦闘を終えた皆は息を切らしていた。
顔の返り血を拭いながら、息を切らしたラグナルさんが、交代で休憩を取るよう指示を出した。
「怪我は無いか?テア」
ラグナルさんが近づいてきて、僕のそばにいる少女に声をかける。
「はい、主人。ヘイト様とアントニオ様に守って頂いておりますので、無事でございます」
「そうか――ありがとう、ヘイト。助かっている」
ラグナルさんはくしゃっと破顔した。
「あ、いや、大したことは……狗は僕のところまで来ませんし……」
そう答えながら、僕は担いでいる荷物から、ビールの入った革の水筒を彼に手渡す。
昨日のブリーフィングに同席していた少女はテアちゃんといい、いつもラグナルさんと一緒にいると聞いた。今回の作戦において僕の役割は、荷物持ちとこの娘の護衛だ。彼女には呪いの鎧から生えている尻尾を掴んで貰っていて、何かあれば引っ張ってもらうことになっている。
10歳くらいだろうか、ホワイトブロンドの長い髪を纏めている。儚げな雰囲気を持つこの可愛らしい少女は、見た目の印象とは違い体力があり、僕たちにしっかりついてこられる。勘も鋭く、狗の接近を教えてくれることもあった。
だが――
「前線は危険ではないでしょうか。進めばまた狗が襲ってくるでしょう?」
「ハッ。ラグナルの近くが一番安全だよ。お前も見ただろ?どっちが化け物か分からないね」
ラグナルさんの水筒をひったくって答えたのはイザベルさんだ。ひと口飲んで、
うえ、モグラのしょうべんみてえだ、としかめっ面で言っている。飲んだことあるのだろうか。
……確かにイザベルさんの言う通りかもしれない。ラグナルさんの戦いぶりには目を見張った。彼が力任せに武器を振るうと次々と狗が両断される。筋肉も骨も硬いから、自分が斧を当ててもああはならない。
「イザベルちゃんの言う通りだな。黒い森でこんなに暇になるとは思わなかったよ」
アントニオさんがおどけて言っている。彼は何かあったとき僕の援護をしてくれることになっているが、僕と同様に出番が少ないのでたっぷり荷物を押し付けられている。
「悪いなトーニォ。特殊個体が出たらお前に任せるぞ」
「ああ、少しは運動しないとな」
ラグナルさんがニヤリとしながら言うと、荷物を揺すりながらアントニオさんが答える。
アントニオさん、荷物を受け取るの嫌々だったからなあ。
しばらくすると羽音が聞こえ、枝の隙間を器用に通って大きな鳥が飛んできた。体長1メートルほどの孔雀に似た紅い鳥は、あっという間に高度を下げ――
僕の頭の上に着陸した。
「うわっ」
「ビビるなよ、ヘイト。"鳳凰"、シンイーちゃんからの連絡だ」
「大きい鳥が向かってきたら驚きますよお」
仮説基地にいるシンイーさんのレガロは、鳳凰というらしい。その姿は美しく、神々しささえ感じる。
だが、でかい鳥が飛んでくるというのは想像以上に恐ろしい体験だった。周りに木の枝などはいくらでもあるのだ。何も頭の上じゃなくたっていいのではないか?
首を動かすのだって気を遣ってしまう。
フォンファンは嘴に加えた紙をラグナルさんに渡す。手紙のようだ。
「作戦は良いペースで進んでいるようだ。今日は伐採が終わり次第、撤退しよう」
ラグナルさんの言葉を聞いたフォンファンが、空に向かって飛び立った。
しばらくして、散発的な襲撃を退けつつ撤退を開始した。歩みは遅いものの、勘治先生たちが殿となり、撤退戦はつつがなく進み――
根絶作戦最初の一日目は終わった。
二日目になった。
一日目より黒い森の深い地点まで進んだ僕らは、魔物の激しい攻撃に晒されていた。迫りくる狗共が防衛線に阻まれ、淀み、吹き溜まり、壁を成しているように見える。
先ほどから、狗の数がこちらの処理スピードを上回っていてまったく前に進めない。
傷を負う者も出てきた。負傷者がひとり出る度、応急処置と仮説基地まで運ぶ人でふたり必要になるから、こちらの戦力も確実に減ってくる。
ラグナルさんが指示を飛ばす。
「ビダル、鉄柵をありったけ出せ。ヒル、タイミングを見て狗共を散らしてくれ。ローマン、先に森の入り口まで撤退して、フベルトと一緒に待っていてくれ。トーニォとヘイトも、テアを連れて先に行け。
私たちは連中を釣る」
分かった、とローマンさんが短く答え、森の入り口に向かって走り出した。
ふたりとも走るぞ、とアントニオさんは言って、僕とテアちゃんを先導するように走る。
「撤退戦に入る!」
後方からラグナルさんの叫ぶ声が聞こえた。
しばらく転ばないくらいの速度で走っていると、景色が開けた。広い畑には、罠なのか幾本もの槍があちこちの地面に突き立っている。
太い木を倒しただけのバリケード、その後方には見知ったふたりが立っている。
矢筒を幾つも傍らに置いたローマンさんと、甲冑を着てグラニに乗るフベルトさんだ。
