147話 アントニオの送還
後でで良いよ、と酒場の女将さんが苦笑いしていた。
明日はアントニオさんとのお別れ会。明後日はいよいよ送還だ。時間がないから今日はさっさと休め、と言いたいのだろう。荒れた酒場の後片付けをそこそこに切り上げた。
足首に怪我を負い、応急処置を済ませたアントニオさんに肩を貸して部屋まで送る。
部屋に着くなり、彼は身体を投げ込むかのようにどさっとベッドへ座った。蒸し暑さを感じて部屋の窓を開けると、夜の空には切れ切れになった雨雲が浮いていた。雨は上がっている。
アントニオさんは思い詰めたような表情を浮かべている。何て声をかけたら良いのか分からなくて、
「朝になったら迎えにきます。おやすみなさい」
鼻声でそう言った。
小さく、「ごめん」と返ってくる。
部屋を出ようとする足が止まってしまった。何に対しての謝罪だろう。
確かに、魔法使いどころか吸血鬼まで呼び寄せてしまった。酒場はボロボロだし、死者が出なかったとは言え怪我人はたくさん出た。
布に覆われた鼻を触ると少し痛みを感じる。
「……アイシャさんに治してもらったので、もう大丈夫です。ミックさんとかも、大事には至ってないですよ」
捕まえられなかったからさ、とアントニオさんは呟く。
作戦の発案者はアントニオさんだが、全員で同意した上で実行したのだ。結果として襲撃を受け、みすみす吸血鬼たちを逃がすことになったのは残念だが、謝ることではない。
「仕方ないですよ」
「やめてもいいんだ」
「それは……」
捜査を諦めても良い。吸血鬼を捕まえられなくても良い。そういう意味だろうか。
「マルティナをどこか遠いところへ逃がして、それで終わりで良い」
「吸血鬼の顔も名前も割れたでしょう?捕まえられます」
ブルース、ステラ、そう呼び合う少年と女性の姿を見た。マルティナさんも絞れた。きっともう一息なのだ。マルティナさんを守り、吸血鬼を捕まえて、この事件を終わりにできる。
アントニオさんが還ったとしても。
「俺が発端なんだ。俺が終わらせるべきだった。才能を盗まれたから。でも、それはもう無理そうだし。それでお前らが怪我するのは、やりきれないよ」
「アントニオさんは、どうしたいんですか?」
「……解決したかった」
「何で、そこまで?」
「何で、か」
元の世界で生きてきた僕たちからすれば連続殺人なぞ一生に一度遭うかどうかだ。しかし、いくらこの事件が特殊であるとは言っても、この世界で殺人はごくありふれている。
しかも、目の当たりにした吸血鬼の様子を見れば、例え拳銃が手に入っていなくても殺しをやっていただろう。それだけの殺意だった。
アントニオさんも理解しているはずだ。盗まれたレガロが凶器として使われている以上、重く捉えるのは分かる。分かるが、どうしてそこまで。
それではまるで、この事件に呪われているみたいではないか。
「やっぱり、警察官だったから?」
「そうかな――」
思案気に空いた窓の向こうを見ている。
「――俺は警官やってる時に、とある怪物を調べてた」
「怪物……?」
「もちろん、比喩だよ。ある連続殺人犯をそう呼んでたってだけだ」
誰にも言うなよ、とアントニオさんは諦めたように微笑んで、
「俺は川に捨てられていたのをシスターに拾われて、物心ついた頃には教会にいた。だから、兄弟姉妹はたくさんいたんだが、両親は顔も知らない」
驚いて、孤児、と言いそうになるのを飲み込む。
「不満は……なかったとは言えないけど、不信はなかった。教会と、地域に育ててもらったんだって思っててさ、親切にしてくれた警官もいたりして、いつかは俺も、警察官になって恩を返したいって」
椅子を引いて座る。水差しからコップに水を注いで、アントニオさんへ渡した。
ありがとう、と言ってアントニオさんは一口飲む。
「大人になって、順調に、とは行かなかったけど警察官になれた。その親切な警官の相棒になって仕事をするようにもなってさ。大変だったけど、充実してたよ。
でも、ちょっとしたきっかけで――怪物に関する捜査資料を見てね。
怪物に殺された被害者の中に、自分の母親がいるかも、って疑惑に囚われ始めた」
