129話 魔法
≪何故だア、兄上≫
≪何故、北へ往かせた≫
≪何故、吾輩を頼らない≫
≪ディマス、神罰教会、使徒も……捕らえられん≫
≪もう2か月にもなる≫
≪その気になれば捕まえられたはずだ≫
≪何故、好きにさせている≫
≪吾輩に任せてさえくれれば≫
≪……また奴らの勝手を許した≫
≪兄上≫
王都の外壁に近い、古い教会にいる。地下には例の共同墓地がある。ここを預かる神父さんは大聖堂に呼び出されているようで不在だ。広い空っぽの空間に、ローマンさん、フェルナンドさん、それとディマス騎士団の面々と集まっている。いよいよディマス伯爵を連れて王都から脱出だ。
「準備できたか?」
「はい」
脱出は成功するのか失敗してしまうのか。たった数日でそんな次元の話じゃなくなってしまった。
クーデターを企てたザカリアス将軍が帰ってくる、その噂は水面に岩を放り入れたような混乱の波紋を広げ、王都は混乱の渦の底に落ちた。
12年前の地獄のような記憶が残っている者たちはこぞって安全な場所へ――王都の外を目指し、壁に阻まれ、門の近くで暴動になった。
ホセ王は王国の守りを固めるのに兵を割いたから、治安維持はおざなりになっている。ここまでくるのに衛兵と会わなかったのが良い証拠だ。
「ヘイト様、頼まれていた切り札です。主のご加護を」
セバスティアーノさんに羊皮紙のメモを手渡される。中を見て、満足する。
「ヒメネスの皆さん、ダリアさんたちも……幸運を」
ひどく天気が良い。
教会に射し込む陽光から逃れるように、フードを目深に被る。
"夜宴の兜"を身に着けている僕は特に目立つから、聖職者の抜け道を使うイザベルさんやダリアさんたちとは別行動だ。
おじいさんに連れられてカタコンベを通って王都から脱出し、聖職者に紛れ込んだ皆とは領土から出たところで合流する手はずになっている。
「それじゃ、行こうか」
ローマンさんが号令をかけてカタコンベに入った。
順調だ。
人骨が満たす通路に数十人の雑踏が響いている。暗くてよく見えないが、おじいさんとディマス伯爵が先導する騎士団員の足取りは一定で、淀みがない。
不思議と、誰も口を開かなかった。
昏い路。
先導する墓守。
見分けのつかない鎧たち。
壁を形成している骸骨が口を動かす。
「神伐の売女が創る二度目の舞台だ」
これから熾るであろう戦火から逃げるために足を動かす。死者の世界から逃げて、生者の世界へ征く。
彼岸から此岸へ歩いているような。
柱の髑髏と目が合った。
「兄は弟を信頼しているが、弟は兄に不信感を抱いた。兄弟の想いはすれ違い、果てに国家を巻き込んだ戦争が起こる。陳腐だな」
ザカリアスは逆に、此岸から彼岸に向かって歩いているのだろうか。
怨敵は王都を蹂躙するが捕まらず、長年仕えてきた腹心に裏切られ、理解者になるかもしれなかった使徒は傷ついた。
守りたいものを守れず、憎いものを殺せず、信じた兄に離れるよう命じられた。
放逐だと、感じたのではないか。
手を着くと、髑髏が転げてしまった。虚空の詰まった口が嗤う。
「見てやろう。さして面白くはないだろうが」
ホセ王とザカリアスは家族で殺し合うのか。
「――なあ、ヘイト。私の邪魔をするのではなかったか?」
≪こちらダリア。王都から出られたよ≫
無線機からの音で我に返った。聖職者の抜け道を通った皆は無事に門を抜けられたようだ。安心感で身体の力が抜ける。
≪――ヘイト?聞こえてるか?≫
「ヘイト、応答しないと」
ローマンさんに言われ、
「そうですね――こちらヘイト、ダリアさん。順調です……問題……ありません」
迷いが言葉を鈍らせて、
≪良かった。合流地点で待ってるよ≫
立ち止まってしまう。
「――ヘイト?」
