117話 その両手から零れないように
断末魔が耳にこびりついている。
ムドーの上半身が割れ、裂け目から無数の黒い枝葉が伸びていた。曇った空と白い石畳へ瞬く間にのびたそれは目の前を黒く覆っていく。
命を食って広がった黒い木々は、王都の広場を植物園のように変えた。
僕は浸食する黒色を、ただ茫然と見ている。
中心の幹がまとまり鱗に覆われた緑色の肌を形づくっていく。太い四肢は棺桶を石畳ごと踏み抜き、大きな口で天に向かって吼える。例えるなら、巨大な鰐や恐竜のような。
この世に生まれてしまったことを憎悪しているような産声を上げている。そのおぞましい姿を見て、黒いローブを着た男が理性を失った悲鳴を上げる。
反応した魔獣が男の方を向いた。瞬きをひとつするとローブの男は咥えられていて、虫のように奥歯で噛み潰される。
ムドーからあまりにもかけ離れた姿。大魔法。止められなかった。自分の命を犠牲にして。身体が割れて。黒い森が。
「――イトッ!。」
ムドーの最期の姿が脳裏にこびりついていて。
「ヘイト――ヘイトッ!!」
「あ……ダリア……さん」
肩を引かれて我に返った。
「このままじゃダメだ」
魔獣は周りをゆっくりと見回している。
「あいつを止めないと!」
魔獣は周辺に散らばった兵士たちを喰い始めた。とてもこの世のものとは思えない、悪夢から這い出てきたような姿だ。
あの化け物を、止める。
呆けていると、ダリアさんがよろめきながら立ち上がった。魔獣の方へ向かおうとする腕を掴み、反射的に口を開く。
「あんなの、どうやって……」
「どうもこうもない!住人は避難してる途中だ、あんなのに暴れさせるわけにはいかない」
周りに人影はない。少なくともこの辺りの避難は終わっている。でも安全な場所まで行けているだろうか。そもそも、安全な場所なんてあるのだろうか。
「無理ですよ……そんな身体じゃあ」
あれと戦ったら、ダリアさんが死んでしまう。
「逃げるか?逃げられないさ。戦うしかない――私はひとりでも行くよ」
兜の奥と目があった。本気だ。
重い身体を立ち上がらせると、建物と肩を並べる巨体がゆっくりと振り向いた。太い尻尾が振れて、蔦に覆われた白亜の老人が粉々になる。魔獣の足もとに転がる魔剣を見た。
笑っている膝を抑えつけ、覚悟を決めて、魔獣を睨みつける。
「……ダリアさん。すみません。30秒だけ時間稼げますか」
「任せな。丸一日でも踊ってやる」
強がりだと分かっているが、頼るしかない。
魔獣が大口を開けて地面を蹴った。あの巨体からは想像できないほど速い。ダリアさんがムレータを振る。
落ちていた棍棒を拾い、投げつけて、注意を引きつけつつすれ違うように走る。"乞患"へ向かって真っすぐに。
魔獣はムレータに引かれてダリアさんへ襲い掛かった。噛みつきを間一髪で避けると、雑に繰り出される前脚を必死で避け始めた。
早く。
乞患を拾って鱗に覆われた壁へ力任せに突き立てる。ずぶずぶと固い泥の中に差し込んだように赤黒い血が漏れる。巨体に対して爪楊枝くらいしかないサイズだが、魔剣の能力で注意を引けるはず――
魔剣を引き抜くと、首をこちらに向けた魔獣と目が合った。
足が竦む。
「クッソ……!」
恐がるな。
「こっちだ!」
先なんて考えない。考えられない。ただ魔獣から逃げる。
想像上の生き物であるドラゴンに立ち向かったらこんな感じになるのだろうか。存在の格が違う。アリと像の戦いだ。
いや、戦いにすらなっていない。攻撃の隙を見て少しでも手傷を与える、という考えはすぐに捨ててしまった。磨り潰されないように全力で逃げる。
ダリアさんの方へ行かないようにするだけで精一杯だ。広場を抜けて路地へ逃げ込むと、追ってきた魔獣が建物へ突き刺さり、石の建材が紙細工のように崩れていく。
