116話 望んだ結末
細身の闘牛士に向けられる拳には殺意が込められている。見ていて一発一発に背筋が凍る思いをしながらも、決められたかのように空を切る。
大振りの隙を縫うように金色の刃が閃くと、金属で覆われた身体に一筋の血が流れた。
ムドーはすぐに切り替えた。打撃から、捕縛へ。ぐっと姿勢を低くし両腕を広げてダリアさんへ掴みかかる。
結果は同じだ。広がった赤い布はするりとムドーの両手をすり抜け、ダリアさんはすれ違うように後ろに立っている。
後ろへ振るった手刀もムレータをはためかせただけだ。ダリアさんは安全圏へ一歩だけ動いている。
嵐のような攻撃を繰り返すムドーに対し、ダリアさんは落ち着き払った動きで撒く。まるでムドーを操っているかのようだ。
あれが、牛相手でも、旅の道中で僕が相手の時にも見せなかった、才能の本領発揮か。
光の鎧は、ダリアさんが長年培ってきた闘牛士としての能力を拡張する。
煌びやかな衣装はその身を守り、華やかなムレータに目は奪われ、突き出されるエストックは骨の隙間を正確に貫く。
相対するのが牛でなくともだ。
人間同士、一対一の近接戦闘なら絶対に負けない。
そして――
彼女の振るう金色のエストックは"シャナの金糸"だ。自警団から受け取った餞別。呪いを祓う聖遺物は、"無道の鎧"の鋼鉄の繊維に滑り込み、肉を抉る。
死神が鎌を振るような回し蹴りをあっさりと回避し、ダリアさんは刃を振るう。
「ガ……ァ……」
左肩に刃を受けたムドーが呻いた。
数歩下がったムドーの動きに焦りはない。ダリアさんの間合いを慎重に測り、待ちに入った。自分から攻めずにカウンターを狙う。
「考えたね。でも――」
ダリアさんは関係なく攻勢を掛けた。
突き出されるエストックをムドーは左手を犠牲にして防ぐ。ダリアさんの腕が伸びきったタイミングを狙って打撃を放つが、光の鎧の芯を捉えることはない。
数十秒の攻防でムドーの上半身はボロボロになった。左腕は特に酷く、鎧は半ば剥がされて血みどろになっていた。
それでも、奴の全身に漲る闘争心には衰えがないように見える。
ダリアさんはそんなムドーに攻撃の手を緩めることなく、間合いに踏み込んでエストックを突き出し、力なく突き出された左腕を貫通した。
「殺すって言った割には手緩いぜ」
刃が刺さったままの左手に力が込められた。傷口から果物を絞ったように血が流れる。
「コイツっ!?」
ムドーは刺さったままの"シャナの金糸"を掴む。刀身が抜けずにダリアさんの動きが止まり、その一瞬にムドーの右ボディフックが入った。
「ダリアさんっ!」
もろに食らったダリアさんの身体が転がる。
「敬語……禁止だっての」
痛みに耐えながら言葉を絞り出している。両腕を地面に着き、何とか起きあがろうとしている。
ムドーは悠々と自らの左腕からシャナの金糸を引き抜いて雑に放り捨てる。
ダリアさんがまともに息ができるようになるまで時間がかかる。
僕は少しだけ動けるようになっている。
立ち上がり、ムドーへ向けて声を掛けた。
「その怪我、放っておいたら死ぬぞ」
「心配無用。死は敗北じゃねえぜ。最後に俺たちが勝てればいい」
奴は首にかかった黒塗りの十字架を握る。言葉には伊達も酔狂も感じない。本気で言っている。
「黒い森は魔物を産む。ひとに仇名す存在だ。それを信仰してるなんて――神罰教会は間違ってる」
「間違ってる?お前ら使徒の頭こそ間違ってるぜ。今の神は偽物だ」
「何を言ってる?」
「そうだろ?」
ダリアさんの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。ただ、それはムドーも同じだ。
「神が住む天国があるなら、はじめからこの世界を天国にしてしまえばいい。
神に人をつくる力があるのなら、はじめから罪を内包した人間など作らなければいい。
神が万能なら。どうして俺たちを苦しめる」
「そんな、都合よくは、いきませんよ……」
「だったら。お前らが良い世界を創らないなら、俺たちが創る。我らが"神伐"と、預言者と共に」
上半身と左腕の、ボロボロになった無道の鎧を力任せに引きちぎった。血と汗でずぶ濡れの、古傷だらけの巨体が露になる。
「俺は無道――」
千切った鎧をグローブのように両の拳に巻いている。守ってくれるものが少なくなっているのに、ムドーの気迫は増すばかりで。
「大切な者たちを守り、新たな世界へつながる道を創る」
「こいつ、ちょっとヤバいかもね」
ダリアさんはフラフラとしながらも立ち上がり、ムレータを握りしめる。フルフェイスで見えるわけがないのに、彼女の額から汗が滴るのが分かった。
「息は整ったか?じゃあ行くぜ。ダリア、ヘイト」
今にも死にそうなほど血を流す男と相対して、死なない僕はびりびりと緊張している。
「戦士の悪魔よ!契約を!履行するッ!!」
気を抜けば座り込んでしまうような身体を叱りつける。
