170話 堕ちる悪魔の夢の中
少し離れた枯れ木の木陰に目を向ける。そこにはひとりのお婆さんが立っていて、こちらを睨みつけていた。
黒づくめのローブとエナン帽という出で立ち、わし鼻に寄っている双眸は鋭い。
お婆さんは杖をつきながらゆっくりとこちらに向けて歩き始めた。
「あれだよ、"契約"の魔女」
したり顔のフュールさんが言う。
普通、契約の魔女と会うのは魔法使いになる最初の1回だけ。通常の手段でコンタクトを取ることはできない。
「噂じゃ契約の魔女が魔法を使うために捧げる供物は、魔法使いを作る、ことらしい」
悪魔に力を借りることの代償は、新たな契約者を見つけ出すこと。その仮説が正しいなら、これから魔法使いになる子供に付いていけば自ずと会えるはずだと。
どうやら正しかったらしい。
エロイ君があのお婆さんまで導いてくれた。
声が届く距離まで来た。契約の魔女はぎろりとエロイ君を見ると、しゃがれた声で、
「坊主、魔法が使えるようになりたいのかい?」
エロイ君は気圧されながらも、首を縦に振る。
「悪魔を紹介してやる。来な」
「ちょっと待ってください」
僕たちを無視して背を向けるお婆さんに声をかける。
「なんだ。そっちの坊主も魔法使いになりにきたのかい?」
「使徒でも魔法使いになれるなら」
使徒ぉ?と表情がより一層険しくなった。どうでもいい。こちらに意識を向けた。
「先に僕たちの要件を聞いてください」
「嫌だよ。儂はお前らに用はない――――坊主、来な。お勧めは"鉄柵"の悪魔だ。強い魔法が使えるし、供物も楽だ」
契約の魔女はエロイ君を連れて立ち去ろうとする。オフィさんが後に続いて、エロイ君の肩に手を置いた。
「私たちのおススメは"音楽"の悪魔ね。曲を捧げれば、魔法を使えるようになるわあ」
「付いてくるな……」
契約の魔女は怒りを滲ませた。キャンディスさんがほくそ笑みながら気安く言う。
「つれないね。皆一回はあンたの世話になる。私たちを魔女にして、契約の悪魔からご褒美もらったンでしょ?」
「お前らァ……A・ルシフージュ・ロフォカルよ――」
「C・フュル・フュールよ、契約を履行する」
フュールさんは稲妻の魔法を使った。
横向きに雷が迸り、お婆さんのとんがり帽子を弾き飛ばす。地に落ち、焦げた帽子を拾って契約の魔女に手渡したフュールさんは、邪悪な笑みを浮かべた。
「お話がしたいだけ。それができないなら、あんたの仕事を邪魔してあげる。無限にね」
場所を変えた。
サバトから少し離れたところまで歩くと、ぽつねんと小屋が建っていた。辺りには茫洋と荒野が広がっていて、農場も商店もない。どうやって生活しているのか謎なくらいの田舎だ。
お婆さんの住まいなのだろうか、生活感のない部屋に入る。契約の魔女は諦めたのか疲労の刻まれた顔で静かに座っている。
オフィさんが聞いてくれた。
「悪魔との契約を解除する方法は知ってる?」
「なんだい。あんたらはもう魔女でいるのが嫌になったのか?」
「聞いてるのはこっちなのだけど」
「質問を質問で返されたら、それが答えだと思いなさいな」
お婆さんは鼻で笑った。要は質問者を嘲っているのだろう。
おとぎ話だ、と契約の魔女は深くため息を吐いてから話し始める。
「昔々、徳の高い聖職者がいた。信仰も篤く、仕事もでき、同僚から信頼される男だったが、それを妬まれた。とある修道女の奸計に嵌まり地位を失ってしまう。
聖職者は心に影が射して悪魔と契約し、仕返しを成し遂げた。しかし、聖職者はそれを後悔し、3カ月に及ぶ断食を行って、聖母に祈りを捧げ続けた。
ついに祈りが天に届いた。ある日、彼のもとに使徒が遣わされ、聖職者は悪魔との契約を切ることができ、心安らかに神の元へと旅立った。
――あんたらも祈ったらどうだい。不信人ども」
「おとぎ話じゃなくて、現実的な話はないですか?」
「ない。悪魔が許すわけないだろう」
やはり、か。
感じた焦りが眉間の皺になる
だが、彼はあの時言ったのだ。あの夜、あの月明かりに照らされる林の中で彼と話したことを、忘れられるはずがない。
――それで何だか緊張の糸が切れちまった。馬鹿馬鹿しくなってね。王都を離れた。代償を払って神伐の悪魔と交わした契約を打ち切り、この街に来た――
何か、何かあるはずなのだ。"代償"とは何だ。
「じゃあ、"鉄柵"の悪魔と会わせてください」
「儂に何の利益がある」
すげなく言われるが、オフィさんは、ふぅん、と目を細めると、
「シンプルに行きましょう。"秘密"の悪魔よ、契約を履行する」
「なっ⁉」
魔女は本気で、自分に魔法をかけられると思わなかったようだ。
「ねえ、ヘイトの質問に『何の利益がある』って答えたわね。どうして『知らない』って否定しなかったの?」
契約の魔女はぐぎぎと奥歯を噛み締める。
「あら、抵抗できるの」
さすがね、とオフィさんは笑う。
