135話 調査書の1ページ目
どさ――と、
仰向けに倒れる。
僕の体重を受けとめたベッドの、木で作られたフレームが軋んだ。
「うーん」
唸ってみるが、じん、とした頭痛は収まらない。寝過ぎなのだ。絶対安静と言われて教会のベッドに突っ込まれてかれこれ数日が経つ。
お日様の香りがするシーツに顔を埋めて暗闇を作ってみたが、人間そう長い時間寝ていられるわけではなく、訪れたのは睡魔ではなく退屈だった。
入院生活の始めこそ重傷者らしく横になってばかりだったが、快方に向かってくると動ける分、暇が際立つ。
テレビやゲーム、インターネットなどはこの世界にあるはずもなく、高価な書籍類は質素な病室に置いていない。
緩い服の胸元に手を入れて、塞がりかけでうずうずとする傷口を引っ搔くくらいしかやることがなく、これも「治りが遅くなるぞ」と怒られる。
ばん――と、
ノックもなく扉が開けられた。白い修道服を着ている女性が食器の乗った盆を持ち、ずかずかと部屋に入り、机の上にどかっと置くと、
「あ、ありがとうございま――」
言い終わる前に部屋を出ていった。
修道女、忙しそうだったなあ。
最近のシスターたちは皆あんな感じの態度を取っている。
のそのそとベッドから起き上がってテーブルへと向かう。
献立は、硬質なパンと飛び散った野菜スープ、こってりとした脂が茶色く焦げた豚肉のソーセージ。いつものやつだ。
「いただきます」
呟いてから、パンとソーセージを一口サイズに切ってスープに入れ、まとめて口に運ぶ。別々に食べるよりこうした方がおいしいと気づいたことは、入院生活で得た使い道のない知恵のひとつだろう。
シスターの態度も昼食の雑さも仕方がないと、食事と一緒に飲み込む。僕が嫌われているわけではない。多分。
大規模侵攻作戦が終わり、僕の他にもうんざりするほどの怪我人がいるから、日々の激務に忙殺されそうになっているのだ。
入院服で呆けた顔をし、食っちゃ寝食っちゃ寝しているだけのコアラのような患者などに振りまく愛想は残っていない。
いくら僕が神に遣わされた使徒で、この世界で暮らす人々の信仰の対象になっているとはいえ、だ。
もごもごと口を動かしながら、石壁に木枠を嵌め込んだ窓に近づいて大広場を見下ろす。暖かい陽光の下、街に住まう人々が買い物をしている。
喧騒はいつもより勢いがないように感じる。夏の暑さが落ち着いてきて過ごしやすくなっているからか。
それもあるだろう。
あるのだろうが。
嚥下してから窓枠に両肘をついて呟く。
「空前のローマンロス、かなあ」
とある使徒がこの世界での1年間を過ごし、もとの世界へと還っていったのが、少し前。
毎月数人の使徒が召喚され、数十人がここいらで生活している。常に移り変わっていく顔ぶれの、そのうちのたったひとり。
それでも、あれだけ愛された使徒もいなかった。
"送還祭"の盛り上がりからも、皆が内に秘めていた彼に対する尊敬と愛情の深さが見て取れた。
十数匹の魔物の気を引いたダリアさんが攻撃を避け続け、ローマンさんが冴えた弓の腕で屠っていく。
一射で3匹の狗を仕留めた時には、彼の才能が鳴らす破裂音を集った者たちの歓声がかき消したほどで――
その去り際など、街の人々、特にご婦人のみなさまの惜しみ方などは筆舌に尽くしがたく、彼女らの流した涙で少し気温が下がったのでなかろうかと、そう思ったものだ。
さながら偶像の引退。
まあ、聖域で別れを告げた時は、僕も悲しかったし、同じく喪失感は抱えているのだから、気持ちは街の人々と共有している。
「ごちそうさまでした」
木皿を空にしてから手を合わせて呟く。それなりに時間が経ったことを告げる鐘の音が重々しく響いた。こう顎が痛むと物を食べるのにもゆっくりとしてしまう。確か骨にヒビが入っているのだったか。
また暇になってしまった。とりあえず腕立て伏せでもしようと、床に両手を着き、身体を押して起こすと身体の節々が痛む。
「いち」
街に戻ってきた時はアイシャさんあたりにおかえりなさいと、そう言ってもらえると思っていたのだが、対面して開口一番「何で生きているのですか?」と言われてしまった。
「に」
遠回りな死んでいて欲しい、ではなく、何故そんな状態で生きていられるのか、という意味だ。多分。
そのくらいには僕の健康状態は酷かったらしい。
それでも驚くことに数日寝ていると動けるようになってきた。これも神から貰った"才能"のおかげだろうか。
「さん」
あの時のアイシャさんの表情は忘れられない。眼が暗く据わり、口が"へ"の字に曲がり、このアホはどうしたら無茶をしなくなるのか、と言いたげで。
そうそうまさしくあんな表情で――
開かれたドアの向こうに、教会で暮らす清廉なシスターであり、この異世界で最初に会った僕の案内人であるアイシャさんが、腕立て伏せをする僕を見ていた。