「ガアアァァァァアアアッッ!!」
猛獣のような咆哮を上げながらムドーが襲いくる。無様に転がって避けた拳が地面を抉った。
斃れた兵士からロングソードを拾ったダリアさんが斬りつけるが、浅い。慣れていない武器だからか、あの一撃で負傷したのか動きの精彩を欠いている。
打って変わって技術をかなぐり捨て、獣のように大きく動くムドーに対応しきれていない。ムレータでいなしているが長くは保たないだろう。
お互い、まともな攻撃を一発でももらったら終わり。
ムドーの片足に抱き着いて、持ち上げてバランスを崩そうとするが、重い。持ち上げた足に力が入って踏みつけられる。呪いの鎧が軋む。胸が潰され――
ダリアさんの刺突をムドーが避けて解放された。彼女の方に向けられた拳を尻尾で拘束し、飛び掛かりながら顎を殴るが、掠めただけだ。
全力で戦っている。
ムドーは無防備な僕に狙いを定め、気付いたダリアさんのムレータが僕を庇った。
手刀が肩に当たる。直撃を免れたものの地面に叩きつけられた。
早く立ち上がらないと、と手を着くと、ずる、と滑る。
気付けば辺りは血の海になっていた。
浸した手のひらは赤く塗れている。
ムドーから流れ続ける命が、広場の石畳を赤黒く濡らしている。咆哮を上げ続ける大男は肩で息をし、肌の色は青ざめ、暗く翳っている。
このまま戦い続ければ……攻撃を避け続ければ……そう思ってしまって、何故だろうか、無性に悲しくなった。
「そこまでしてまだ戦うのか!」
「当たり前だアァァッ!」
叫びながらもダリアさんへの攻撃を止めない。
僕たちを無表情で見つめる白亜の老人が、あまりにも憎たらしく。
巨体に飛び掛かって裸締めを仕掛けるが、決まりが甘い。悔しさを噛む。
「もう止めよう!馬鹿馬鹿しい!ひとりで戦うことないだろ!そんなに――」
なってまで。
あまりの勢いに振り落とされた。ムドーは僕に構わずダリアさんへ向かって拳を振るい続ける。
ダリアさんは反撃もできずに避け続ける。
「黒い森は!ママは!俺たちの未来だ!負けられねえ!」
「そのママはどこにいるんだ!?お前を助けにもこないで!」
僕のところにはダリアさんがきてくれて、命がけで戦ってくれている。だが、神罰教会は誰も助けにこない。
腰を抜かして頭を抱えている、黒いローブの男がいるだけだ。
ムドーのような男が、こんなに強い男がこんなになってまで戦ってる。ひとりきりで。群れていたら結果は変わっていたのに。
「言ったよなア!俺が!ママのために道を創るんだアアァァッ!」
ムドーは全身全霊の右ストレートを放とうとする――
ダリアさんはムレータで受けようと――
だが、ムドーは途中で動きを緩ませ、重心を変えて左アッパーの構えを取った。
こんな土壇場で、命のやり取りで、このタイミングでの、渾身のフェイント。
直観してしまった。これは当たる。
ムドーは死んでない。
間に合わない。
「ダリアさんッ!」
アッパーがムレータを絡めとる。
しかし、拳は光の鎧に触れることなく空を切っていた。
ダリアさんはその場にへたり込んでしまっていた。
もう体力の限界だったのだろう。それが彼女を救った。
ダリアさんの手からロングソードが零れ落ちる。腕から黒い枝葉が伸び、1メートルほどでまとまると、すぐに美しいエストックになった。
シャナの金糸ではなく、光の鎧が持つ本来のエストック。
大振りをした無防備な上半身に、鋼色の刃が吸い込まれていく。反応したムドーが大きく距離を取った時には遅かった。
右肋骨の下あたりを抑えた手の指の隙間から、とめどなく血が流れている。よたよたと地面を摺るように足を動かし、ムドーは膝を着いた。
勝ったのだ。
胸騒ぎがする。
身体は反射的に魔剣を抜いて、殺意を込めてムドーへと投げつけた。切り傷だけでも与えられれば、乞患の能力でムドーは自刃する。
回転して飛来するむき出しの刃をムドーは握った。指から血が滴っている。傷が入った。
「……ありがとな、ヘイト。でも、こんなもんで俺は殺せねえよ」
「やめろ」
「この命は神なんかから貰ったもんじゃない。ママから貰ったもんだ。だからママのために使う」
「お前のママは、お前のことなんか考えちゃいない」
「愛されてるかは問題じゃない。俺が愛しているかだ。ひとは愛する誰かを未来に進ませるために生きてる」
「普通は親が子を前に送り出すもんだろ」
「ママは俺なんかとは違う。ママなら世界を変えられるぜ。だから俺が道を創るんだ」
「恐怖と暴力でか、それが聖戦だって言うのか」
「主張を通すために武器を握る。俺たちとお前たちで違うのは、自覚が有るか無いかだけだ」
「何でその力を……正義のために使えなかった……」
僕の前で、そんな死に方しないでくれ。
頼むから、これで死んでくれ。
僕に殺されてくれ。
「俺の"正義"、見せてやるぜッ――――"戦士"の悪魔よ!」
「……畜生」
「我が命を以て!契約を履行するッ!!」