それでも数秒は猶予ができた。尻尾を使って建物の壁を登る。魔獣は全身を鞭のようにしならせ、体当たりで邪魔になっていた建物を吹き飛ばした。散弾銃から放たれたかのように飛散したガレキが周りの建物を破壊していく。
魔獣に追いつかれる。
突進してきた魔獣へ向かって跳んだ。上顎を飛び越え、両手で握った魔剣を叩きつけるようにして、切っ先を背中へ深く刺す。さらに深く捻り込んで抜けないようにすると魔獣が暴れた。柄を離さないように手に力を込め、魔獣の背にしがみつく。
こんなのは悪い冗談だ。大きな動物にくっついた枯れ葉のように振り回される。
離されないように、ただそれだけを考えていると、いつの間にか住宅地を抜けていた。大きな街道を超えた先には王宮がそびえている。
魔獣が僕を振り払おうと立ち上がって視界が高くなる。その時、王宮の、三階のバルコニーに誰かいるのが見えた。
ひとり、黒いローブに身を包んだ女がいる。魔獣のことは見えているだろう。なのに逃げようとはせず、バルコニーの手摺に手を置いて、頬杖をついている。
女は頭に被っていたフードを捲った。
ウェーブのかかった黒く艶のある髪、人形のように整った白い顔、愉しそうに嗤う口元、十字に割れた怪しい瞳。
そして、月桂樹を編んだ冠を頭に乗せている。
「黒い馬ッ!!」
背中から刀身が抜けてしまった。魔獣の身体を転げ落ち、地面に落とされる。もう一度バルコニーの方を見ても、女は影も形もなくいなくなっていた。
奥歯を噛む。
ハイドレートが死んだのに、グローリーが死んだのに、ムドーが死んだのに、何が楽しい。
影が差した。振り向くと魔獣が後ろ脚で立ち上がり、前脚を振り上げている。しまった。注意を逸らした――
「吼えろッ!火尖鎗!!」
魔獣の頭に火球が突き刺さった。爆発し、重心が崩れた魔獣は前脚を振り下ろすことなく転がる。
「ヘイト様!時間を稼げば援軍がきます!堪えましょう!」
「ブラックナイトさん……」
見慣れた黒甲冑はそれだけ言ってから落ちてきた火尖鎗を掴み、魔獣へ突貫して炎を纏った攻撃を浴びせ始めた。
「C・フュル・フュールよ、契約を履行する」
曇天から導かれるように落雷が魔獣を打った。次いで耳を塞ぎたくなるような轟音が空にこもる。稲妻の魔法だ。
硬直した魔獣の身体に、数本の矢が刺さる。ほとんど同時に破裂音が聞こえた。ローマンさんも遠くから援護射撃をしてくれている。
朝とは別の箒からフュールさんが降りる。
「や、ヘイト。こちらお届け物ですよっと」
「フュールさん!無事だったんですね」
「まあね。魔女はしぶとい生き物なの。それよりこれ」
疲れた笑みを浮かべながら、フュールさんはローマンさんが放った矢を押し付けてきた。矢じりに野球ボールのようなものが繋がっている。
これは、
「破砕手榴弾」
ミックさんから預かった爆発物のひとつだ。
「どう使う?」
フュールさんが聞く。
「……あの化け物に喰わせます」
「――分かった。今からあんたを魔獣の上まで連れてって、それから」
僕の意志を質すような、どこか遠慮するような瞳を受け止める。
「上から落としてください。何とかします」
「ふっ。良いね。あんま気負うんじゃないよ」
今日が始まった時と同じように、箒に跨るフュールさんの後ろに乗る。地面から足が離れ、宙に浮き、少しずつ高度を上げていく。
王宮の柵よりも高くなって、敷地が見えた。魔獣の侵入を防ぐための陣を作る兵士たちや、逃げ遅れたひとたちの姿が視界に入る。僕たちが突破されたら、王宮が、この国の首都が壊滅する。どれだけの混乱がもたらされるのだろう。
魔獣が乞患を持つ僕を見付けた。後ろ脚でジャンプするように立ち上がり、箒ごと二匹の虫を喰らおうと口を広げる。
こいつはここで殺す。
「行きます!」
「喰らわせてやれ!」
