173話 12月10日 通行止め
まずい。少し意識が飛んでいた。
瞼が閉じ切らないように格闘していたが、もう限界だ。何とか目を開くと、薄らぼんやりとした視界に人影が映る。
追手だろうか。逃げなければ。そうは思うが身体は言うことを聞かない。近付いてくる影を押しのけようとしたが、腕を上げるのが精一杯だった。
「ヘイト。しっかり」
人影は女性の声で話し、伸ばした手を握った。黒っぽい服を着ている。
「メサさん?」
「全然違うでしょ。ほら、しっかり。水飲める?」
唇に冷たく硬質な物が触れる。ガサガサに乾いた口の中に水が染み渡って、スプーンだということが分かった。
小さじ一杯ぶんの水を飲み込もうとして、咽て、咳き込んだ。なんとかして飲め、と言われながら口に突っ込まれ続ける水を飲んでいくうちに視界がはっきりとしてくる。
タトゥーの入った顔の女性がスプーンを持っている。フュールさんだ。オフィさんとキャンディスさんもいる。灰色の城塞都市はどこにもなく、荒野にあばら家が建っている。
天国にしては殺風景だし、地獄にしては工夫のない風景。見た覚えがある。魔女然としたおばあさんの家、契約の魔女の住処だ。
死んではいない。生き残れたのだろう。
試練とやらは終わったのだ。
オフィさんが振り向いて言う。
「ヘイトは試練を乗り越えた。契約は解除してくれるの?」
視線の先、あばら家の屋根に2羽の鳥が止まっている。真っ黒なカラスと、白い羽のコウノトリ、ただの鳥ではない、"鉄柵"の悪魔の遣いだ。
2羽は不気味な声で交互に話す。
「其の水薬を飲めば」
「契約の木は枯れる」
ポケットを撫でると水薬の入った小瓶の感触が確かにある。怪物に狙われる発信機だったが、やはり必要なものだったのだろう。拾っておいて良かった。
契約の木が枯れる……はよく分からないが、要は水薬をメサさんに飲ませれば悪魔の影響下から脱することができるのか。
「次だ」
「試練だ」
「はあ?何言ってンの。ヘイトは三日三晩生き残ったでしょ?」
反射的にキャンディスさんが抗議した。が、鳥共はさも当然のように、
「追手を殺した」
「"蛇竜"の奴の力を使った」
「聖遺物で塔を燃やした」
「規則を守れなかった」
「禁止だなンて聞いてない」
鳥共はこちらの話しなど聞かずに勝手なことを喋り続ける。
「汝の種も芽吹いた」
「契約の木は満ちた」
「汝は既に」
「我々の物」
「嫌なら」
「契約不履行だ」
「もうひとつ」
「水薬を求めろ」
試練を受ける直前に渡された植物の種のことを思い出す。
「フュールさん。あの種」
「……魔法の種。悪魔から渡されて、飲むことで魔法使いになれる。やっぱりか」
あれが契約の木とやらの種だったのか。三日三晩で僕の身体にも何らかの変化をもたらしている。"鉄柵"の魔法使いになってしまったのかもしれない。枯らすためには水薬が必要だと。
「薬、僕の分は」
掠れた声で鳥共に聞く。
「試練を受けなければ」
「水薬はひとつ」
「嫌なら」
「選べ」
「自分が飲むか」
「魔女に飲ませるか」
奴ら、初めから試練をクリアしようがしまいが僕たちを助けるつもりなどなかったのだ。
水薬はひとつ。現状で助かるのはメサさんか僕のうちひとりだけだが、あんな試練をもう一度はやりきれない。いくら口先で抗議したところでもうひとつ薬は渡さないだろう。
悪魔に主導権を握られた時点で負けていた。それを理解してしまい、忸怩たるものを感じる。
荒野の土を握りしめた。
「大切なおもちゃを壊されて不機嫌ですか?」
「死ね」
「死ね」
安い挑発で鳥共はいきり立った。見下している相手に舐めた態度を取られたからか。それを見て妙に冷める。
ポケットから小瓶を出してじっと見る。これがあればひとりは助けられる。"秘密"の魔女の方に差し出した。
「オフィさん。これをメサさんに」
「ヘイト、自分が何を言ってるか分かってる……」
オフィさんの顔に悲しそうな色が浮かんだ。でも、このひとなら受け取ってくれる。
「命を賭けるって言ったの、嘘じゃないですよ」
「試練を」
「受けないなら」
「契約」
「不履行だ」
「黒い森に」
「芯樹に」
「苦しめ」
「永遠にな」
鳥共は勝ち誇ったように叫んだ。
せめてもの抵抗に片目で鳥を睨む。極度の疲労からか不思議と恐怖はなく、家族や出会ってきたひとたちの面影がふわりと浮かんでは消えていく。
灰色の雲がゆっくりと流れ、月を覆い隠し、また白い光が荒野を照らした。それだけ待っても何かが起きるわけではない。
静寂だけが過ぎていき、鳥共が狼狽え始める。
「何故」
「何も起きない」
「芽吹いているはずだ」
「満ちているはずだ」
「使徒に魔法の種は芽吹かない。魔法使いにはなれぬ。黒い森にもな」
あばら家の方から途轍もなく違和感のある声が響いた。見ると、黒いローブにとんがり帽子をかぶったおばあさんが歩いてくる。
契約の魔女だ。
「汝が」
「使徒だと」
おばあさんは白目を剝いて背筋を伸ばし杖をついていない。佇まいだけが若々しく、男と女が混じった奇妙な声で話す。
「ハルファス、マルファス。自らの塔で使徒ごときを狩れず、みすみす水薬を奪われた挙句、負け惜しみか。どれだけ恥を晒せば気が済む」
