121話 9月11日 追い、追われ、エンシエロ
ドン――
と後を引く爆発音が空を震わせると、地から足音と歓声が噴きあがった。闘牛場を取り囲む石の壁を越えて音の波が届く。
牛追いが始まったのだ。
午後一番の花火で始まったエンシエロは、都から数キロ離れた牧場をスタート地点にして、ひとと牛をここまで運んでくる。
観客席に人影はまばらだ。
都中から住民が沿道へと集まり、建物の窓から顔を出して6頭の猛獣と、白装束に赤い帯の参加者たちが並走する。熱された砂よりも、高熱に魘されるようなお祭りを見にいくのは当然だろう。
並走は嫌だが、見物なら行ってみたい。思い切り走り抜けるダリアさんとブラックナイト氏は群衆の中からでも容易く見つけられたことだろう。手を振れば振り返してくれただろうか。そんな妄想をして、ブラックナイト氏と一緒に行けばよかったと思う。
退屈していると、ふたりの騎士を引き連れた大柄な男性がVIP席に入ってくる。頭抜けた地位や金がある者しか入れないここへ、馴染みの店に入るかのように、その足並みに迷いはなく。
「貴方は、確か……ヘイト様、でしたな」
「――ホセ王」
本当に、連れて行ってもらえば良かった。
「隣、良いかね?」
鷹揚な微笑を浮かべる王に対し、コクコクと何も言えずに首を縦に振る。思わぬ再会に全身が警戒を発するがそれで手足が動くようになるわけはなく、王が椅子に腰を落とすまで何も言えなかった。
「何故ここに」
立ちっぱなしのふたりの騎士に冷たい視線を注がれるなか、やっとのことで言葉を出す。
「祭りの主催者は私だ」
王は誰もいない砂の上を見ながらそう答えた。
「名前を貸しているだけではあるがな。この都の者どもは私がおらずとも祭りをする。そちらは?伯爵は見つかったかな?」
鋭い視線と共に質問を寄越す。僕がここにいる理由だ。ここで伯爵が見つけられなくて良かった。
「いいえ。どこにも」
何とかそう返すと、ふ、と王は雰囲気を緩めた。
「そう緊張するな。ザカリアスはいない。私の命令に従い、親衛隊の半数を連れて北へ往った」
「せ、戦争ですか?」
「そうならないように向かわせたのだ。ヘイト様はネグロンという貴族のことは聞いているかな?」
ええ、少しは、と答えると、王は満足そうに頷き、目線を思考の中に合わせた。
徐々に観客席が埋まり始めている。
「北との国境線を築く貴族のうちひとりが、知っての通り王国の"楯"と呼ばれるディマス・アギレラ。そしてもうひとり、王国の"剣"と呼ばれているのがネグロン侯爵家だ。
……ついこの間、このネグロン家の宗主であるカリストが帰天し、四男のルーカス・ネグロンが継いだ」
数か月前にカリスト侯爵は病に倒れた。すぐ後、侯爵家を継ぐ最有力候補だった長男が不幸な事故で死亡した。それによりネグロン家には跡目争いが巻き起こっていたと聞いている。
王が言うには、カリスト侯爵は息を引き取り、跡目争いは四男が勝った。
「情報によれば、次男であるレオナルドが不穏な動きを見せている。北方諸国に通じているようだ。協力して我が国へ侵攻し、北から何かしらの恩恵を受けるつもりなのだろう」
「い、家を継げなかった腹いせに?故郷を敵国に売ったって……そういうことですか!?」
「聡いな、ヘイト様は。君なら分かるだろう?ディマスのいない今であれば、北方諸国は国境線を破ることができる」
ただでさえディマス伯爵のいないアギレラ領と、宗主が変わったばかりのネグロン領は弱体化している。敵にとってはこれ以上の好機はないだろう。そこに貴族の次男がスパイとして情報を流しているとしたら。
戦争が始まる。
苦難続きのこの国はどこまで戦えるのだろうか。
ザカリアスが頼りだ、と言う王の言葉に静かな熱が籠もる。
「弟ならば、レオナルド・ネグロンを牽制しつつ、ルーカス・ネグロンと協力して北方諸国を退けるであろう」
「将軍のこと、信頼しているんですね」
「無論だ」
来たな、と不意に王は目線を闘牛場に注いだ。いつの間にか客席を満たしている観客たちが、王の呟きに少し遅れて歓声を上げる。
彼らが迎え入れる光景を見て、ふふ、と思わず笑ってしまった。
全力疾走するブラックナイト氏が引き連れるように、6頭の牛と群集が雪崩れ込んできたのだ。渋っていたのに、あれでは主役ではないか。
まあ、彼には気を張らせてしまっていた。ほんの息抜きになったのなら見送った甲斐がある。
群集は円形に広がり、中央に誘導された黒い牛たちをはやし立てる。
