165話 屍山血河に流る
「この青ざめた馬が赦しを贈ってやろう」
――神伐の悪魔のお気に入りで、ワイルドハントって呼ばれてた。"神伐の聖典"で魔物を意のままに操り、あまねく生物に死をもたらす――
「歿んで仕舞え」
軍服を着たスケルトンが、才能で発現させた本を開く。傍に横たわっている馬の死体から木が生え、信じられない速度で成長し、巨大な果実を実らせる。
ずるり、と果実が割れて生まれ落ちた。
それは巨大な槍を杖にして、二本足で立ち上がる。
嬰児のように赤みがかかった身体は、人間と比べて何回りも大きい。狼に似た頭部には硬質な仮面を付けている。
人狼やミノタウロスが現実に現れてしまったかのような姿。
特殊個体。
人狼だ。
軍服を着た人外の姿。発現した聖典。そして、あんな化け物を創り出せる存在。ひとつしか心当たりがない。"神伐の悪魔"と契約した四騎士、青ざめた馬。
なんでこんなところにいる。黒い森の、もっと奥の方にいるはずじゃないのか。
戦うか。
準備もなしに勝てるのか。
逃げるか。
メサさんはどこにいる。
生まれたての人狼が笑った。
槍の穂先をこちらへ向けて、姿勢を落とし、地面を蹴って――
「ヘイト様ッ!!」
甲冑が割って入り、信仰の剣が、青空を映す大剣が迫る刃を防いだ。ワイルドハントは聖典を開いたまま動かない。
散った金属音と火花で我に返った。とにかく今は目の前の脅威を除くしかない。魔剣、乞患を抜く。
フェルナンドさんに目線だけで合図する。
2撃目、3撃目の猛烈な突きを、フェルナンドさんが巧みに逸らした。
槍の穂先が空を向いた瞬間、足に力を入れ、シェイブとすれ違うように走り、脇腹を斬りつける。
筋肉が硬い。だが傷が付いた。
シェイブが振り向いて、こちらを見る。
僕を、と言うよりこの剣に魅せられている。シェイブが槍を振りかぶったのを見て、足元に転がり込んだ。頭上で風が唸る。
シェイブは完全に僕を、この剣だけを見ている。
「オォッ!!」
フェルナンドさんが咆え、後ろから信仰の剣で、シェイブのアキレス腱を切断する。
巨大な身体がバランスを崩した。こちらを睨んで拳を握り、覆いかぶさってくるように――
「ッ――!」
魔剣を握り、喉笛に狙いをすます。
乞患の薄緑色の刀身が、シェイブの喉を貫通した。
だが、まだだ。こいつはまだ動く。
渾身の力を込めて魔剣を強引に捻じり、鋸のように押し引きして硬い筋繊維を断つ。
吹き出した血液が呪いの鎧を汚すが、シェイブの身体から力が抜けることはない。
「さっさとくたばれ――!」
お前と戦ってる暇はない。
魔剣が軽くなった。
シェイブの首から刀身が抜けたのだ。筋肉を半分も斬られて、脊椎の白い塊が晒されている。
脊椎の隙間を縫うように、信仰の剣の刃先が入った。
支えを失った頭がぐるりと明後日を向き、糸が切れた人形のように、巨体が地面に沈む。
よし。やってやった。
ワイルドハントは。
面に付いた血を拭いながら振り返る。ワイルドハントはこちらを見てはいなかった。森の奥。その先に広がる青空に首を向けている。
何を見ている?