「絶対安静ェ……」
「いや、ちょ、待って。これにはわけが」
「何度言えばご自分の状態を理解できるのですか?」
つつ、と距離を詰めてくる白い修道服が、窓から射し込む日の光で光って見える。
「全身の内出血!」
額に青筋を立て、眉根を寄せてぱちりとした二重の眼で僕を睨む。
「打撲と骨折!」
人差し指が胸元に当たり、堪らずにベッドへ逃げて縮こまるが、アイシャさんはさらに歩を進めてあっという間に僕が逃げる場所をなくしてしまう。
「内臓の損傷!」
アイシャさんはベッドに乗り上げて僕の襟首を掴んだ。いつもの笑顔を失った褐色の顔が目の前に迫り、不健康な汗が噴き出し、とても目を合わせられず泳ぎに行った視線が帰ってこない。
「も……もう治っちゃった。みたいな?」
「マイケル様、このひとをベッドに縛り付けてください」
彼女が振り返った先には大柄な男性が肩をすくめている。
「そう脅かしてやるな、アイシャ。ヘイトが悪戯がバレた実家の犬みたいな眼してるだろ」
彼は太い腕で椅子の背もたれを引き寄せると、腰を下ろした。白い肌に無精ひげを生やし、硬そうなダークブロンドの髪を短いモヒカンにしている。
マイケル・アーリマン。僕と同じ使徒だ。
「邪魔するぞ、ヘイト。今更だがな――――調子はどうだ?」
「た、退屈です」
「良い兆候だ」
その調子で助けてほしい。
「アントニオには会ったか?」
「そう言えば……アントニオさんとメサさんには、まだ……」
ふむ、とミックさんは考え込む。入院してから色々なひとがお見舞いにきてくれたが、ふたりの姿は見ていない。
「ヘイト様、もう何もなさらなくて良いんですよ。働かずに教会で暮らしましょう。私がお世話いたします」
沈黙の隙を突くようにアイシャさんがそう言いだした。
「いつまで?」
「送還までです」
「そんなあ」
残り正味2か月間ここで暇するだけとは。それでは囚人と変らないではないか。
「み、ミックさん。それで、アントニオさんは?」
彼の青い瞳が床から僕へと移る。
「トーニォは捜査だ。メサは知らん」
「ミック様!」
アイシャさんがミックさんの方を見て鋭く言った。
「心配するな、アイシャ。俺たち使徒は頑丈だよ」
「そう言う問題では……」
やっと襟首から彼女の手が離れる。
「捜査って……」
「殺人だ」
「殺し。魔物ですか?」
数か月前に起きた影像にまつわる狩りのことを思い出して聞くが、
「いや……どうだろうな……人間に近しいと思うが」
あのミックさんが断言しない。妙な言い方だ。アントニオさんが顔も見せないで捜査していると言うし、どうにもただ事ではなさそうだが。
「俺はトーニォに合流するつもりだ。ヘイトも行かないか?」
「絶対安静」
アイシャさんが睨んだ。だが、僕と違ってそれで怯むようなミックさんではない。
「そうは言うがな、アイシャ。アントニオの送還は間もなくだ。エルザも心配していただろう」
「そう、ですけど。ローマン様の送還祭に行ったりするのも嫌だったんですよ……」
「殴り合いに行くわけじゃない。リハビリみたいなものだ」
迷いのないミックさんの言葉に、アイシャさんの勢いがなくなりつつある。俯きがちでシーツを握りしめていた。僕の身を心配しているからこそ、なのだろう。申し訳なさに苦みを感じる。
「アイシャも一緒にどうだ?ヘイトがまた暴走しないよう監視をしておいてくれ」
「それなら……」
不承不承としながらも、アイシャさんは僕の退院に首を振ってくれた。
「それで、どんな事件なんですか?」
「俺も詳しくは知らなくてな。明日、遺体安置所で詳細を聞く手はずになっている。だが――アイシャ、概要は聞いているか?」
「え、ええ。吸血鬼の仕業だって、街の皆が話していた件ですよね」
「吸血鬼……」
アントニオさんが吸血鬼を追っている?
――黒い森で会った白い鎧を憶えてるか?あいつは白い馬で、神伐から付けられた名はドラクル――
頭を過ぎるのは、前の大規模侵攻作戦の時、黒い森のなかで、白い鎧を着る男に命を狙われたアントニオさんの姿。
一手遅かったら危なかった。
吸血鬼による殺人、その犯人が白い馬だとしたら。
危険だ。
気付くと、じっとりとした手汗を握りしめている。
「そう、確か、犯行に使われた凶器が特殊だと聞きました。見ない傷跡だったと。えぇと、前に教授から教えてもらったような……」
アイシャさんが指を顎に当て、瞳を閉じて考え込んでいる。
アントニオさんが捜査している。珍しい凶器。かつて教授が言っていた。
「それって、もしかして、拳銃ですか?」
アイシャさんが目を開く。ミックさんはゆっくりと頷いた。
「ああ。先月、銃で殺害された男女のカップルが見つかった」
不意に感じた気味の悪さに生唾を飲み込む。
この中世欧州のような異世界で、銃殺されたカップル、か。