最終話 1月3日 いつの日か許し解けるまで
「ヘイト様――ヘイト様――」
女性の声が聞こえる。
暖かな陽光、鳥のさえずり、薄く木々の香りがする。
座っている椅子から皮膚へ伝わる、ひんやりとした感触が心地良い。
「大丈夫ですか――」
誰かが僕の肩を優しく揺さぶっている。重い瞼をゆっくりと開けると、眩しい日の光が目に入って来た。
「ああ、良かった」
僕の顔を覗き込むアイシャさんは安心したようにそう呟いた。彼女が振り向いた方向に目線を遣ると、芝生の上で大勢が宴会しているのが見える。
アイシャさんは手を振る。それに気が付いた皆がこちらへ近付いてきた。ぼやけた視界がだんだんとはっきりとして――
彼ら彼女らが見知った顔だと気付く。
よもや天国か、とも思ったが、ミックさんやダリアさんがいると言うことは違うのだろう。
生きている。
聖域だ。
広い円形の芝生。中央には石造りの椅子が置かれ、使徒がひとりそこに座る。縁のあった者たちが使徒を囲み、賑やかに、しかしどこか寂し気に、1年間を振り返っている。
この光景には既視感がある。
送還、なのだろう。
いよいよ僕の番が回って来たのか。
これまでと違うところがあるとすれば、芝生のところどころが剥げていて、戦いの痕が残っていることと、見送りに来る人数が多すぎること。
送還の時は人払いをかけるのではなかったか。そんな疑問を呟くと、
送還祭ができませんでしたから、とアイシャさんは困り眉で笑った。
主役である僕がぶっ倒れていた所為だ。別れを告げる機会を延期させて、特別に聖域で集まることを教会は許可してくれた。
わざわざ集まってもらって、時間を取らせてしまって申し訳ない。
――いよいよ送還かあ。
――あっという間だった。
使徒、魔女、街の皆。思い思いに話しかけてくれるひとの中に、セフェリノさんたちの姿はない。あれだけ迷惑をかけたのだから、僕の顔など見たくはないだろう。
皆、笑っている。
この期に及んでお別れの実感が湧かない。ちゃんと受け答えをしないと、そう思うのに、寝ぼけた回答しかできない。
――後は任せろ。
――寂しくなるなあ。
今日で、これで、お別れなのだから。
せめて差し出される手をしっかりと握って、目を合わせている時に気が付いた。
メサさんの姿がない。
悪い予感が頭をよぎって、身体が固まる。まさか、駄目だったのか。
髭を蓄えた大柄な木こりが屈託なく笑っている。目尻に涙が浮かべて。
――お前には何度も助けられた。
すぐに聞くことができなかった。
皆は失敗したことを知られないように、僕が傷つかないようにしていると、そんな風に見えてくる。メサさんはもうこの世にいないのだと聞いてしまうのが恐い。
知ってしまったら、自分を保てるか分からない。
木こりは袖で荒っぽく目元を拭うと、
忘れない、
ありがとう、
と。
聞こう。結末を。
このまま還って彼らを真実を隠させたままに……目の前の笑顔や涙まで嘘ではないと信じるために。
ぐっと腹に力を込めて、掠れた声を出した。
「め、メサさんは?」
皆は黙ってしまった。戸惑いが見えて、それが答えのようで。今度こそ何も言えなくなった。
「ほら、なに恥ずかしがってんの!」
ふ、と誰かが笑いを漏らした。
やっと来たか、という呟きも。
人垣がゆっくりと割れる。
その先に見える馬車から誰か降りてくる。
ふたりだ。
イザベルさんと、黒いローブを纏った人物だった。フードを目深に被った人物は、どんな顔して、とか、何と言えば、とか、イザベルさんに何やら小さく抗議している。
「さっさと行きなさいよ」
呆れ顔でイザベルさんはローブの背中を押した。
顔は見えない。
だが分かる。
反射的に椅子から立ち上がろうとして、足が縺れて転がった。芝生に顔を突っ込むと、草と土の匂いが鼻に入ってくる。
顔を上げると、ローブの人物がためらいを捨てて駆け出していた。
走るのに慣れていないのか、彼女も僕の目の前で転んでしまう。
彼女が顔を上げて、フードが捲れた。
白い肌に少しだけ乗ったそばかす、夕焼け色の髪は半分くらいに短くなってしまった。驚いたような表情のメサさんがそこにいる。
「ヘイト様、本当に、無理をして……」
メサさんの唇が震えて涙で言葉が止まってしまったのを見て、こちらの目頭まで熱くなった。こみ上げてくる名前のない感情は止められず、頬をとめどない涙が流れる。
彼女に抱き寄せられるがままに身体を預け、細い背中に腕を回して嗚咽を漏らした。
それから何を話したのか、涙でずぶ濡れのみっともないところばかり見せてしまって。それでも。
鼓動が伝わる。
肌の冷たさも分かる。
ふわりとカシスの香りがして。
ただ、これで良かったのだと。
呪いが解けたのだと思った。