驚いて、心臓が止まるようだった。絶句してしまって何も言えない。
「何年も前に起きた未解決事件だった。仕事の合間に調べ始めたんだが、未解決って言うのは伊達じゃなくて、そうそう簡単に何かが分かるわけじゃない。
最初は興味本位だったものが、だんだんと寝る時間も削るようになって、それで、本業にも支障が出始めてさ。
それでもやめたくなくて、時間をかければかけるだけ、俺は怪物に入れ込んでいった。濃い霧の中に入っていくような気分だったよ」
「ど、どんな事件だったんですか?」
「夏の晩にカップルが狙われて、凶器は銃やナイフ。被害者の女性ははひどい状態で見つかっていた」
「それじゃあまるで」
アントニオさんは頷いた。
似ている。
アントニオさんが元の世界で調べていた事件と、こちらの吸血鬼が起こした事件が。
「もちろん、全然別の事件だ。違う世界で起きたことで、関連性なんかない。でも――」
重ねてしまったのだろう。だから執着してしまった。レガロを盗まれただけではなかったのだ。
「何で」
アントニオさんが独り言つ。
「何でか」
僕が投げかけた質問を反芻している。
問う。
「警察官としての、その、責任感とか?」
「それは当然ある。でも、警察官だからって理由だけじゃない」
「じゃあ敵討ち?」
「違う気がする。怪物は母親を殺していたかもしれないけど、顔も知らないんだ。薄情だけど、事実だったとしても憎しみはない」
「自分の出自を知りたかったとか……」
「確かにそれもあるよ。でも、自分がどこの誰かを知りたいなら、怪物を探すのは遠回りだろ。もっと他に手段がある」
「アントニオさんは――」
「俺は何がしたかったのかな」
その質問は僕にではなく、自分にしたものなのだろう。独白するようだった。
吸血鬼を捕まえたかった、事件を解決したかった理由。上っ面ではなくもっと深いところにある自分の本心を探している。
欲望、損得、理性、しがらみ、それらが渦を巻いて、やりたいことが分からなくなることがある。
理解しきれない現実を前にして、自分の気持ちにきっぱり整理をつけることは、思いのほか難しいことを知っている。
答えの無い霧の中で迷い続けるのは疲れるものだ。
では――
「じゃあ、霧を晴らしたかった」
え?とアントニオさんが僕を見た。僕と言えば間抜けな表情で視線を返している。
アントニオさんはしばらく黙って、
「ヘイト」
「何ですか?」
「こんなに囚われているのは、俺だけかな?」
「他の皆もそうなんじゃないですかね。僕もそうです」
ふ、とアントニオさんは笑った。
「俺さ、他人はうまく割り切って賢く生きてるなって、そう思ってた。でも、違うのかな」
「悩みから現実逃避しているだけですよ。多分」
それはそれで賢いよな、とアントニオさんは呟く。
「霧、か。晴らせると思ってた。
怪物を捕まえて、吸血鬼を捕まえて、知りたかったことを全て知る。スッキリして終われるって。でも、そうじゃないのか」
軽いのは雰囲気だけで軽薄ではないと思っていた。しかし、想像以上に真面目な男だったようだ。伊達男のくせに。
こんな送還ギリギリになって新たな一面を知るとは……呆れてしまう。もっとたくさん話しておけば良かった。
「その呪いは、多分、一生続きますよ」
「そうかな?」
「僕もそうですし」
ふ、と、彼は泣きそうな顔を一瞬浮かべた後、短く笑った。
窓の外に目を遣ると、雲一つない夜空が広がっている。同じ空を見るアントニオさんは長い戦いを終えたような顔をしていて、瞳には白く光る月が映っていた。
暖かな陽光、鳥のさえずり、木の葉の鮮やかな緑に包まれている。
街の西。森の中に作られた円形の庭園。手入れの行き届いた芝生の中央には、大理石のような白い石材の椅子がある。
聖域だ。
数か月前の根絶作戦の影響はほとんど見られない。
僕、ミックさん、アイシャさん、エルザさんが見守る中、アントニオさんが石の椅子に座った。小さなテーブルと人数分の椅子を置いて、4本のワインを並べる。ミックさんがコルク抜きを持つ。
「空けませんか」
と聞くと、昨日飲み明かしたアントニオさんは苦笑いして、
「まあいいだろ」
と言った。