最初の侵攻作戦で助けにきてくれた時と同じ姿。
「殿の連中が狗を引き連れてくる。ここはあいつらに任せるぞ」
「え、ふたりだけですか?僕は……アントニオさんは援護しないんですか?」
「しない。邪魔になるだけだ。いいか?あいつらのレガロは強力すぎて、状況を選ぶ。これだけ開けていればあいつらの独壇場だ。それに――」
「?」
「あいつら、この間お前がやられたのを見て、気が立ってる」
ふたりとすれ違う時、ローマンさんとフベルトさんからはいつもの穏やかなものと異なる、張り詰めたような雰囲気を感じた。
殿の勘治先生、イザベルさん、ラグナルさん、木こり達が次々と走ってくる。最後に獅子に乗ったビダルさんがバリケードを飛び越えて戻ってくる。
十数秒遅れて、数えるのが嫌になるほどの狗が迫ってきていた。
「そろそろか……見てろ?」
アントニオさんが言うのと、鼓膜を破るような破裂音がするのは同時だった。
ローマンさんが矢を放ったのだ。残像さえも見えない矢は、2、3匹の狗をバラバラにして彼方の地面に突き刺さる。
ローマンさんは矢継ぎ早に射続ける。秒針が時を刻むかのように一定の間隔で破裂音がすると、次々と狗の強靭な肉体が紙切れのように引き裂かれる。おおよそ矢の威力ではない。
それでも速度を緩めない狗の群れは、やがてバリケードを飛び越え――
フベルトさんが動いた。
グラニに跨り、馬上槍を構えたフベルトさんが、狗の群れに真正面から突撃していく。
勢いの乗った槍の一撃は狗を血祭りにあげる。数匹突いた槍を捨てると、グラニを走らせながら突き立っている槍を引き抜き、次の獲物を仕留めていく。辺りの槍は、言わばフベルトさんの弾倉だったのだ。
グラニに踏みつけられた狗がぺしゃんこになり、後ろ脚の強烈なキックを食らった狗が、内臓を撒き散らしながら吹っ飛んでいく。
――蹂躙だ。
バリケードになっている倒木から外側をローマンさんの弓が、内側をフベルトさんが担当し、敵を殲滅している。木立と味方の無い開けた畑で戦う彼らは、水を得た魚のようだ。
「な。酷いもんだろ?」
とアントニオさんが、苦虫を嚙み潰したような顔で言っている。彼の言った意味がようやく分かった。あれでは自分がウロチョロしても邪魔なだけだ。
やがて狗の数が少なくなっていき、ふたりがこちらに手を振ってきた。それを見た木こり達が武器を手にやれやれといった表情で狗の方に向かっていく。
残党狩りをするのだろう。
木こり達とすれ違い、戻ってきたふたりは妙にスッキリした顔をしていた。
三日目になった。昨日の虐殺が効いたのか、思ったほど狗の数は多くない。
僕たちは順調に黒い森の中を進み続け、やがて景色の異なる場所にたどり着いた。
村、だった場所だろう。
地面は腐葉土ではなく、砂利を敷き詰めた道が通っている。数軒の家屋が立ち並び、中央には井戸のような物もあった。だが、そのすべてが枝葉に覆われ、民家や家畜小屋の内側から屋根を突き破るようにして木が伸びている。もう随分と人が住んでいない場所に見える。
発生から二週間しか――二週間前には人が暮らしていたはずなのに。
歩いていると、地面の質感に違和感を覚える。土でも砂利でもない。視線を足元に移すと、黒ずんだシミの付いた、ボロボロの衣類のような物が目に入った。注意深く見渡すと、ひとつやふたつではない数の黄色や白色の布切れが見つかった。
――逃げ切れなかった人がいたのだろう。それに気付き、やるせない気持ちになる。
僕が丁寧に拾い上げるのを見たイザベルさんが、
「根絶やしが終わったら、弔ってやろう」
と言ってくれた。
「――狗だ!建物の陰に潜んでるぞ!」
木こりのひとりが警告を発し、戦闘が始まった。
作戦が始まってから三日経っている。順調に進んでいるが、皆が感じている心身への負荷は相当なものだろう。
それに加え、狗の数は少ないがここは物陰が多い。建物で見えないところから急に狗が出てくるのだ。いつもより注意深く進まなくてはならない。皆は迫りくる狗を退けるのに集中していた。ラグナルさんの姿が少し遠くに見える。
ふと、後方の建物の影からゆらり、と人影が現れたのに気が付いた。
もしかしたら生存者だろうか?逃げ遅れて魔物から隠れていた村人が、僕たちを見つけて出てきたのだろう。
ボロボロの外套を着て、フードを目深に被ったその人は、斧を両手に持ちながらゆっくりと近づいてくる。その表情は窺い知れない。
「だ、大丈夫ですか?お怪我は……」
目の前まで来たその人にそこまで言って、気付く。
足が、無い。
その人はおもむろに斧を振り上げ――
そばにいるテアちゃんに振り下ろした――
「!」
咄嗟に彼女を抱きしめて庇うと、背中に強い衝撃が走った。
斬られた!?