「普通の魔法使いは悪魔と直接会わない。契約する時はあなたが間に立つ。ということは、契約の魔女はどんな悪魔とも会えるんじゃなくて?」
「正確には……その使い魔を呼ぶことができる……」
「なるほどねえ。じゃあ、鉄柵の使い魔を呼んでもらえる?今すぐ、ここに」
契約の魔女は脂汗を浮かべて抵抗していたが、やがて小さく呟くことになった。
「……A・ルシフージュ・ロフォカルよ、契約を履行する」
辺りが闇に沈んでいく。
闇の中に、一本の鉄柵が立っている。
あの廃屋から一歩も動いていないはずだが、僕たちは全員暗闇の中にいた。意識の途絶もなく。
頭上から鳥の羽音が近付いてくると、2羽の鳥がその鉄柵にとまった。真っ黒なカラスと、白い羽に嘴が黒いコウノトリ。
2羽はこちらを見ている。
不気味だ。動物の瞳から感じられるある種の純真さのようなものが一切ない。
「此度の契約者は」
「其処の童か」
鳥が喋った。可愛げがない、地鳴りのような低い声だ。
エロイ君が恐怖で引き攣った声を出す。魔女たちも身体を硬くして警戒している。
「契約じゃありません。話をしにきたんです」
「何の」
「用だ」
2羽の鳥は嘴を閉じたまま交互に喋る。声だけが届く。
「とある女性とあなた方が結んだ契約を解除させてください」
「駄目だ」
「それは」
やはり断られるか。取り付く島もない。だが、予想していたことだ。
悪魔は傲慢で、人間を見くびっている。自分たちは常に愉しむ側であり、ひとは愚かに踊る側だ。
死という終わりがない悪魔たちは、悠久の昔から時間が有り余っていて、退屈を紛らわせるために魔法や呪物を人間に与えて干渉してくる。
D・サブナクもそうだった。愚かだ滑稽だと言いながら、呪いの鎧を着ている僕をずっと見ていたのだろう。
馬鹿にしている割にはひとに依存している。
「勝負しませんか?そっちのルールで良い」
「ちょっとヘイト!」
フュールさんの止める声が聞こえる。ここで退くわけにはいかない。
「お前が」
「負けたら?」
よし。交渉のテーブルに乗ってきた。
「僕を好きにしていい。黒い森にするでもなんでも。だけど、僕が勝ったら――」
悪魔は退屈している。暇つぶしを欲している。こいつらは人間に対してなんだかんだと言いながら、倒錯した好意を持っている。
「僕が勝ったら、メサさんを解放してください」
使い魔たちは迷うような素振りを見せたが、羽の裏側に嘴を突っ込むとそれぞれ植物の種と水薬の入った小瓶を取り出した。
「種は飲みこめ」
「水薬は持っていろ」
「止めとこう、ヘイト。絶対ダメだって」
ふたつを受け取ると、キャンディスさんが肩に手を置いて止めようとしてくれる。だが、これはきっとあの賽子と同じものだ。僕が振らなきゃ駒を進められない。
「大丈夫です」
植物の種を呷る。
ごつごつとした異物を唾で無理矢理に飲み込むと、急激に気分が悪くなった。貧血に似た感覚がキャンディスさんの顔と声を遠ざけて、倒れ込む。
このまま死ぬのか。
まだ、死ねない。
ふっと目を覚ました。
どのくらい寝ていたのか。固い地面から身体を起こして目をこすり――視界に映る光景に苦笑してしまった。
ころころと場所が変わりすぎだ。悪魔と関わるとろくなことがない。
村からサバトに箒で飛び、荒野に建つ小屋に行って、闇の中で使い魔と話して、そして、知らない街にいる。
薄暗い城塞都市だ。
冗談のような大きさの城壁に周囲を囲まれていて、4,5階はある建物が整然と並んでいる。転がされていた大通りは遠くまで続いていて、そびえ立つ巨大な王宮まで繋がっていた。
王都に似ているが、やはり違う。王宮もあんなに大きくはなかったし、ここは全体的に規模が大きい。蟻の視点で街を見ているようだ。
「起きたか」
「試練を始めよう」
声の方に目を向けると、レンガ造りの家の屋根にあの2羽がとまっている。
「此の塔の中で三日三晩、生き残れ」
「さすればその水薬が、汝の願いを叶えるだろう」
それだけ言い残し、王宮の方へと飛び立ってしまう。
三日三晩生き残る、か。
確かに今は守ってくれる鎧はないし、飲まず食わずなら餓死もあり得るか。それにしたって試練と言っていた。ただ、このひとの気配が無い都市で生きるだけだろうか。
多分違う。
王宮の逆方向。大通りの先から影が近付いてきている。
怪物だ。
緑色の甲冑を着た騎士が、武装した馬に乗ってゆっくりとこちらへ歩いてきている。得物は死神が担いでいるような大鎌か。
「なるほどね……」
緊張をほぐすために敢えて独り言を言う。冷汗が垂れた。
あれが怪物だと一目で分かったのは、あるはずの首がないこと。
首なし騎士とか言ったか。
怪物は大鎌を構えると馬の腹を蹴った。馬が加速をかけてこちらへと迫りだしたのを見て、心臓が早鐘を打つ。
誰も守ってくれないこの場所で、悪魔の用意した怪物から逃げる試練――
三日三晩、僕の首が繋がってたら勝ちだ。