127話 黒い馬
腰の鞘から"シャナの金糸"をすらりと抜く。暗い廊下で、金色の刀身にろうそくの灯りが映り濡れたように光る。
剣を投げつければ届く距離に、あの女がいる。
黒いローブを誂えたドレスのように着こなし、弓と矢を弄んでいる美女。
琥珀色の十字に割れた瞳はこちらを真っすぐに捉え、整った顔には怪しい笑みを称えている。
黒い馬。
「私はスクブス。髑髏を被った貴方のお名前は?」
「佐々木竝人――ひとつ聞いても?」
「ああ!貴方がヘイトなのね。聞きたいことって何かしら?」
「なんでこんなことを?」
「フフ……漠然とした質問ね。どう答えたものかしら……」
楽しそうに笑みをつくり、
「舞台を作るの。神伐様に捧げるための舞台」
「神伐の……悪魔か」
黒い森を作り出した元凶の名を口にした。
「悪魔だなんてとんでもない。あの方は力と永遠の若さを与えてくれた。託宣を乞うとこう仰られたわ。『楽しませろ』とね――12年前もいたくお喜びになられたわ」
スクブスは自分の肩を抱いて、恍惚とした瞳で言う。
神伐の悪魔はこの世界を黒い森で覆いつくすという目的を遂げるため、4人の人間と契約を交わした。病気にならず老いもしない身体と、強力な才能を与える代わりに、世界を滅ぼす手伝いをさせる。
この女は恩返しにと、神伐の悪魔を喜ばせることにしたと言う。
「それで今回も同じようなテロを起こしたのか……もうひとつ」
目を細めて質問を歓迎している。
「ムドーは実の子供か?」
女は一転して悲し気に目を伏せた。
「そうよ。ムドーだけじゃないわ。ハイドレートもグローリーも、私の大切な子供たち。皆、勇敢に戦ってくれた」
神罰教会の伝道師はこの女のことを母と呼んでいた。育ての親とか、名付け親とかでもなく、信じたくはなかったが、そのままの意味だった。お腹を痛めて産んだ子供達は、こいつのために死んでしまった。
「これで最後だ」
「いくら聞いてくれてもいいのよ」
「彼らの本名を知りたい」
"無道の鎧"。
"爆発反応装鎧"。
"栄光をその手に"。
それは呪いの鎧の名だ。あの3人は伝道師としての役割があったから、そう呼ばれていただけではないのか。スクブスが言う舞台で例えるなら、役名でしかない。役名であるなら、役者本人の名前があるはずだ。
生まれ落ちる時に、親から授けられるはずだ。
「本名なんてないわ」
「そうか」
胸が締め付けられる。
「神伐様の尖兵として生まれたのよ。洗礼名だけで十分」
「そうかっ……」
良かった。
僕がこいつの言っていることを何一つ理解できなくて、本当に良かった。
――ヘイト。どれだけ望まぬとも、授けられるだけ幸運なこともある――
――そして、強大な力を得た人間は悪魔に類する――
鎧袖の悪魔と同じだ。こいつはもう人間じゃない。
締め付けた何かが、縒り集まって固い覚悟になった。
「それにしても、神伐様のことを使徒が知っているとは思わなかったわ。あぁ、そっか、メフィストに聞いたの。ねえ彼、どんな最期だったの?」
その至って自然な作り物の笑顔にむかっ腹が立つ。メフィスト、ムドー、ホセ王たち、この女に人生を狂わされた者たちに代わって、無性に意趣返ししたくなる。彼らは望まないかもしれないが。
「メフィスト、あんたのこと話してましたよ」
「へえ、なんて?」
好意を寄せる相手が口にする噂話が気になっている、そんな風に見えて気色が悪い。
「クソブス」
一瞬だけ、女の顔から余裕が消えるのが見えた。鼻で笑う。
女が"ウィリの弓"を構えた。
「佐々木くん!伏せて!」
警告が聞こえて反射的に膝を折る。勢いの乗った棍がスクブスへと飛んだ。螺良さんの"幻日環"だ。スクブスは矢を射って難なくバトンを撃ち落とす。
螺良さんは階段を駆け上がる勢いのままバトンを拾うと、鞭に変えて振った。蛇のようにしなったリボンはスクブスの左手首に巻き付き、弓を引けなくする。
「下は片付いたよ――この女が伯爵の敵なんだね」
「ええ」
