171話 蓬莱の玉の枝
緑色の甲冑を着る首なしの騎士が大鎌を構え、馬を駆けさせる。城塞都市の大通りを真っ直ぐにこちらの方へ。
悪魔が用意した狩場であの狩人が僕を狙う。そういった趣向の見世物。
三日三晩、僕の首が繋がってたら勝ちだ。
考えている時間はない。
一番近い家のドアに手をかけた。鍵はかかっていない。急いで入る。
住人がいるかと思ったが、外よりも薄暗い家屋にはひとの気配がなかった。家具こそ揃っているものの生活感がない。
大通りにも人影がなかったし、この都市にはひとがいないのか。
衝撃音と共にドアが破られ、下馬したデュラハンが甲冑をこじ入れるように入って来る。呪いの鎧がない今、自分があの木でできたドアより固いとは思えない。
逃げるしかない。
隣の部屋には裏口があった。考える暇もなく出てドアを閉めると裏路地に出る。道幅は細いが、あの馬なら入ってこられる。
とにかく離れなければ――
「うわッ」
窓を突き破って大鎌の長い柄が飛び出した。走り出していたら頭を砕かれていただろう。踵を返し走り出すと、その先には、巨大な王宮がそびえている。
空では悠々と鳥が飛んでいる。
適当な家屋に入って呼吸を整える。
壁に背を付けて耳を澄ますと、石畳をゆっくりと進む馬の足音と、早鐘を打つ自分の心臓の音が聞こえる。
どっと流れる汗は、冷や汗かもしれない。
奴を撒けたかと思ったが、裏路地を進んでいると向かう先から現れたのだ。すぐに家屋に入って視界――頭がないのに見ているのか分からないが――から外れたが、デュラハンは近くで僕のことを探し続けている。
「何でこっちの居場所が分かるんだ?」
クソったれ、と呟く。悪態でも吐いていないとやってられない。
相手は完全武装の怪物だ。疲れ知らずで容赦もない。命乞いをしたら、仕事が減ったとばかりにあの大鎌を振り下ろしてくるだろう。
対してこっちは丸腰。
これを三日三晩。
悪い冗談だ。
もう少し魔女の忠告を聞いておいた方が良かったかもしれない。
「身体はホントに大丈夫?ヘイト」
「わっ」
突然、女性の声が耳元から聞こえて驚いてしまった。いつの間にか、シャツの裾から出た真っ黒な蛇が鎌首をもたげ、こちらを見ている。
「ちょっと、静かにしなきゃなンでしょ」
「え、キャンディスさん?」
声と少し訛りのある喋り方には聞き覚えがあった。
黒蛇はこちらを噛むでもなく、口を開かずに喋り続ける。
「あンたが魔法の種を飲んで倒れた時に仕込ンどいたの」
僕が意識を失った時、キャンディスさんは近くにいた。あの時に魔法の毒蛇を忍び込ませたのだろう。
「魔法だけは届くみたい。あ、あとこれ渡しとく」
手を差し出すと蛇がぺっと黒い棒を吐いた
「これって……」
「あンたの呪いの鎧を剥がした時に見つけたの」
どこか見覚えのある、黒い苔のような物に覆われた小指大の棒だ。キャンディスさんは呪いの鎧をメサさんに着せた時に、その内側で見つけた――
「もしかして……これ」
でも、何でこんなところに。
キャンディスさんの蛇は窓の外を見回しながら呟く。
「少し離れてったなあ、あの馬――――」
バサバサという音が聞こえたような気がした。
「――ッ!壁から離れて!ヘイト!」
急速に馬の足音が近付いてくる。
背筋に怖気が走り、咄嗟に裏口へ向かおうと数歩駆けたところで石材の壁が砕け散った。デュラハンの跨る馬が後ろ蹴りで大穴を空けたのだ。
また居場所がバレた。なんで。
転がるように逃げ出したところで、悪魔に渡された小瓶がポケットから零れ落ちたのに気付く。思わず手を伸ばしてしまい、足が止まった。失敗したことを察して目線を上げる。
家屋に押し入ったデュラハンは武器を構えている。
まずい。
大鎌が縦に振られる。切っ先は僕ではなく、床に突き刺さった。
外した……?
これまでの経験か、身体が勝手に動いた。小瓶を拾ってデュラハンの方向に突っ込み、奴とすれ違うように壁の穴から裏路地に向かう。
後ろから風切り音が聞こえた。
「痛……」
馬を無視して走り抜ける。
通りにいれば直ぐに見付かってしまう。家屋の中にいても、時間稼ぎにしかならない。それに丸腰じゃあ心許ない。
街並みはどこか王都に似ている。なら、隠れる場所や備蓄された武具が王宮にあるはずだ。この城塞都市の中央にある王宮へ向けて、裏路地に面した家屋を縫うように進んだ。
「どのくらい時間、経ったんだろ」
照明の切れたドームの中にいるかのように、城塞都市はずっと薄暗い。時計もないから時間の感覚がなくなっている。
隠れる家屋を転々と変えながら進み続け、やっと王宮まで来ることができた。遠くからでも巨大に見えていたが、敷地に入るとそのスケールの大きさを実感できる。
ちょっとした山のようだ。
適当な通用口から中に入り、長い廊下に出たところでへたり込んでしまう。
夜のように暗い王宮の中を、等間隔に並べられた燭台が細々と照らしている。
「こっちは次の夜だよ」
蛇が独り言に答えた。
夜宴から丸1日くらい経ったのか……
怪物に追いかけ回されて飲まず食わずで動き続けてきた。汗はあまり出なくなり、口の中はカラカラに乾いている。
ずっと追われているという感覚は精神を摩滅させている。キャンディスさんの声を聞いていなかったら、心がぽっきりと折れていたかもしれない。
それに、ずっと背中が痛む。
水薬の入った小瓶を落とした時、逃げる時に斬られたか。背中だから傷口は見えないが、シャツがぐっしょりと濡れている感触がする。
身体が重い。
あと2日。
「も、無理だ」
悪魔どもは始めから試練をクリアさせる気などなかったのだろう。生意気な口を叩いた僕を踊らせて、死ぬところが見たいだけだ。
使徒だからたまたま生きているだけで、試練の終わりまで逃げ切れるとは思えない。
「頑張ってよ、ヘイト」
「クソ……」
諦めたら、本当に死ぬ。
今度こそ、心の底で澱のように残った願望が叶う。
目を瞑って、口を噤んでいれば、直ぐにあの怪物が大鎌を持ってくる。運命の死神を待つ時間は少なくて済む。
「あンたが死ぬとこなンて、見せないでよね」
もう頑張らなくてもいい。すべての苦痛が勝手に終わっていく。
質の良いカーペットの上に座り込んで顔を両手で覆うと、暗闇の中にあの日の黒い森が見えた。
――誰にもいなくなって欲しくないのに、皆、離れて行ってしまう――
「……そうですよね」
まだ、死ねないのに。
死ねない理由ができてしまった。
なら……殺すしかない。
腹を括ると、口角が上がり、口元が歪んだ。
僕が殺されないために、あの怪物を殺す。
ポケットから蛇に渡された黒い棒を出して見つめる。
とある使徒が去り際に残した聖遺物。頼りなく細いが、地獄でも明るく照らす火力が詰まっている。
もう狩りにはさせない。あの首なしとの立場を逆転させてやる。
これからは、"死の舞灯"だ。