振り向いて訝しんだローマンさんに無線機を押し付ける。
「ローマンさん、僕、野暮用を思い出しました」
彼の眼が見開かれる前に、踵を返して背中を見せた。その背中に声が掛けられる。
「ヘイト、本当に行くのか」
「……」
「……私の送還、ちゃんと立ち会ってくれよ」
背中を押してくれた気がした。
「――はい!」
王国軍とザカリアス軍は王宮の柵を挟んで睨み合っている。両社の間には緊張を敷き詰めたように空間ができている。よく見ればあの時の広場だ。ディマス伯爵の処刑場で、ザカリアスと初めて戦った場所。
「軍を退かせろッ!ザカリアス!!」
「ホセ王、玉座から降りてもらう。もう貴様には王都を守れまい」
「血迷ったか!!」
完全武装の弟を目の当たりにした今でも信じられない、そんな表情でホセ王は叫び、ザカリアスは暗い表情で淡々と宣言している。
王国軍はどこか浮足立っているのに対して、ザカリアスの軍に迷いはない。互いの指導者の様相を表しているようだ。
「ザカリアス様、ホセ様の眼を覚まさせて差し上げましょう」
煌びやかで傷一つない鎧を着る男がザカリアスに耳打ちするように話している。多分、あいつがレオナルド・ネグロンだろう。
「王都の――延いてはこの国の平安のため、私も力の限り戦います」
あいつがクーデターを起こすように唆した。それともスクブスが関わっているのか。今となってはもうどうしようもない。
レオナルドはネグロン家の宗主でもなく、スパイ行為をすることで北方諸国に取り入るような中途半端な立場でもない。
新たなる国家の宰相あたりを狙っている。勝馬に乗るつもりか。
ザカリアスはレオナルドを押しのける。
「貴様の口車に乗ってやるから黙っていろオ」
ぎろりとしたザカリアスの眼に射止められてレオナルドは口を噤んだ。
今しかない。
両軍の間に出来ている距離の中央に歩み出る。幾百の視線が突き刺さるのが分かるが、守ってくれる呪いの鎧はない。
王宮と王国軍を背にして立ってローブを脱ぐ。
ザカリアスが口を開いた。
「ディマス?」
「そいつの言うこと聞いて戦うんですか?」
「あぁ、貴様ア、あの使徒擬きかア」
「その男とホセ王、どっちが信じられるんですか?」
「何しに来たア」
何しに来た、か。
何しに来たのだろう。
何が変わるわけでもない。
今の僕に力はないのだから。
――憎悪を捨て、信念に殉じろ、ザカリアス。でなければ私が轡を並べることはない――
「ネバさん、意識を取り戻したみたいですよ。リーレーズにいます」
ザカリアスの目線が明確に揺らいだ。
誰かがザカリアスに捕らえられた際、交渉の切り札としてセバスティアーノさんに用意してもらった情報。
この切り札は取っておきたかったが、ヤツの目の前に立ったら切ってしまった。それじゃ公正じゃない気がしたから。
「まだ邪魔をするのかア。吾輩のオ」
「問おう、ザカリアス」
漆黒の獅子のような顔がこちらを睨んだ。
――鎧を纏う。その理由を忘れなければ、大事なことを見失わないのにね――
「貴様が鎧を纏う理由は何だ?」
「貴様こそ何だア。何故戦う。王都に混乱をもたらしただけではないか」
「僕を倒せたら教えてやる――――」
ザカリアスは憎々し気に奥歯を噛み締めると、殺せ、と目線で指示を出した。
親衛隊がふたり、剣を抜いて歩いてくる。
僕を殺すための最短の足取り。
呪いの鎧もなく、
切り札ももうない。
助けてくれる皆も。
あるのは、この兜。
一歩も動けない。親衛隊が剣を振り上げる。
刃のその向こう。
ザカリアスが率いる軍の先、
ずっと奥の方に髑髏が立っている。
「"夜宴の兜"は、身に着けると好きな魔法をひとつ、悪魔との契約なしで使える」
悪魔が笑った。
「"鎧袖"の悪魔よ、契約を履行する」