我こそは!と群集から離れた若者が牛に近付いて挑発し、軽快な足運びで布の巻かれた角を避ける。盛り上がった観客が拍手を送り、ハンカチを振った。
ホセ王はその様子を、我が子を慈しむように見つめ、
「奴がいたから、そう簡単に君たちへ手出しができなかった」
奴、とは誰のことか数秒考え、
「ブラックナイトさん、頼りになるひとですからね」
「ああ。君たちを失ったとあれば、守るべきものがなくなった奴は剣を我々に向ける。相手になるのはザカリアスくらいだ。最悪、弟まで失うことも考えられた」
やる気になれば何時でも僕たちを消せた、そうとも取れる言葉だが、ブラックナイト氏を誇るような口ぶりに剣吞さは感じない。
ブラックナイト氏とダリアさんが中央に出て、牛の注意を引いて角を避けている。
人間との距離を測るように動く牛たちの角には布が巻かれている。怪我の防止なのだろうが気休めだろう。5,600キロはあるあの巨体に踏まれでもしたら大怪我は免れない。あのふたりに限ってその心配はなさそうだが。
「君は奴が認めた男だ。それだけで信用できる」
ホセ王は満足げにそう言う。
ひとりの若者が牛の角を避けられず宙に浮いた。あっ、と観客に緊張が走る。
すかさずダリアさんが間に入って牛の注意を引き、ブラックナイト氏が助け起こして事なきを得る。ほんのわずかな時間の、台本通りにも見えるハプニングだった。
「何でこんな時にわざわざ危ないことを」
12年前、数か月前、1週間前と災難続きの王都で、何故お祭りを開催するのだろう。疑問が口を突いて出る。お祭りをやらないという選択肢はなかったのか。
「違うな、ヘイト様。どこで何をしていようと、常に危険とは背中合わせだ」
「お祭りをやってもやらなくても変わらないって言いたいんですか?」
「そんな表面的なものではない。この都の者共は牛と闘うことで、恐怖と戦うには勇敢さを握るしかないことを知るのだ」
「勇気を持つために牛に立ち向かう?分かりません」
「そうかね?君が魔獣と戦ったのと同じ理由さ」
戦わねばならない時と、お祭りは違うような気がするが。
いや、違わないのか。別にあそこで僕は逃げても良かったのだ。王宮が踏み潰されている間に、ディマス伯爵と騎士団を何とか探し出し、後々まで続くであろう混乱に乗じて都を出ても良かった。
王は言う。
「選択肢はふたつだ」
利を取って逃げるか、蛮勇を振るって道を拓くか。
――それは、不公平だ――
――俺の"正義"、見せてやるぜッ――
「――それで、死んだとしても」
ふたりの騎士が拳を握る音が聞こえ、はっとして王の方を見る。力なく笑うその顔を見て、とあるイメージが組みあがった。
大玉座の間に大きな暗幕を持って入ってくる数人の役人。彼らは痛みを耐えるような表情で大きな額縁を見えないように覆い隠す。その絵にはホセ王と、第二王妃が描かれている。
王の着ている黒い礼服は喪服だということに、やっと気付く。
失言だった。
「す……すみません」
第二王妃は聡明だったと聞いている。数か月前に魔獣が現れた時に、巻き込まれて亡くなったとも。王宮から離れた場所に王妃がいたのは、彼女が狙われていたからか、それとも兵と共に戦いへ赴いたのか。
「君のことは信頼している。だが、ディマス騎士団への疑念は晴れていない」
ブラックナイト氏がこちらに気が付いた。王の姿を見てから焦った様子で闘牛場から出ていく。
「私はこの都を、この国を守るために戦わなければならない」
王は宣言するように言いながら膝に手を着いて立ち上がる。
「弟は口にしたことは必ず実行する。北の脅威を退け、裏切り者を排し、そして、君に刃を向けるだろう」
立ち上がった王の強い瞳が、車椅子に座って身動きの取れない僕を捉える。僕は、今度は真っすぐ王の視線を受け止められた。
「ザカリアスが帰ってくる前に、都から出るが良い――」
視線を切った王はふたりの騎士の方へ振り向く。
「ディマスを置いて」
そう言い残して王たちは立ち去った。
座りながら頬杖をついて溜息を漏らす。闘牛場に伯爵はおらず、見付かったのはダリアさんとセナイダさんだけ。王と会ったのは偶然だろう。
「ヘイト様ッ!」
ブラックナイトさんが席に駆け込んでくる。身動きの取れない僕と王が一緒にいたから心配させてしまった。
「平気ですよ」
こちらを見つけて長い両腕を振る笑顔のダリアさんに、手をひらひらと振り返す。
あの日向の熱砂と、日陰のこの席で、別の世界にいるようだ。