167話 幻想に形を
朝になっていた。
陽の光が照らす机には、建っていた塔も、人形もなく、あの悪魔も夢から醒めたかのように失せている。ベッドの上のメサさんだけが、冷たい現実を知らしめるように横たわっている。
焦燥感が身体を動かした。自室のドアを開けて速足で階段を下りる。
1階は酒場になっている。
木造りの食堂は夜こそ村人が集まって騒がしいが、太陽が登り切った今は畑に出ているから人影は少ない。
使徒が数人、同じテーブルを囲んでいるのが見えた。ひとりの女性からは階段を下りている僕のことも見えたようで、途中で目が合う。
ラテン系の顔をしかめている。ダリアさんだ。
彼女に釣られて全員が僕を見るが、声はかけてこない。意表を突かれたような顔でこちらを見ている。
テーブルの傍まで来ると、ミックさんに鋭い視線を向けられる。
「決めたのか?」
「はい。皆に、お願いがあります」
皆は少し驚いたようだ。このところ無気力な背中ばかりを見せていたから。立ち直るにしても、こんな急に、この変わりようは何なんだと、そう言いたげだ。
自分も驚いている。腹の底に湧くこの原動力は何なのだろう。
「メサさんを治します」
「お前……何言って……」
メサさんの状態は皆も知っている。傍から見たら死体でしかない彼女を治すなんて。自らの口から出た言葉でなきゃ、自分でも信じられない。
「できるはずなんです。芯樹化を止めて」
「おい」
「悪魔との契約を切って」
「ヘイト」
「身体を治せば――」
「いい加減にしろ!」
立ち上がったミックさんに肩を掴まれ、驚きで言葉が止まってしまう。鍛え上げられた太い腕には包帯が巻かれていた。先月の戦いで負った傷がまだ塞がっていない。
僕の眼を見て、諭すように、
「呼吸と心臓が止まってもう6日が経つ。
身体からは枝が伸び続けてる。
彼女はもう死んでるんだ。諦めろ」
頭がおかしくなったのだと思われている。
発狂したのだと。普通ならそうだろう。
死体にしがみついて、伸びてくる枝を折り続けている。あまつさえ、死者を蘇らせる方法を悪魔から聞いたなどと戯言を吐く。
彼は僕の目を覚まそうとしてくれている。現実を見ろと。
その通り。諦めるべき。弔うべき。
――それは、受け入れられない。
肩に置かれた手首を掴んだ。その力の強さにミックさんは少し驚く。
「でも……1週間くらい経っても腐敗はしてない。腐臭もないでしょう」
「……」
「僕の送還まであと1カ月。あと1カ月なんです。お願いです。協力してください」
ミックさんの眼からは悲しみが窺える。
「狂ってるって思って良い……狂気でいいから……それでメサさんを取り戻せなかったら、諦める」
「お前……」
誰も、何も言わない。
同郷から召喚された使徒、螺良杏里さんが立ち上がる。幼く見える顔が頼もしく映った。
「魔女の人たちとかでしょ。声かけてくるよ。夜でいいよね。一緒に行こ、ダリア」
そう言って、酒場を出て行った。
日が沈みかけている。
酒場には農作業を終えた村人たちが集い、ろうそくと料理を囲んで談笑している。そのうちの一席に僕を含めて11人が集まった。これまで一緒に戦ってきた、見知った顔が並ぶ。
「大魔法を使った魔法使いは、黒い森になるんですよね?」
悪魔から聞いたことを言うと、3人の魔女がピリついた。
"稲妻"の魔女、フュールさんがタトゥーに覆われた顔を強張らせ、脅すような口調で、
「誰に聞いたの?」
「D・サブナク。鎧袖の悪魔です」
「本当の話?」
顔中にピアスを付けた、"蛇竜"の魔女であるキャンディスさんが質問を飛ばす。初耳、そんな顔だ。
セミロングの銀髪を耳にかけて、"秘密"の魔女、オフィさんが口を開く。
「魔法使いは、大魔法を行使すると黒い森になる。それは私たちのなかでも一部しか知らないの」
