108話 放たれた矢は
「『イザベルは、その心地よい平原の午後に寝ることにした』」
「詳しく憶えてるもんだね」
ダリアさんの言う通り、十数年前の幼い頃のことをよく憶えているものだ。イザベルさんは呆れた調子で言う。
「劇になってんだよ。父上がそこかしこで講演してる」
「へえ」
「結構人気の演目なのに、私には銅貨1枚も入らないのが腹立つ」
話に聞き入っているうちに夜になっていた。数本のろうそくの火が、暗い室内を淡く照らしている。
「イザベル。少し良いかい?」
ローマンさんが口を開く。話の途中から、何か考え事をしていたように見えたが。
「なんだローマン。退屈だったか?」
「いや、面白かったよ。話の最後なんだけど――」
ローマンさんは自身に集まった視線とひとつずつ目を合わせて、
「聖騎士と一緒に都を出られたんだね……途中で出会ったあのおじいさんもお忍びだと言っていたけれど。もしかして、教会関係者だけが使える王都からの抜け道とか、あったりするかな?」
おお、と一同が感嘆の声を出す。話の最後でイザベルさんは、聖騎士にお金を積んで都を出ることができ、セバスティアーノさんに連れ戻されることはなかった。王都からの脱出に成功しているのだ。
僕なんかはただ話を聞いていただけだったが、ローマンさんは脱出方法が存在する可能性を示唆している。
「どうだったかなあ。憶えてないわ」
「使えないね」
「ちょっと使徒様、昔のことですから勘弁してください」
アルコールが回り眠気で目が半開きになったダリアさんが直球に言い、イザベルさんがおどけるように弁明した。
「まあ、今日はもう遅いし、これからのことはセバスティアーノが戻ってきてからにしようか」
ローマンさんは微笑みながら提案し、皆は力の抜けた返事をして、身体を伸ばす。ここ数日は緊張しっぱなしだった。せっかく安全地帯にくることができたのだから、僕も休みたい。
膝に手を着いて重い身体を起こし、用意してくれた部屋へ向かう。
昨晩ローマンさんが放った矢を、セバスティアーノさんが拾ってきてくるのを待つだけか。
その夜は日が昇ったら話ができる、くらいのつもりだったものの、セバスティアーノさんが戻ってきたのはそれから3日後のことだった。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
「遅い」
「申し訳ございません」
「矢は」
「申し訳ございません」
イザベルさんは部屋の入口に立っているセバスティアーノさんを睨む。朝食時だ。ふらっと帰ってきた彼は扉に隠れるようにして手招きしていた。内密に話をしたいのだろう。イザベルさんは跳ね除けたが。
「ここで話せ」
数秒逡巡したセバスティアーノさんは意を決して部屋へ入ってくる。
「皆様、お食事中に大変失礼いたします。このような格好をお許しください」
彼は少々汚れた姿をしていた。ズボンの裾は汚れ、髪が乱れている。それと、服に付いた黒い飛沫は、返り血だろうか。
「持って帰ってこられなかったのか?サボったんじゃないだろうな」
「そうしたいのは山々でしたが、生憎仕事はきちんと済ませたい性格でして。遺体安置所で見つけることができました」
「ローマン、当てたのか?」
ダリアさんに言われたローマンさんは、無言で首を左右に振る。
どういうことだ。ローマンさんが狙ったのは"幽霊"ではなく、持っていた燭台の火だ。普通に考えるなら、矢は道端に落ちているだろう。
「凶器となった矢は売り物ではなく、手作りの物です」
「ローマンさん」
「うん。私の矢だと思う。すべて手作りしているから」
ローマンさんの矢が、その辺に転がっているはずの矢が、凶器として遺体安置所で見つかった。それが意味するところは。
「誰が死んでたんだ?」
イザベルさんが問い、
「身元不明です。浮浪者だと思われます」
とセバスティアーノさんが答え、
「見ず知らずのヤツが死んでお前がそんな格好になるか」
ぴしゃりとイザベルさんが詰めた。
セバスティアーノさんは不満げな表情で数秒口を噤み、僕たちを見回した後、
「死んでいたのは"幽霊"です。矢は――」