「ルシフージュ!」
「ロフォカル!」
鉄柵の悪魔がヒステリーを起こす。その名は確か、"契約"の悪魔。
おばあさんがこちらを向いて口元を歪める。笑っているのか。
「"鎧袖"の使徒よ。面白い見世物だった。まさか鉄柵の奴の吠え面を拝めるとはな――」
「駄目だ駄目だ駄目だ!」
「水薬は褒美だ。立ち去るが良い」
「試練試練試練!」
"契約"の悪魔は溜息を吐き、魔女たちの方へと意味ありげに視線を移した。
「"蛇竜"の悪魔よ、契約を履行する」
巨大な蛇が身体をうねらせて飛びつき、2羽の鳥に噛みつく。カラスとコウノトリはバタバタともがき、黒と白の羽毛が大量に舞い踊らせてから―――毒蛇の腹に収まった。
「これで解決。さっさと街に戻ろ」
ふんっ、と鼻を鳴らしたキャンディスさんがそう言った。
がた。
辺りはすっかり暗い。家の扉を開ける。
「ただいまです」
「お帰りなさい」
部屋に入っても暗いが、燭台を持ったメサさんが出迎えてくれる。
「夕飯の用意できてますよ」
「作ったんですか?」
「まさか。いつものパン屋ですよ」
彼女は腕によりをかけて料理をするタイプではない。僕がそう思っているのを、メサさんもお見通しだ。
答えの予想がつく質問をして、想像通りの回答がきたことに満足する。
柔らかなろうそくの灯りが照らすテーブルには、サンドイッチやシチューが並べてある。彼女の向かいに座って食べ物をつまみながら、他愛ない話を交わす。
彼女は笑っている。
僕も笑っている。
幸せだ。しかし同時に、焦燥も感じる。この光景がろうそくの火のように、吐息のひとつで、ふっと消えてしまいそうな。
「あぁ、チーズを切らしてる――買ってきますね」
もう夜だ。店はやっていないだろう。立ち上がって扉に向かう彼女の後ろ姿に手を伸ばしたような。
僕に構わず扉が閉まった。
がた。
がたっ――
瞼を開く。
見えたのは薄汚れた幌と退屈そうな魔女たちの顔。そうだった。満身創痍の僕が気を失って空飛ぶ箒から落ちかけたから、馬車移動になったんだった。
道の凹凸に合わせて揺れ続ける馬車は寝心地が良いとは言えず、どれだけ寝ても元気が出ることはない。
「着いたよ。ノガル村」
馬車が止まり、フュールさんが言った。
重い身体を起こすと見知った風景が目に映る。僕たちが暮らす、メサさんが待つ村に帰ってきたのだ。
満足のいかない睡眠でも、眠ってしまうとなかなか寝れなくなるようだ。固いベッドに仰向けになってみたが、もう夢の世界には行けない。
「他の連中が帰ってきたら呼びに行くわあ」
「それまで休ンでな」
「大人しくしときなよ」
と魔女たちに言われて自室にいる。
部屋中に伸びていた枝葉は片付けられていた。隣のベッドに横たわる呪いの鎧からも枝葉は伸びていない、黒い森をうまく閉じ込められている。
ミックさんとオマールさんが酒場に帰ってきたと声がかかったのは、夜になってからだった。
「何があった?」
「悪魔とやり合ってきた。収穫はあったよ」
詰めるような口調で聞くミックさんに、やれやれとフュールさんが答える。
酒場でテーブルを囲み、並んでいる料理の皿の隙間に、水薬の入った小瓶を置く。
「その右目……」
数日ぶりに会うミックさんとオマールさんは、僕を見て絶句してしまった。
頭と右目は包帯で覆われている。背中の傷は深くはなかったが血を流し過ぎたようだ。貧血でずっと気分が悪く、目付きが普段より数倍は悪い。
「目ん玉に傷は入ってるけど、しばらくすれば治るんじゃない?」
キャンディスさんが雑に包帯をめくった。デュラハンの鞭で付けられた傷は黒い枝葉が覆っていて、かさぶたのようになっている。瞼を開くことはできないが痛みはない。
「悪魔との契約を解除する方法は手に入れました。聖遺物の方はどうですか?」
身体はボロボロだがそれに見合う収穫はあったと思う。一歩ずつではあるが確実に進んでいる。
あとは聖遺物だ。
この世界に召喚される時、使徒は神から才能を持たされる。
それら特殊な能力を持った武具や道具は、使徒が送還される時に贈り物としてこの世界に遺される場合があり、聖遺物と呼ばれるようになった。
売れば一生遊んで暮らせる、と言われる貴重な物品だ。
鎧袖の悪魔が言った、"身体を修復する聖遺物"さえ探して手に入れればメサさんを取り戻せる。
ミックさんが言う。
「イザベル、杏里、ダリアが王都に向かった。ちょうど着く頃だろう」
「王都ですか?」
「ああ。心当たりがあるとか、な。進捗は手紙で来るはずだ」
イザベルさんたちから連絡が来るまでしばらく待ちになるか。その間にできることはないだろうかと、そう思い、彼らの顔を見て暗い表情が気になった。
「どうしたんですか?」
ミックさんとオマールさんは言い淀んでいる。和気藹々とした酒場の中で、このテーブルだけ雰囲気が悪い。
「領主……セフェリノから書状が届いた」
歯切れが悪い言い方と、この領地を治めるセフェリノさんから書状が来た、ということに嫌な予感がする。
「な、内容は?」
オマールさんは口を開かない。ミックさんの方を見る。
「――要約すると、『8日後までにメサの死体を引き渡せ』」
「な……」
頭が真っ白になる。
「もし拒否すれば、セフェリノ騎士団と全面衝突だ」