同じ方向に目線を遣り、目を凝らすと、青空に小さなノイズのようなものが走っていた。
なんだ。あれは。
「少し早いが、使うとするか」
そうワイルドハントが呟く。
遠くの空に浮かんだノイズが少し大きくなる。こっちに近付いてきているのだ。
黒い粒が規則的に並ぶ、それはまるで鳥の群れが形作る像のようで――――
背筋が凍る。
フェルナンドさんが叫ぶ。
「貴様!何をするつもりだ!」
「肥やすのだ」
分かってしまった。ノイズでも、ただの鳥でもない。
あれはすべて姑獲鳥だ。
無数の怪鳥が、餓鬼を鷲掴みしてこちらに向かって飛んでいる。
「貴樣らの血で森を潤す」
ワイルドハントは、ペタを、爆発する魔物を、上空から大量に落とす。
空爆するつもりだ。
「ヘイト様!撤退します!」
「メサさんを探さないと」
ハルピュイアが飛ぶ速度はこれまでより遅い。おそらくペタを運んでいるからだ。空爆が始まるまでには時間がある。
チャンスは今しかない。ペタが落とされ始めたら探すどころではない。そしてハルピュイアが僕たちのいるところまで到達したら、状況がどうなるか想像もつかない。
「あのスケルトンと遭遇した時、オフィーリアにメサ様を探すように言いました。彼女に任せましょう。今は撤退を」
「だけど――」
「時間がありません。調査隊も巻き込むつもりですか⁉」
両肩を掴まれ、普段であれば言われないような強い口調に、ぐっ、と言葉を飲み込んでしまう。握った拳に力が入る。
大丈夫だ。きっとオフィさんが見つけてくれる。
そう自分に言い聞かせて、
「う、馬をお願いします……」
ワイルドハントは微動だにせず、馬に乗って逃げていく僕とフェルナンドさんを見送った。勝ち誇っていたのか、興味がなかったのか、白骨からは何の感情も読み取れなかった。
走り始めてすぐ、聖なる泉に向かって進んでいた調査隊と合流し、先頭を進むオーウェル騎士団長の行き先を塞ぐように馬を止めたフェルナンドさんは、皆に聞こえるようにわざと大きな声を出す。
「すぐに撤退します!」
「何があった?」
「メサはどうした?」
尋常ではない様子に、オーウェル団長とミックさんが声を揃える。
「こちらに向けて、ハルピュイアの大群がペタを把持して迫っています」
ふたりの理解と判断は早い。驚愕が顔に刻まれたが、すぐに、
「野営地と中継基地まで急使を立てろッ!――到達までの時間と被害の予想は?」
「1時間もかからないかと。野営地と中継基地どころか、街への被害もあり得ます」
クソッ、とオーウェル団長は歯噛みした。
「オマール!」
ミックさんに名を呼ばれたオマールさんが小走りで近づいてくる。
「なんだ?どうした……?」
「絨毯爆撃が来る。黒兎の殴打で街に避難するように伝えろ」
「そりゃあ――ひとりだけ逃げられるかよ」
「頼んだぞ」
ミックさんは肩に手を置いた。オマールさんは数秒だけ逡巡して、
「――――戻ってくるからな」
オマールさんは踵を返して来た道を走り出し、すぐに森の奥に消えた。
「左翼より敵影!!」
調査隊の騎士が声を上げる。
全員が警戒を向けた方を見ると、枯れ木の傍にいくつかの影が立つ。こんなときに魔物か。
反射的に武器を向ける。差し迫った危険に対し神経が過敏になっている。
「待って。オフィーリアだよ」
姿がはっきりと見える前に、キャンディスさんが言った。
人影が3人。ひとりはオフィさん。
そしてもうふたりは、悔しそうな表情を浮かべるクリストと、真っ青な顔で目を伏せるメサさんだった。
昂った神経が一気に弛緩し、安堵で力が抜けた。良かった。地面にへたり込みそうだ。
「味方だ!武器を下げろ!」
ミックさんがライフルを下げて、調査隊に聞こえるように声を出す。
いつもとは違い、余裕のなさそうな表情を浮かべたオフィさんは顎をしゃくる。
「連れてきたわ」
「よし。撤退する!」
オーウェル団長が号令をかけた。
調査隊が野営地に向かって移動を始める。しかし、メサさんは立ち止まり、地面を見たまま動く気配がない。
何か言わなくちゃいけないが、何を言うべきか分からない、そんな顔に見えて気まずさが戻ってきた。口を噤んでしまう。
「さっさと帰ろ」
フュールさんが近付いてきて言うが、メサさんは佇んだままだ。そんな様子を見てフュールさんはため息を吐く。
僕も何を言うべきか分からない。
恐い。また言葉を誤って、どこかへ消えてしまうんじゃないか。
「メサさん。ごめんなさい」
でも、僕から逃げていたら何も変わらない。過ちを繰り返すだけだ。
彼女に近づいて、手を取る。
「一緒に行きましょう?」
メサさんは囁くように、はい、と答えた。
メサさんの手を引いて走る。
時折、森から現れる魔物をキャンディスさんやフェルナンドさんが退けながら、枯れた黒い森を数百人の調査隊が駆けている。
前触れなどなく、
後方の、ずっと遠くから爆音が響いた。
「もう来たのか……」
そう誰かが呟く。
一匹目のペタが落とされたのだ。すぐそこまで来ている。
「立ち止まるな!走り続けろ!」
オーウェル騎士団長の怒声が飛び、疲労に浸かった身体に鞭打って騎士たちが進む。その中で、ミックさんが立ち止まった。