キャンディスさんが苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
数か月前の光景がフラッシュバックする。
覚悟を決めたひとりの男が、愛する母のために命を捧げ、大魔法を使って巨大な化け物を召喚した。
あの時、あいつからは急速に黒い枝葉が伸びていた。間違いない。
「この話が広まってしまえば、魔法使いの居場所はなくなる。全員がこの世界を滅ぼす黒い森の種子だから」
オフィさんは、ごめんなさいね、と教会の修道女であるアイシャさんに向かって微笑んだ。
アイシャさんの表情が険しくなり、隣に座っている魔女を睨んだ。キャンディスさんは居心地悪そうに椅子をちょっとだけ彼女から離す。
魔法使いは潜在的に、神の敵になり得る脅威。権力者や教会が迫害するわけだ。同時に、人間同士の戦争や、魔物との戦いにその力を求めている。
頬杖をついてフュールさんが聞いてくる。
「悪魔から直接か」
「ええ」
「幻覚じゃないかもね。信憑性があるわ。教えてもらえる?あの娘を止める方法」
悪魔から聞いたことを話す。
「みっつ、やることがあります。
ひとつ目に、黒い森に変わっていくのを止めなくちゃいけません。取り返しのつかないところまで枝が伸びれば不可能だと。
他のふたつの準備ができるまで、時間を稼ぎます」
「続けて」
フュールさんが言う。
「次に、"鉄柵"の悪魔との契約を解除します。今のまま身体を治したら、怒った悪魔が何をしでかすか分からない」
「契約の切るなンてできンの?」
「おとぎ話ね」
キャンディスさんが訝しみ、オフィさんが答えた。構わずに最後まで話す。
「みっつ目に、とある聖遺物を使えば身体を修復できると言っていました」
「とある、とは?」
「そこまでは――」
少しハスキーさの混じった声でアイシャさんに聞かれ、返答に詰まってしまう。
フュールさんがため息をついた。
「細かくは教えてくれなかったのね。悪魔のやりそうなこと」
そうだ。
ヤツは自分で探せと言って、具体的な手順までは教えてくれなかった。ヒントだけ与えて、僕が苦しむ様を見るために。
だから皆には、知恵も借りたかったのだ。黒い森のこと、魔女のこと、聖遺物のこと、僕は何も知らない。そのために、夢で見たと思われようが、隠さずにすべて話すことにした。
オフィさんが口を開く。
「ミックが止めるのも無理ないわあ」
いつものよう軽い口調で、重要なことを話す。
「大魔法を使った魔法使いは、新たな黒い森になる。世界の敵になるの。あなたがしようとしているのは、黒い森を守ることよ」
朱いアイラインを引いた目元が細められる。
「世界の敵になってまで、あの子を救う覚悟があるの?」
「ある」
「私たち全員を敵に回したとしても?」
「それは……」
皆の顔を順番に見ると、何も言えなくなった。
前の戦いは酷いものだった。助かったのは奇跡だ。
メサさんのおかげで命だけは拾えたとは言え、皆は少なからず怪我をしている。
あの時も一緒に黒い森へ行ってくれと頭を下げた。頼みを聞いて命を懸けてくれたのに、そのひとたちに向かって、敵に回るなんて――
「あんまり苛めんなよ」
長身を背もたれに預けたオマールさんが言う。ドレッドヘアを指先でいじりながら、
「良いじゃねえか。惚れた女を助けるために何とかしようとするんだろ?俺は手伝う」
惚れた女、のところで何故か苦みを感じた。
ごめんなさいね、そう言う意味じゃなくて、とオフィさんは言ってから、
「私は、覚悟を見せて欲しいの。暇つぶしでやり遂げられることじゃない。もし失敗した時は、悲惨なことになるわあ」
口元だけで笑って、視線は僕を見定めようとしている。
「命を賭ける覚悟を見せて」
あるつもりだ。
ひとつ目に対する僕なりの答え。それを見せる。
はい、と力強く答え、
「芯樹化を止める考えがあります。それから決めてください」