セバスティアーノさんは食器のナイフを手に取り、イザベルさんの首に掴みかかると、彼女のお腹辺りにナイフを突き刺す。
フリをした。
「このように下から腹部へと刺し込まれたようでした。放たれたものの角度ではございません」
「ぐっ……お前私への敬意とかないだろ」
「ございません」
セバスティアーノさんは額に青筋を立てるイザベルさんから手を放す。ローマンさんが何事もなかったかのように言う。
「つまり、私があの晩放った矢を何者かが回収して、王国親衛隊のひとりを殺害した。理由は、私たちに罪を擦り付けて、そうだな、王都と私たちの関係を悪化させるため」
「ローマン様の仰る通りかと。遺体安置所から出たあと、役人に話を聞かれました。そちらは適当に応対したのですが――」
セバスティアーノさんの服に返り血がついている理由は、
「2度目は数名の一般人です。人目に付かない裏路地を歩いていたところ、ローブで顔を隠した方々に話しかけられました。ここ数日はその方たちと少々お話を」
「それは一般人じゃない」
それにただのお話で済んでいない。
「彼らは皆、黒く染められた十字架を身に着けておりました。"神罰教会"の者たちです」
その名を聞いて、頭の芯が冷える。12年前に王都で起きたクーデターの主犯格で、黒い森を信仰するカルト教団。
「王都に隠れてる異教徒だろ。何であのバカ共が出てくるんだ」
「末端の信者は大した情報を持っておらず、詳しくは分かりませんでした。が、これ以上探らないで欲しいとのことです」
「それって……」
幽霊を殺害して罪を擦り付けようとしているのは神罰教会の連中。ということは、やはり、あいつが動いている。
「幽霊のひとたちって、そんな簡単に倒せるものですか?」
視界の通らない闇の中で見た、あの身のこなし。見えない敵を追い詰める組織力。あんな連中をひとりだって、一筋縄で殺められるものだろうか。
「幽霊には傷痍軍人や退役軍人が多く所属しております。皆、国への忠誠心に篤く、老練な者たちです。皆様の方がお強いでしょうが、そう易々と仕留められる者達ではありません」
つまり、その幽霊を殺したヤツも、只者ではない。
イザベルさんが聞く。
「他に何か聞き出せたのか?」
「はい。神罰教会のトップである"預言者"。その手足となって動く、"伝道師"と呼ばれる者たちがいるようです。有体に言えば幹部でしょうか。
彼らは組織内で、こう呼ばれているようです」
セバスティアーノさんは指を3本立てた。
1人目。
「ハイドレート」
2人目。
「グローリー」
3人目。
「ムドー」
僕たちの、表の敵がザカリアス将軍と王国親衛隊だとするならば、裏の敵が神罰教会。王都に巣食う、預言者、3人の伝道師、神罰教会の信者たち。
「幽霊を殺したのもこのうちの誰かでしょう」
と言うセバスティアーノさんの言葉が遠く聞こえた。
敵が増えた。
いや、始めからずっといた敵の影が、やっと視界の端に映った。あいつがいる。神罰教会の預言者が。
世界を滅ぼす"神伐の悪魔"と契約した4騎士のひとり。
敵を洗脳し、手駒にして、勝利をもたらす。
黒い馬。
何故だろう。顔も見たこともないその女のことを思うと、ふつふつと、
煮えるような憎しみが湧くのは。
「私たちがこうして休んでいる間にも、そいつらが陥れようと動いているってこと」
ダリアさんの声を聞いて我に返った。
ディマス伯爵が捕まり、僕たちがこの王都にくることになった発端である、魔獣の出現は連中がやったことだとすると、神罰教会は何をしでかすか分からない。どんな外道でもやらかしてくる。
手をこまねいてはいられない。
「セバスティアーノさん。僕たちの仲間がひとり、ザカリアス将軍に捕まっています。普通の監獄ではないようです。監禁場所に心当たりはありませんか?」
ここまでで分かったが、セバスティアーノさんはかなり腕利きだ。この都にも詳しい。
「ふむ。詳しく聞かせてください」
無線から伝わってきた断片的な情報を伝える。
場所はザカリアス将軍の生家であると言うこと。将軍の生い立ち。使徒も捕らえられていて、レガロを搾取されていること。分かっている範囲のことを話す。
