139話 川の怪物
闇の中、灯る松明の方へゆっくりと近づく。
懐中電灯の白い光が、木の枝から垂れ下がる切られた縄を照らした。
クソ……と呟いたミックさんが、構えていたライフルを下げる。彼に続いて茂みを避けると、横たわって動かない女性と、その傍にしゃがみこんでいる見知った背中が見えた。
「アントニオさん……」
呼びかけると、彼は振り返る。疲れ切った瞳が、僕を捉えた。
伸びた黒髪を無造作にまとめていて、小麦色の肌は薄汚れて見える。いつもの余裕ありげな微笑みは鳴りを潜め、憔悴した表情が窺えた。
「何しにきた」
「お前と同じだ」
突き放すようにな言葉に対し、ミックさんがすげなく答える。
「お前らに何ができる」と、アントニオさんは目を背けるように前を向いた。立ち上がり、辺りを調べ始め。
「邪魔だ」と続ける。
拒絶されたことより、いつもの彼なら言わないような言葉を聞いたことが、それほどまでに追い込まれていることが伝わることがつらい。
狼だろうか。遠吠えが聞こえる。
「もう夜になる。一度村に戻って、泊めてもらおう」
「まだやることがある」
「狼が出ると聞いた。ここは危険だ」
「遺体を持っていかれたら調べられない」
ミックさんが言うが、取り付く島もない。彼はこちらに目を向けずに手を動かし続ける。
状況的に、吸血鬼による犯行だろうか。だとしたら、とうとう連続殺人になってしまった。
重要度が上がった。それは分かる。しかし、こんな暗闇の中で調査して、何が分かるのか。疲労か、意地か、アントニオさんは合理的な判断ができていないのだろうか。
権威や名誉のために頑張っているようには見えない。
何が彼をそうまでさせている?
なんで何も話してくれない。
背中に呼びかける。
「村のひとに頼んで、遺体を運んでもらいましょう?」
「現場に人を入れたくない」
「無理を続けて手がかりが得られればいいがな。どうせ行き詰ってるんだろ」
苛つきを滲ませるミックさんの言葉に、アントニオさんが振り返って睨んだ。
「ミックさん」
売り言葉に買い言葉なミックさんに、咎めるような口調になってしまう。
「帰れ」
そんな突き放すような口調で話すひとじゃなかった。僕たちが突っ立っていると、去らないなら、俺が去る、と言わんばかりに、森の中へ行こうとする。背中が闇に溶けていく。
狼の遠吠えが聞こえる。
ここは危険だ。いくら使徒とは言え、夜通しここにいるのは良くない。
無言を貫く彼の背中を睨む。
ここで行かせたら、もう二度と会えない気がした。
手を組まれた遺体を横切り、アントニオさんの背中に近づき、手首を掴む。
振り払われた。大した力ではなかったが、怪我をした身体は踏ん張りが効かずに尻もちをついた。アントニオさんの眼が揺らぐ。
「大丈夫、か……」
つい口走ってしまった、そんな表情で下を向く。気に入らない。
立ち上がり、胸倉を掴む。苦しむくらいの力は入っていなかっただろう。だが、僕がこんなことをするなんて、そんな驚いた表情でアントニオさんはこちらを見た。
「……離せよ」
「僕、今、どんな表情してますか?」
アントニオさんはまた下を向く。
「分かんないなら教えますよ。『あんたが心配でどうしようもない』って顔です」
伏せた眼が揺らいだ。
「このまま、何も話さずに還るつもりですか」
しっかりと伝えたかったが、言葉尻が消えかけてしまう。
「頼ってくださいよ……」
役に立ちたいという気持ちだけあっても、役に立てるかは別問題だから。
「……分かった」
ため息と共に、力が抜ける。
「分かったから、そんな顔すんな」
諦めたように、アントニオさんは少し笑った。
狼の遠吠えが、さっきよりも遠く聞こえる。
木こりの家に泊めてもらえることになった。一部屋に質素な家財を詰め込んだ素朴な家だ。奥さんが雑魚寝できるように準備してくれている。
使徒が一緒だと心強いから、と快く迎え入れてくれた。
僕、ミックさん、アイシャさん、そしてアントニオさんがテーブルに着いている。ワインを口に含むと、アントニオさんの表情が和らぐ。
「凶器は俺の、川の怪物だ」
アントニオさんはそう言った。
黒い霧を出して魔物の眼を欺くナイフ、そして拳銃が対になった、アントニオさんの才能だ。
ひとつ確認させてくれ、とミックさんが切り出す。
「拳銃の方は22口径だろ?よほど当たり所が良くなければ、頑丈な魔物を即死させるにはストッピングパワーが足りない……しかし、お前はバタバタ魔物を倒していた」
普通に考えればアントニオさんの銃で魔物は殺せない。つまり……
「銃本体か、銃弾か、ただの拳銃じゃないんじゃないか?」
弾の方だ、とアントニオさんが頷く。
「霧弾」
彼は言葉を選ぶために、机の木目を眺めている。
「何て言うのかな……銃弾が当たった生物を死に近付けるというか、身体の不全を引き起こさせるんだ。どんなに防御を固めても。
人狼でも、10発も食らわせれば倒れる」
「恐ろしい怪物でも殺せる、銀の弾丸ということか」
「今は怪物が持っているけどな」
ちら、とアントニオさんは僕を見た。直ぐにコップの水面に視線を落とし、「先月の大規模侵攻作戦でのことだ」と話し始める。
大規模侵攻作戦の半ば、アントニオさんは補給部隊の護衛をするために他の使徒たちと離れた場所にいた。黒い森の真っ只中に作られた、戦うための物資を運ぶ馬車が行き来する一本道。
そこを魔物の群れが強襲した。
息つく間もなく柵が壊され、馬は恐怖で言うことを聞かなくなる。これは被害が大きくなる、ともすれば、前線で戦う皆にも影響があると考えた彼は、川と霧を行使したそうだ。
レガロにより大量の霧を発生させて辺りを包み、魔物を狂わせる大技だ。
霧に守られて補給部隊は危機を脱するが、アントニオさんは能力の使い過ぎで気を失ってしまう。
すぐに木こりが気づいて助けられたが、中継基地で目覚めると、川の怪物が無くなっていた。
「お前が必死になってるのはそういうわけか」
とミックさんが言い、
「アントニオ様は悪くありません」
アイシャさんが断言した。
彼女が言ったことは事実だ。
誰かを守るために自らを犠牲にして使った力が盗まれ、誰かを傷つけるために使われている。どう考えても盗んだ奴が悪い。
――レガロは、その使徒が歩んできた人生そのものだからだ――
しかし、悪くないと言われ、そうですね、と開き直れるものではない。自分が元の世界で培ってきたものが、この世界の脅威になっているなど、何と言われようが容認できるものではない。
それに、アントニオさんはもうすぐ送還されてしまう。この世界に遺恨を残したまま、手が伸ばせない場所へ行ってしまう。
「ミックの言った通りだ。俺ひとりじゃあ、何も分からなかったよ」
そう言いながら、自嘲気味に笑う。
責任を感じ、残された時間で果たそうとしていた。
誰にも言えないまま。
机に突っ伏して寝てしまったアントニオさんを横にして、ろうそくの火を消す。何日間まともに寝ていなかったのだろうか。寝心地が良いとは言えない床の上で、彼は泥のように眠っている。
僕も横になり、数人の寝息が聞こえる完全な暗闇の中、真っ黒な天井に向けて指鉄砲を向ける。
きっと捕まえてやるさ。
「バン」
天秤をあしらった仮面を被る、白い鎧に向けて、囁いた。