166話 12月1日 ワン モア ライト
黒い森にいる。
鬱蒼とした森は暗く、木々と枝葉は影に塗りつぶされた群像でしかない。視線の先、馬車が通れるくらいの道に、黒いドレスを着た女性が立っている。
夕焼けのような赤髪を揺らして振り向き、こちらへ微笑を向ける。自分の手も見えないような暗闇の中、彼女だけが照らされている。月明りだろうか。
手を伸ばした。彼女が差し出した手を握らなければいけないような気がして。
一歩踏み出す。
だが、鎧に包まれた足は、流れる水に阻まれて進まない。鼓動が早くなる。
みるみるうちに水かさが増して、濁る。変わらずに微笑んでいる彼女の方へ進もうとするが、一向に近づくことができない。
焦るが、逆流に負ける。降り出してきた雨はすぐに嵐となり、身体は冷えていく。
早く。早く。
動悸を感じる。心臓が決壊する。
流れの先にいる彼女に近づけない。その奥から、ごうごうとした音と共に濁流が流れてくる。
待ってくれ。まだ。
濁流は彼女を飲み込んで、辺りの木々も、すべてを巻き込んで、こちらへと奔る。
眼前まで迫った濁流の壁に、茶色の壁に、映る。
一瞬のような、永遠のような。
黒いコートを着た髑髏が、
「いつまでそうしているつもりだ」
酷い幻覚が増えたと思う。
気が付くと、いつもの村の自分の部屋にいる。
椅子に座ってベッドの方を向いていたまま、呪いの鎧に覆われた手で、パキ、パキと枝を手折っている。
シーツの上に横たわったまま動かないメサさんを覆いつくそうとするように、身体から無数の黒い枝葉が伸びている。
顔は白く、唇は青ざめている。呼吸で胸が上下することもなく、鼓動がすることもない。呪いの鎧を着ていると眠れない。食事も要らないから、こうしてずっと彼女から伸びてくる枝を折っている。
その度に、自分の中の何かが悲鳴を上げる。
「どうするんだ。ヘイト」
部屋の扉を開けて、僕の背中にそんな声がかけられた。振り返らなかったから誰か分からない。どう答えたらいいかも分からなかったから。
こうして問われるのは何度目だろうか。一度も声を出せなかった。
枝を折り続けてたところで意味はないと分かっている。彼女は自らの命と引き換えに大魔法を使ってしまったのだから。
こんな残酷なことはやめるべきで、早く眠らせてあげるべきだ。そう思うのに決めることができない。
本当に、どうしたらいいのだろう。何かが変わるわけでもなく、終わることはない。僕が送還されるまでの残り1カ月、これを続けるつもりか。
彼女が死んでしまってから、僕の胸には杭が刺さったままだ。
だけど涙のひとつも出やしない。
答えないでいると、ドアが閉まる。
「いつまでそうしているのかと聞いている」
まだ誰が立っている。
この声だけは分かる。低調な、感情のこもっていない声。
「退屈だ」
悪魔。
何が面白いのか、ずっと僕に付きまとっている。
「もう終わりか。あと1か月あるだろう」
いつのまにか夜になっている。
「その女は燃やして、青ざめた馬を殺しに行ったらどうだ?」
見え透いた挑発だが、枝を折る手は止まらなかった。
頭と身体は鉛のように重く、怒りや復讐心も湧いてこない。
「ひとつ。賭けはどうだ」
ため息交じりに悪魔がそう言い、両手を打ち合わせた。
傍らの机から模型の塔が生えてくる。コロッセウムを積み上げて、外壁に螺旋階段を付けたような物だ。
昔なにかで見た、バベルの塔を描いた絵画を思い出す。
塔の麓には甲冑を着た人形と、黒いコートを着た髑髏頭の人形が立っている。
「私が負けたら願いを聞いてやろう」
悪魔の手が伸びてきて立方体を放った。白い宝石を切り出して作ったような賽子が転がり、"3"を上に向ける。
髑髏頭の人形がひとりでに動き出し、螺旋階段を上っていく。
「お前の番だ」
悪魔は赤く透き通るダイスを差し出してきた。
別にやりたくはなかった。悪魔はダイスを放ってきて、それを掴み損ねて僕の手に当たった後、机の上を転がった。
ダイスは"1"を上に向けている。出た目の数だけ、甲冑を着た人形が塔を登る。『使徒の呪いを解く』と人形の足元に書かれていて、もう1マス勝手に進んだ。
投げやりな気分になって、悪魔と交互にダイスを振った。
『街に潜む魔物を倒す』2マス進む。
『友人を喪う』3マス戻る。
「――この世界は、双六のようなものだ」
『都にまつわる因縁に終止符を打つ』3マス進む。
『大切な人が自分の元から去る』一回休み。
「神が盤面をつくり、悪魔が升目をつくる」
「――では、人間は?」
いつか同じやり取りをしたっけ。懐かしいと思う。
確か、こいつが初めて僕の前に現れた時のことだ。同じことを言ってきた。
「ただ、賽を振るだけだ」
賽は、振ってきたつもりだ。