「どうしました?」
汗で覆われた顔は後方の空を睨んでいる。枯れ枝の隙間から見える青色に、聖なる泉で見た時よりも大きな影が浮かんでいる。
彼は、"8番の武器庫"で長大なライフルを発現させて構え、引き金を引くと、遠くで爆発音が響いた。
「早く行け。あとで合流する」
「……ダメですよ」
有り得ない。ここにはもうすぐ爆弾が降り注ぐ。立ち止まるなんて。
「地対空戦闘ができるのは俺くらいだ。お前たちは走り続けろ」
調査隊は足を止めない。
「ああ、もう。しゃあないか」
肩で息をするフュールさんが言い、箒にまたがって地面から浮いた。ミックさんと同じ方を向いている。
「フュールさん……まさか」
「私は逃げられるし」
場違いなくらい軽い口調で、
「メサのこと頼んだよ」
「待って、フュール」
そう言ったメサさんに笑いかけて、フュールさんは魔物で覆いつくされた空へ飛び立つ。すぐに稲妻の轟音と連鎖する爆発音が、空にこだました。
「鎧を捨てろ!」
オーウェル騎士団長が叫んだ。
「無駄死には許さん!」
騎士たちが走りながら兜や胸当てを脱ぎ捨てる。剣すら森へ放り投げる者もいる。全力で走るために。
刻一刻と音は近くなる。爆発の壁が後ろから迫ってくるような感覚に急かされて、動かす足が速くなっていった。
息を切らし、口から垂れる唾液もそのまま。死が降ってくる恐怖に耐えて、歯を食いしばりながら。
それでもなお、野営地にすら辿り着かない。
足を止めたらダメだ。前に進まないと。メサさんを連れて帰らなくちゃ。彼女の手を引きながら、できるだけ早く足を動かす。
恐れもなく狗が飛び込んできた。近くにいた騎士の足具に食いつかれ、姿勢がぐらつく。間髪入れずに他の騎士がナイフで狗を突いて、危機を脱した。
あれなら大丈夫。
そう思った時、足元にさっと黒い影が走った。
スローモーションのように景色が流れる。
落ちてくる。重そうな頭から、細枝のような身体つきの、腹が膨らんだ魔物が、騎士たちの近くに。
ドン――
反射的にメサさんを抱きしめた。身体に叩きつけるような爆音が一瞬で広がる。鎧にパラパラと砕けた骨が当たる。
爆風が去ると、ふたつの甲冑がぴくりとも動かず倒れている。
耳鳴りだけが聞こえる。
「畜生……っ」
その時が来てしまった。
雨が降り出すように、雨足が強くなるように、絶え間ない爆発が僕たちを追い越した。
空はハルピュイアで覆われている。
次の瞬間には、ペタが真上から落ちてくるかもしれない。
立ち止まるな。
前しかない。
少し遠くの狗にペタが直撃して血飛沫になる。
傭兵が魔物に襲われて倒される。
疲労で躓いた騎士に、傭兵が手を貸して立たせようとする。
「走れ走れ走れッ――!!」
「助けてくれ――」
「しっかりしろ――!」
誰のものかも分からない声が爆音にかき消される。
「敵襲!」
魔物に刃を振るって、脚だけ切って足を動かし続ける。
爆発の中で戦って、
戦って、
戦って、
爆発の中を走って、
走って、
走って、
駄目だ。間に合わない。
僕はどうでもいい。
誰か、誰か皆を。
飛んでいるハルピュイアがペタを手放した。成す術もなく重力に身を任せたペタが、すぐ目先の枯れ木に引っかかり、枝に刺さった。
近すぎる。反応が遅れた。メサさんに覆いかぶさろうとしたが間に合わず、爆風に押し出されて転がる。
ぼやける視界の中、地面に横たわるメサさんへと狗が近付いている。動け、と念じながら立ち上がり、走るが、
――間に合わない。
「カルメン様ッ」
横たわったメサさんと狗の間に、クリストが割って入った。彼の首に狗の牙が突き刺さる。クリストの表情が歪み、苦痛の声を上げる。
駆け寄り、魔剣で狗の身体を斬りつけ、足を斬り飛ばす。振り向くと、クリストは仰向けに横たわっていて、メサさんは身体を起こしていた。
「カルメン様……」
「クリスト」
「私は――」
クリストは事切れた。
「行きましょう」
立ち上がれなさそうなメサさんの下から肩と膝を抱きかかえると、メサさんが苦し気に唸る。
彼女の顔からは血の気が失せていた。右の手甲を見ると、血がべったりと付いている。黒いドレスのお腹の辺りが、赤黒く濡れている。
ペタの骨が刺さったのだ。
「医者は……」
絶え間なくペタが落とされ、皆の姿は土煙に紛れて分からない。
嫌だ。こんなの。
「大丈夫です。連れて帰りますから」
ここに来て、始めてメサさんと目が合った。
「私の所為ですね」
どうすればいい。
どうすれば助けられる。
「誰にもいなくなって欲しくないのに、皆、離れて行ってしまう」
腕で身体を支えたまま。
「次は私の番です」
「駄目です……駄目だ……そんなの」
「ヘイト様。私は――」
彼女の右手が胸当てに触れた。
「そう、ずっと前、あなたがフェルナンドを助けてくれた、あの時から――」
青ざめた顔で優しく微笑む。
「愛しています」
「待って、メサさん……」
「"鉄柵"の悪魔よ、我が命を以て、契約を履行する」
音が止んだ。
地面から無数の鉄の杭が生え、蒼天を刺す。
鉄柵たちは器用にすべての魔物だけを貫いて、
戦いを終わらせた。