左手で握ったグレネードのピンを尻尾で抜き、箒から飛び降りる。魔獣は僕の上半身を腔内に入れたところで口を閉じる。嚙み合わせた牙と呪いの鎧が擦れ、腰の辺りから何かが砕ける不快な音が身体に響いた。視界がさっと暗くなる。
「あッ!、ガっ……」
まだだ。
かろうじて見える喉へと、レバーから指を離しグレネード落とす。
魔獣は一瞬口を開け、僕の全身を魔剣と共に喉の奥へと送り込む。
そして、身体を打つ爆音が聞こえた。
狭い。
暗い。
下半身の感覚がない。何も見えない。
喰われたのだろう。
酷く怠い。
びしゃびしゃと身体に当たる水音は、喀血だろうか。魔剣が引っかかって吐き出されなかったようだ。食道が蠕動するたび、身体が潰れて怖気がする。
左右に感じる慣性、全身に伝わる強い鼓動。魔獣は生きている。殺せなかったのだ。責任を果たせなかった。やっぱり僕は、何も成し遂げられない、ダメなやつのままか。
魔獣に喰われて身動きが取れなくなっているなんて、間抜けすぎる。
半身が動かせないもどかしさと、自分への無力さと、外で戦い続けている皆への申し訳なさで、無力感が堆積していく。
≪ザーッ……ザ、ザ≫
ごめん、皆。殺したかったけど。こいつも。あの女も。
≪聞こえてるか。ヘイト≫
無線機から声が聞こえる。
≪お前のことだから、戦ってるんだろ?≫
「……違うよ。ダリアさん」
≪糞ワニ、苦しんでるからさ≫
買い被り過ぎだ。諦めていた。
昔と同じように。
≪もし失敗しても、絶対助けてやるから≫
両腕は動く。
魔剣の刀身を手探りで掴み、奥へと進むために突き刺す。
≪思いっ切り暴れてこい≫
くらい。
せまい。
「それが」
なにもみえない。
うごけない。
「なんだってんだ!」
魔剣を抜き、腕を伸ばして切っ先を突き刺し、重い身体を引き寄せる。鼓動を大きく感じる方へ這って進む。
魔剣をピッケルのように使い、魔獣という山の中を進む。
一番強く、早く、鼓動を打つ場所を目指して。
魔剣を突き刺すたびに、魔獣が身体をよじる。食物を通す管が収縮する度に、猛烈な圧力に潰されて気が遠くなる。
それが緩んだ瞬間に、また少しだけ進む。
喀血か、嘔吐か。逆流してきたドロドロの液体に押し出されそうになる。魔剣を掴んで何とか耐える。
苦しい。つらい。これはいつまで続くのか。
いつ終わるかも知れない、繰り返される苦しみに、僕はいつまで耐えればいいのだろう。いっそ手を離してしまえば。意識を手放してしまえば。
楽になれる。
――ごめんな、ヘイト――
でも、あの時に比べたら。友達を喪った苦しみに比べたら。また他の誰かを失う苦しみを味わうことを想えば。
のしかかってくる闇とも戦える。
「最適化……ッ」
ここだ。
この壁の向こう。
重力の方向が変わった。魔獣が立ち上がったのだろう。
倒れこむように魔剣を食道の壁に突き立て、体重任せに切り裂く。
固いカーテンを引くように食道の壁をこじ開けて、鼓動の中心に触れた。
巨大な身体に血液を送り続けている、筋肉の塊。
心臓があった。
「お前の顔は憶えたぞ、黒い馬」
ドクン、ドクンと脈動する壁に触れた指先に、力を込めていく。
「何処に隠れてようと」
指が脈動する壁に埋まっていく。
「必ず追い詰めて」
指が壁を突き抜けた。
「そのにやけ面、できないようにしてやる」
最後の力を振り絞り、両腕で心臓の壁を掴み、こじ開けた。
噴き出した血が僕を洗い流す。その流れに身を任せて鼻で笑う。
膨大な血液の濁流に飲まれ、
やりきった満足感とともに、
意識を手放した。
≪ザー……ザ、ザ≫
≪ハアッ、ハッ、ハア……ネバ……≫
≪……ザカリアスか≫
≪喋るなア。すぐに医者がくる……≫
≪……どうした?その表情は≫
≪ネバ……目を開けろ……ネバッ!≫
≪君らしくな、い……≫
≪駄目だ……駄目だ!許さんぞ……≫
≪…………≫
≪ハア……ハッ……ハ。は、ア、あアァア!≫
≪ザザ……ザ……ザ――――――≫