14話 黒い森
「蹴っちゃって、ごめんね」
返答が無いことは分かっていたから、自分の口から出た言葉を、自分の耳で聞いて、噛みしめる。
傍に跪いて、虚像しか映さなくなった瞳を見る。僕は映画か何かで見たように、厚い生地で覆われた人差し指と薬指で、つうっと瞼を撫でた。初めてやったからできるか不安だったが、ちゃんと彼の瞳を閉じることが出来て、安心する。
頬に残った涙と血の跡が、妙にくっきりと見えた。
気付いた木こりの一人が彼を優しく抱きかかえ、茂みの中から木の幹に、そのより小さくなった身体を凭れ掛からせてくれた。
これから起こるであろう戦いでも、茂みの中に居るよりは傷むことが無いだろう。
僕は、名も知らぬ小さな戦士の魂が、彼の主の元に行けるよう祈った。
あぁ、来てよかったな、と思う。
深い怒りが腹の中で渦を巻き始めると同時に、心のどこかが妙に冷めているのを感じている。
「アイシャには贈り物を渡せたんだろう?侵攻作戦は来月もある。君は参加しなくてもいいんだ」
と、数日前いつもの酒場で、ローマンさんが諭すように言ってくれた。
自分ひとりあの酒場にいて、テーブルに置いた硬貨を弄びながら帰りを待つだけだったら、その後皆がこんなところで戦いに身を投じていたことを知ったら、僕はきっと感じなくていい罪悪感で立ち直れなくなっていた。
遊撃しているアントニオさんと、伐採部隊にいるローマンさんと、兵站部隊にいるフベルトさんと、中継基地で報告をまとめる教授と、そして肩を並べている勘治先生と――
違う場所で、だけど同じ森と戦えることを、少しだけ誇らしく思う。
僕は斧をホルスターから外し、強く、強く、握りしめる。
後方から、材木という掛け声と、木が軋み倒れる轟音が聞こえ続けている。
――何故ここにいた連中は食事をやめたのか。決まっている。もっと活きのいい獲物を見つけたからだ。
深い森の中、こちらからは見えない位置で、すでに虎視眈々と様子を窺っているに違いない。
木立の隙間から、縦に割れた口を持つ化け物が次々と姿を現し始める。野良犬のように地面の匂いを嗅ぎながら、姿勢の低いのっそりとした動きで。
少し離れてはいるが、あれは奴らにとって獲物に恐怖を植え付けつつ仕留められると、本能的に理解している距離なのだろう。
その醜い外見と嫌がらせのような動きに、強烈な不快感を覚えた。
「やるぞ、ヘイト」
すでに鞘無を抜き放った勘治先生が、硬い声色で言う。
先生は不機嫌さを隠そうとしないが、僕も面の中で似たような表情をしているので他人のことは言えない。
「はい」
ざわめく内面とは裏腹に、凛とした声が出たことに自分で少し驚く。
黒い森の猟犬――――狗と呼ばれる魔物が一斉に、
歩き出し――
駆け足になって――
やがて全速力になる――
自分の血液が、全身に漲る感覚がする。
――上等だ、
殺してやる。
人だか魔物だか判別のつかない咆哮を聞きながら、僕は斧を振り続けている。薪や杭とは違う、動く的に当て続けることが、こんなに難しいとは思わなかった。
「侵攻作戦はね、ビジネスなんだよ」
と、ローマンさんが沈痛な面持ちで言っていた。
黒い森侵攻作戦は、その範囲を押しとどめ、魔物から人々を守ると同時に、得られる木材によって街の財政を支える一大事業でもある。
神の敵であることと危険度の高さ故に、国会の利権が絡まない黒い森は、自由に木を採って良い。税が少ないから、木こり達はもちろん、生活に困った人々がまとまったお金を得ることが出来る。
街や農村の人々と、黒い森には奇妙な共生関係が出来上がっているのだ。しかし、僕にはそれが腑に落ちない。頭では分かっていても、そこで犠牲になる人がいることが割り切れない。
木こりをかばって狗の牙に自分の身を晒した。別の木こりがそれに気付いて金槌を振るう。
「酷い戦いになる。――私達のうち誰かは、帰れないかも知れない」
「ローマン」
アントニオさんが咎めるように名前を呼ぶと、ローマンさんは口が滑ったことに気が付いたような表情を浮かべた。
あのときの言葉は、僕に聞かせたくなかったのだろう。