無力な自分でも、仲間を頼り、自分を犠牲にすれば、良い結末に辿り着けると祈って。
黒い森と戦い、他人を助けて、誰かの憎しみを慰めてきたつもりだ。弱い僕でも、何かが残せたのではないかと、そう思っていた。
少しは成長したと思っていたのに。
違ったのだろう。
何故あの時、彼女の元を去ってしまったのか。彼女を無理にでも引き留めなかったのか。
幻覚を見る度に、正気に戻った時に彼女が笑っていないかと。黒い森の戦いも幻であったならどんなにいいかと。
胸に灯ったかすかな誇りを、ふっ、と吹き消されて暗い部屋にひとり取り残されたかのような。自分がやってきたことなど、それほどに小さなものだったのかと。
結局、自分は弱いままだった。何も変わっていなかったのだ。
使徒として過ごしてきたこの1年の結末が、こんな――
こんな終わりか。
赤いダイスを握りしめ、諦めと共に手を開くと、地に落ちた。
出た目の数の分だけ、甲冑が塔を登って髑髏頭よりも先に最上階へと至った。人形は豪奢な造りのフロアを進んでいくと大きな石の椅子に腰かけ、それきり動かなくなった。
どうやら僕の勝ちのようだ。何の感慨もないが。
悪魔は悔しそうに言う。
「……クソゲーだな。必要なのは運ではないか。これのどこが楽しい」
「双六、やったことがないんでしょ」
「何故分かる?」
「僕もやったことがないんですよ」
ひとりでやるものではないように思うし、やる相手もいなかった。悪魔は興味を失ったように言う。
「負けは負けだ。願いを言え」
「……特には」
生き返らせるとか……悪魔はそんなこちらの考えを読んだように、
「無理だ。その女はもう"鉄柵"の悪魔のものだ」
分かっている。こいつは何もしてくれない。ひとの運命を変える力を持っていようが、それを使うのは自分の退屈を紛らわせる時だけだ。
「じゃあいいですよ。何もありません」
「本当にいいのか?」
「はい」
「では、ひとつ話をしてやろう」
項垂れた僕のつむじに向かって悪魔は滔々と語り出す。
当代の神が支配者の椅子に座った時、とある悪魔は激怒した。
「神の椅子に座るのはこの自分でなくてはならない」と。
悪魔は"神伐"を名乗り大魔法を使った。芯樹となることで受肉し、現世に自らの黒い森を作り出した。
黒い森はその者が作り出した異世界だ。
森が古い世界を覆いつくした時、芯樹となった者は塗り替えた世界の神となる。それこそ"神伐"が目指す椅子だ。
止めるには、芯樹を伐採するしかない。
そうすれば、本来、死を持たぬ悪魔を殺すことができる。
何が言いたい?
その大魔法を、"魔法使い"が使ったらどうなるか。分かっているだろう。
魔法使いは強大な力を行使し、芯樹となることで辺りに黒い森を広げ始める。異なるのは契約した悪魔の芯樹となり黒い森を広げることだ。
万が一にも、その森が世界を覆いつくした時は契約した悪魔を神の座に置く。悪魔どもは皆、素知らぬ顔をしながら、自らの魔法使いが大魔法を使い――
あわよくば神の座に腰かけることを目論んでいる。
まったく。無粋な連中だと思わないか?
人間は踊らせるに限るというのに。
大魔法を使えば芯樹になる。
神伐の悪魔はきっと、黒い森の中心に生えているのだろう。奴を倒すには樹木となった身体を伐り倒すしかない。
メサさん。
彼女も芯樹になってしまった。
身体から生える枝は黒い森を広げようとしているのだろう。"鉄柵"の悪魔のもの、とはそういう意味だ。尖兵として世界を塗り替えようとしている。
それを止めるためには、彼女を――――
芯樹を殺さなくてはならない。
――――だったら今は?
不意に去来した疑念に、時が止まったような錯覚に陥る。頭に酸素を送り込まれたかのように視界がはっきりし始める。
「メサさんは、今は?」
重たく感じていた頭を弾かれたように上げて、悪魔の方をちゃんと見ると、D・サブナクは髑髏にしか見えない顔を奇妙に歪めて笑っている。
「生き返らせることはできない。何故なら」
「死んでないんですね!?」
身体中から枝が伸び、息をせず、鼓動が聞こえなくても。
芯樹としてまだ生きている。
「その女はすでに鉄柵の悪魔のものだ。私ではどうしようもない。どうなっても構わない」
こいつの意図が分かった。止まっていた心臓が動き出したかのように、身体中に血が巡り出した。
「だが、それでお前が赦せぬと言うのなら、看過できんと言うのなら、その女を悪魔から取り戻す術を教えてやろう。さて、どうする。間に合うかな」
こいつは僕がどう返答するかを知っている。だから、思い通りになったことに愉悦を感じて、悪魔は嗤っている。
「そう。その眼だ。世界を憎むその眼」
残り1カ月。
メサさんを取り戻す。
僕のすべてを懸けてでも。
「ヘイトよ」
憎悪を尽くし、最後まで踊り給えよ。