「幽鬼ですっ!!」
テアちゃんが叫ぶが早いか、アントニオさんが川の怪物――拳銃のレガロ――を浴びせる。
斧を振るった足の無い人は、銃弾を受け、その姿をはらはらと霧散させていった。
「ヘイト、大丈夫か!?」
「は、はい」
アントニオさんのひっ迫した声に答えるが、何が起きたのか理解できない。
テアッ!!と、ラグナルさんが叫び声と共に飛んできた。
「ラグナル。幽鬼がまだいるかも知れない。俺はイザベルちゃんと辺りを索敵する。ヘイトを頼んだ」
アントニオさんは荷物を置いて、イザベルさんの方に向かっていった。
「ヘイト様。大丈夫ですか?傷は痛みますか?」
テアちゃんが鎧の斬りつけられた箇所を確認しながら声をかけてくる。
「だ、大丈夫ですう」
「幽鬼に付けられた傷は、化膿して酷く痛むのです。――すぐ戦えなくなります」
「あれが幽鬼……」
何度かその名前を聞いた。
「はい。人のようですが、魔物です。幽霊のようで見つけることが難しく、実体を持たないのか、レガロか秘跡、魔法でないとダメージを与えられません」
「本当に助かったよ、ヘイト。ありがとう。私でもあいつは殺せない。」
そう言うラグナルさんは心底ホッとしたような表情を浮かべている。テアちゃんのことが心配なのだろう。
あのレイスとかいう魔物、皆が狗との戦いに集中する隙を突いて、後方から接近し、戦闘能力の無いテアちゃんを狙ってきた。
あの魔物にはタイミングと標的を判断するだけの賢さがあるのだ。それに通常の攻撃が通らないとなると木こり達だけでは対抗できない。嫌な敵だ。
――ラグナルさんでも殺せない?彼の持つ武器はレガロではないのか?
「ラグナルッ!!手ェ貸してくれないか!?」
疑問をかき消すように木こりの救援要請が届いた。狗の攻撃が苦しいのだろう。ラグナルさんはテアちゃんを見ながら苦渋の表情を浮かべている。近くに居たいのだろう。
「ラグナルさん。僕はテアちゃんを連れてもう少し前線に近づきます。テアちゃんには指一本触れさせませんので、行ってあげてください」
ラグナルさんは僕の言葉を聞くと、後ろ髪を引かれるようにしながら戦列に戻っていった。
しばらくすると、戦闘は終わった。
黒い森の中にいるのに、襲ってくる狗はもういない。フォンファンが飛んできて、敵が見当たらないことを報告してきた。
木こり達はいくつかの木を倒して広場を作り、焚火――キャンプファイヤーくらいの大きさだが――をして村人の着ていた衣類を燃やしている。
「トーニォと辺りを見てきたが、もう魔物はいないね。いやあ、長かったあ」
イザベルさんは疲れを隠そうともしない様子だ。彼女は僕たちが到着する前から戦っていたのだ。仕方がないだろう。
「終わったんですかね……」
「ああ。魔物は殺し尽くし、私たちの仕事は終わった。明日から数日かけて木こり達が黒い森を根こそぎ切り倒すだろう。私たちの勝利だ」
ラグナルさんは焚火を見ながらそう言う。
イザベルさんが聞いてきた。
「なあ、気付いているか?ヘイト」
「い、いえ。何がですか?」
「あんたらが到着してからは死者が出なかったんだ。村人や聖騎士は残念だったが……感謝してるよ」
「あ、そういえば……」
「そうだな。今回の根絶作戦が成功したことで、木こり連中にも勢いがつくだろう。今月の侵攻作戦は上手くいきそうだ」
ラグナルさんの言葉を頼もしく感じながら、辺りが薄暗くなるまで皆で休憩を取った。