その時ちゃんと"僕も行く"と言えて良かった。
――もしローマンさんが言った通りになるのだとしたら、その役目は自分でいいと、そう思う。傷を負わないだけが取り柄の僕が役に立てることと言えば、それくらいだろう。
狗の襲撃が緩くなった隙を狙って、前に向かって全員で走る。
伐採部隊は万が一でも、自分たちが切り倒した木に僕たちを巻き込む訳には行かない。だから戦闘部隊が進まないと、後方の伐採部隊と木材を運ぶ兵站部隊が仕事を進められない。
木が採れなかったり、後方部隊の壊滅なんてことになったら、侵攻作戦の意味そのものを失わせてしまう。彼らは絶対に守らないといけない。
皆それが分かっているから、死に向かって全員で走る。
「頼りにしてる」
付いて行くと言った僕に、フベルトさんが笑みを浮かべながら言ってくれた。そういえば、皆と初めて会った時も、彼は僕が侵攻作戦に参加することに賛成してくれた。
社交辞令かもしれなくとも、根拠などなくとも、嬉しかった。
後方の部隊が仕事を終わらせて、撤退が完了した合図を聞くまで、森に残って魔物を防ぐ防波堤となるのが、戦闘部隊に与えられた唯一の仕事だ。
足を噛まれて引き倒され、馬乗りになった狗が頸に噛みついてきた。
左右の顎を掴んで限界以上にこじ開ける。鈍い音と手ごたえを感じる。顎関節を外せたようだ。怯んだ狗の腹を蹴り飛ばし、何度でも立ち上がる。
勘治先生が鞘無で脚を切り飛ばし、機動力を失った狗を、斧を叩きつけて仕留めていく。
酷い戦いだが、歩みを止める訳には行かない。
昨日の夕暮れ、夕焼けが辺りを赤く染める中継基地で、勘治先生とした稽古を思い出す。
たまたま一度だけ、僕の振るう木刀が勘治先生を捉えた。
大上段の構えから、風を殴る音と共に、木刀が先生の頭頂に迫り――
先生は木刀ではなく、いつの間にか発現させた鞘無で僕の一撃を受け流した。
「――多少はマシになったか」
勘治先生は構えを解いて刀を下げた。鞘無を地面に突き刺し、残った衝撃を空気中に撒くようにプラプラと利き手を振りながら呟いている。
「ほ、本当ですか!?」
驚天動地の大事件だ。
勘治先生が僕を褒めるだなんて、いや、褒め言葉として微妙なことは分かっていたのだが、
最早、先生が言う罵倒以外の言葉は賞賛に聞こえてしまう。
「実は僕に、隠された剣の才能が!?」
アイシャさんが、剣のレガロを持つ者は誠実で、魔物と戦う勇敢な使徒が多いと言っていたのを思い出し、調子に乗る。
「いや、無ェ」
「ですよねぇ」
想像通りの返答だ。多少なりとも才能があれば、もう少し先生相手でも善戦しているだろう。
ふと、自分の価値が低く感じてしまい、
「――才能が無くても、僕だけ死ななそうなのは、ズルしているみたいで少し嫌ですね」
そう独り言ちてしまう。
明日は死地へ行くのだ。皆は出来るだけの準備をしているのに、僕といえば着ている"呪いの鎧"頼みだ。我ながら情けないことだと思う。
「馬鹿が。生意気言うな、クソガキめ」
先生が言ういつもの罵倒に僕はつい、ふふっ、と笑ってしまう。
「あぁ――そうだな、お前は――」
「?」
なんだろう。珍しい。勘治先生が言葉を選んでいるように見える。
どちらかと言えば背中で語る、見て憶えろという風なひとなのに。
「――お前は連中の、鎧になってやればいい」
不思議なくらいスッと、その言葉は心に入って来た。
皆の――鎧か――
「――はい」
決意を込めて返事をする。
その言葉に満足したのか、勘治先生はいつもの仏頂面でゆっくりと頷いた。
濁流のように押し寄せる狗に、渾身の力で斧を振るい続ける。
魔物は許せない、こいつらはあまりにも理不尽だ、
この世界にかかった呪い、
人を殺すためだけに生まれたような化け物。
アイシャさんも、ノエミさんとその家族も、木こりの皆も、
こんなクソ共に傷つけられる謂れなど無い。
つらい戦いだが、歩みを止める訳には行かない。
そう、あの時、
先生と稽古の時、中継基地で、
魔物を憎み、人を守る、
僕は――
皆の――――
"憎悪の鎧"になると、そう決めたのだから。