螺良さんの声が冷たくなる。
「異世界だしひと、殺してもいいよね」
「こいつはひとじゃないのでノーカンです」
スクブスは静かな笑みを称えている。
「踊るには少し狭いわね」
ギギギ、と床が鳴き出した。
伐採で聞いたような、太い木を強引に折るような嫌な轟音と共に、床が崩れる。一瞬の浮遊感の後、全身を衝撃と痛みが襲った。
ビックリしている場合ではない、"最適化"と念じて痛みを追いやる。天井が高く……いや、床を抜かれて玄関に落とされたのか。
奴は――
吹き抜けになった空間に、深緑の枝葉が絡まって足場ができている。スクブスはハンモックに腰掛けるようにしてこちらを見下していた。白い足首に巻いた"ローレルの冠"からバケツをひっくり返したように月桂樹が下向きに伸びている。
あいつの才能が床を崩した、と言うより押しやったのか。
スクブスの手から新たな枝葉が伸び、矢を成す。矢継ぎ早に放たれた数本は、僕に届くことなく"審理者の剣"に阻まれた。弾かれた矢がどこかへ飛んでいく。
「ご無事ですか?」
「大丈夫です。フェルナンドさん」
「あれが神罰教会の預言者。只者ではありませんね」
僕を背に庇うように立つフェルナンドさんは、エントランスホールに降りてきたスクブスから目線を外さぬに言う。
「貴方から踊ってくれるの?フェルナンド・イエルロ」
「私から!」
折れた木材を踏み越えて、螺良さんが戦棍を持って躍りかかる。
堂の入った攻撃は、クルリとターンしたスクブスに避けられた。自由自在で果敢な連撃は、黒いローブを捉えることなく空を切る。
「だったら!」
振り降ろした幻日環を足の指で掴み、前方に宙返りするように足を振り回すと、クラブが円月のような軌跡を描いた。頭蓋骨でも叩き割れそうな絶巧の攻撃は、しかしローレルの冠から伸びる枝葉に阻まれる。
冠から急成長した月桂樹に絡めとられ、螺良さんは身動きを封じられてしまう。
「こんなもので……!」
脚で投げたクラブが戦輪に変わり、戻ってきて枝を斬った。それと同時に、大男の振るうスレッジハンマーが甲冑を攫った。
重い金属音が響き、螺良さんの身体は数メートルも飛ばされる。
「螺良さんッ!」
フュールさんが魔法で焼いた男が、黒焦げで瞳孔が開いたままの大男が、スレッジハンマーを片手に覚束ない足取りで歩いている。
「嘘だろ」
あの男は死んでいたはずだ。男の胸には矢が刺さっていて、傍らには白い女の亡霊が付き添っている。
まさかあれが"ウィリの弓"の能力……死者を操れるのか?
男はハンマーを引き摺りながら螺良さんの方へ向かう。彼女はうつ伏せのまま動かない。
他にも数人、スクブスの流れ弾に当たった教会員数名が立ち上がり、襲い掛かってくる。あいつが最初に射た矢の狙いはこれか。
「今助けに――!」
「ヘイト様!私から離れないでください!」
「でも、螺良さんが!」
「C・フュル・フュールよ!契約を履行する!」
迸った雷撃が操られた教会員に当たって弾き飛ばした。フュールさんの魔法だ。彼女は壁際から援護射撃をしてくれている。しかし、倒れた敵は片腕を失いながらも立ち上がろうとする。
「フェルナンド!」
「オオッ!」
フュールさんが魔法で作った隙に、フェルナンドさんが動いた。
気迫と共に審理者の剣を振るってふたりを斬り伏せると、強烈な踏み込みからの一刀が黒焦げの男をハンマーごと両断した。
泣き別れになった上半身は未だ床の上でぎこちなく動いている。
「凄い凄い!じゃあ、これならどうかしら――」
愉し気なスクブスの声に背筋が凍る。
周りには、いつの間にか月桂樹が張り巡らされている。エントランスホールを鳥籠のように囲んだ枝葉が黒く染まっていき、纏まり、形を成して、無数の矢を形成した。
矢じりはこちらを向いている。
逃げ場は。
「ヘイト様!」
フュールさんが急いで扉を開けて身を隠そうとするのを横目で見る。フェルナンドさんは僕と螺良さんに覆いかぶさり、
「――白霊劇場」
質量を感じるほどの風切り音が鳴った。