セバスティアーノさんはこちらの話を最後まで聞いてから、
「昔から現存している建物となると限られます。12年前のクーデターで戦火に巻かれなかった区画は限られますから」
「なるほど」
王都は12年前のクーデターにより大規模に破壊されている。ザカリアス将軍の生まれ育った家であれば、30年以上前には建っている。
クーデターの時に焼失しなかった建物、か。
「風が吹けば倒れるほど質素な家であれば、貧民区画でしょう。そうであれば、かなり範囲を絞ることができます。後ほど地図を持って参ります」
「ありがとうございます」
最終的には虱潰しになるだろうが、かなり有益な情報を得ることができた。
イザベルさんが続けて聞いた。
「セバスティアーノ、私が王都から逃げた時、どんな方法を使ったんだ?」
「なぜお嬢様が知らないのです。私の方が知りたいのですが」
「使えな」
「……クソガキが」
「何だって?」
「なんでもございません」
それから数日後、僕は馬車の荷台に盛られた藁束に埋まっていた。
「どうして」
自分に課せられた役目を思い出す。
皆の怪我や疲労が癒えてきたので、手分けして動くことになったのだ。ダリアさんとセナイダさんはふたりで捕まったブラックナイト氏を探しに屋敷を出た。顔が割れていないから比較的自由に動けるふたり、というのが理由だ。
イザベルさん、ローマンさん、アレホさんは屋敷に居座って連絡係になる。リーレーズ女子修道院に残ったディマス伯爵と杏里さんの状況を受け取りつつ、ザカリアス将軍と神罰教会の情報を探る。小間使いに任命されたセバスティアーノさんが可哀そうだった。
そして僕が、かつてイザベルさんが通った、"聖職者の抜け道"を調査をしにきたのだ。馬車の荷台に紛れ込んで明るいうちに移動し、この国の教会の本部である、大聖堂の敷地へ移送されてきた。
だから自分が荷物になっているのは分かる。分かるのだが、身体が動くようになってきたのに、日が暮れるまでじっとしているのはなかなかにつらいものがある。飲食もトイレに行く必要もないが、不死身も楽ではない。
藁の隙間から太陽の光が届いている。これが完全に暗くなるまで静かに待って、夜になったら荷台から出るのだ。そうしたら教会の偉いひとに王都からの脱出方法について聞いてみる。
自分が使徒であることを証明すれば、話は聞いてもらえる、だろう。火の中に飛び込んで、神の奇跡により無事でーす、とか言えば信用してもらえるとイザベルさんは言っていたが、本当か。馬鹿にしていないだろうか。
騒がしいな。
数時間じっとしていると、違和感のある雑音が増えていることに気が付いた。男の声、金属音、そして――
女性の悲鳴が響き渡った。
荷台から跳ね起きる。辺りを見回して、目に入ったのは、金属でできた大男。
違う、金属でできた生物に見えるが、あれは鎧だ。
身長が2mをゆうに超えている、肥大した筋繊維が鋼鉄になったかのような、継ぎ目のまったくない大鎧を着た男が、聖騎士の首を吊り上げている。
「やめろッ!」
大鎧は右手に握った直剣を、聖騎士の腹部に力任せに突き立てた。
確信する。幽霊をやったのはこいつだ。
大鎧は事切れた聖騎士を放り投げ、こちらを向いた。ディマス伯爵とは違う意匠の、邪悪な髑髏の兜が僕の姿を捉える。黒く塗られた十字架のネックレスが揺れた。
「そんなところにいたのか。気付かなかったぜ」
他の聖騎士が現れ、大鎧を囲んで得物を向けた。自分に向けられた切っ先を意に介さず、大鎧は、低く、自信に満ちた声で話しかけてくる。白昼堂々この国の教会本部に、文字通り殴り込みをかけている。
「神罰教会……」
「お前だろ、不死の使徒。名前は?」
修道女が倒れた聖騎士に治癒の秘跡を使っているのが見える。
こいつの目的は僕だ。こちらに注意を向けさせて、制圧する。
「佐々木竝人。お前は」
「俺は無道」
大鎧は血がべったりと付いた直剣を捨て、腰を落とし、こちらへ堂に入ったファイティングポーズを取った。こいつはヤバい。全身がびりびりと緊張している。
「なあ、ヘイト。ママのために死んでくれよ」