送還までもう少しだけ時間がある。ちょっとしたピクニックだ。
ポンッ、と小気味良い音がして栓が抜かれた。ミックさんは全員のコップにワインを注ぐ。
「昨年のお祭りで皆さんが参加された時の物なんですよ」
アイシャさんが教えてくれる。
「皆さんって……」
「ああ。勘治、教授、フベルト、ローマンか。あれは、そう。俺が召喚されてすぐだったっけ」
なるほど、それで4本か。僕が召喚される前に、お祭りに参加した皆が踏んだブドウで作ったワインなのだ。それぞれ瓶のラベルには、剝き出しの刀、厚い本、黒い巨馬、美しい弓と矢が描かれている。
「思い出した。あの祭りであいつらと仲良くなった」
「よく勘治先生と仲良くできましたね」
「フベルトが間に入ってくれたんだ」
「ああ、気が利きますよね。見た目と違って」
ミックさんが言う。
「そんな気難しい男だったのか。優男のローマンとは相性が悪そうだが」
「あいつはすぐ勘治と打ち解けられたみたいだ。ほら、ふたりともこだわり屋だから」
「カタナと弓の技を褒めあっていましたね」
くすくすとエルザさんが笑う。
「年長者として教授が取り持ってくれればね」
僕が言うと、
「無理だろ」
「無理だな」
「無理ですねえ」
酔っ払いの姿を思い出した皆のため息が重なった。
思い出話が続いている。
空き瓶が増えていくにつれ雰囲気は緩まっていって、皆の頬も緩んで自然な笑みが浮かんでいく。アントニオさんがこちらを見た。
「お前と始めてあった時は、こうして酒を飲むなんて思いもしなかった」
「鎧着てましたからね」
「びくびくしててさあ。こいつ大丈夫か?って」
「恥ずかしい……」
僕が召喚されて、いつもの村の、あの酒場で皆と会った。思い出話になるくらいに以前のことのように思うが、不思議と色褪せない。
今でも鮮やかに思い出すことができる。
あの頃は皆居た。
「……」
ワインがなくなったら、これで終わりなのだ。
「どうした?ヘイト」
黙った僕を見て、アントニオさんが言う。笑みを浮かべているが、これは心配している口調だ。
コップに残ったワインを一気に呷る。
おいおい、とアントニオさんは呆れている。息を目一杯吸うと、ブドウの香りが晴れ晴れと広がった。
「こっちの世界の霧だけは、僕が晴らします」
「お前――」
彼が真顔に戻る。
「必ず解決しますから」
酔った勢いで空の杯を掲げる。
「皆に誓って」
これで最後だが、死に別れるわけじゃない。
「例え離れていても、一緒に戦ってます」
満面の笑みを浮かべて言う。
「お前、そんな顔できたんだな」
「失礼な。笑うくらいします」
アントニオさんも僕と同じように笑っている。彼との別れはこうであるべきだろう。
「時間だな。皆、後は――――」
アントニオさんは皆の顔を見回して、愛おしそうに頬を緩めた。
「いや、もう、大丈夫か」
「さようなら」
「ああ、元気でな」
石の背もたれに身体を預け、ウインクをしたアントニオさんの姿は消えてしまった。
一瞬前にはいたことが信じられないくらいに、あっけなく。
立って、振り返る。
「ヘイト様?」
アイシャさんにかけられた声を無視して馬車へと向かう。
自分の顔から笑みが消失したのが分かる。
馬車の御者に、
「村まで」
と短く伝える。
いつもの村の、とある納屋だ。
鍬やスコップなどの農具が並べられている小屋の中心に、目的の物はある。
「ヘイト様」
息を切らしたアイシャさんの声が聞こえた。
振り向かない。ひとを殺しそうなほど不機嫌な顔を見られたくなかったから。
「止めないですよね」
「でも」
「もう身体は平気です」
先月の怪我はとうに治っている。
「着て欲しくありません」
壁をくり抜いただけの窓から陽光が射し込んでいて、黒を基調にした鎧とひと振りの魔剣を照らしている。
アイシャさんは言葉を継ぐ。
「吸血鬼を捕まえるにしても、他に方法があるはずです。何もそんなものに頼らなくたって、他の使徒様に――」
理解できない感情が腹の底で渦巻いている。
「僕は」
霧は晴れない。事件などそうそう簡単に解決できるものではない。
だが、
アントニオさんを苦しめた吸血鬼を許すわけにはいかない。
「僕は、怒ってるんですよ」