105話 イヴェイダーゲーム
永い。
監視の目を避けつつ、暗闇を歩くのが、これほど長く感じるとは。
予定通りの路地に入る。修道院から1.5㎞くらいだろうか。永遠に彷徨っていた気がするのに、たったこれしか進めていない。
ローマンさん、イザベルさん、それに僕も、まだ十分には動けない。
気が逸るが、速度は上がらない。緊張しているが、それを自覚したところで何も変わらなかった。
幽霊と出くわさないよう、集中して、祈りながら足を前に出し、
ずる、と何かを踏んだ。
「犬のウンチ……」
「私もさっき踏んだよ――ディマスも踏んどきな」
「何で?」
僕の呟きに、イザベルさんが小声で反応した。そして兜に髑髏を描き、マントを纏うことで伯爵へ扮したダリアさんへ呼びかける。
「多いなと思ってたけど、罠だったか。足跡と臭いで追跡できるようにばら撒かれてる――歩幅から身長を割り出させたい。ディマスがいるって信憑性を上げる」
ゾッとする。
さも当然のようにイザベルさんは言うが、それは、この暗闇でも幽霊はこちらの追跡を諦めていないということか。
むざむざ相手へ痕跡を与えてしまった。
「いくら身長が同――ン!」
何か言いかけたダリアさんの口をローマンさんが塞いだ。
はるか後方の路地に、ちらちらとした光が横切った。光の数は、多分ふたつ。
口には出さず悪態を吐く。
警戒を保ち続けながら、さらに3㎞ほど進んだ。
突然尻尾を引っ張られた。心臓が飛び出しそうになる。
「廃屋に入るよ」
なんだ、イザベルさんか。暗闇で意思疎通を取るため、何かあったら尻尾で合図をすることになっている。今のは停止の合図だった。
鍵は開いていた。
ギイ……と蝶番が軋む小さな音でも、大きく聞こえる。それを幽霊が聞いているんじゃないかと、心配が食道のあたりをギュッと締める。吐きそうだ。
「アレホ、灯の秘跡」
「は、はい。我が信仰を、命を照らす灯に」
アレホさんの手からピンポン玉くらいの光の球が浮かび、室内を照らす。木でできた台、それに乗った革張りのキャンバス。様々な画風の静物画や人物画がたくさん置かれている。
素人目で見ても上手だが、どれも描きかけだ。
アトリエ、だろうか。
「セナイダ、手伝って。キャンバスを剥がしてブーツカバーを作るよ」
「よいのでしょうか。とても良い絵ですが……」
「いいんだよ。もう絵が完成することはないし、ここの主は還った。早く」
セナイダさんとイザベルさんは作業を始めた。絵を木の台から外して、糞がついた靴を覆い隠すためのカバーを手早く作っている。
ダリアさんは、もういいだろ、とレガロを解いて、ローブに着替えた。
「ヘイト、パラコードと閃光発音筒をくれるかい?」
「は、はい」
背嚢を漁りローマンさんへ手渡した。何をするつもりだろう。彼はこちらをじっと見ると、
「ありがとう――少し休んだ方が良いよ。10分だけでも」
ローマンさんに、神経をすり減らしているのが伝わっていたようだ。礼を言い、座り込んで項垂れる。目を瞑り、静かに作業をする皆の音を聞いた。
別の出口からアトリエを出て、さらに進んだ。目的地まではまだまだ距離がある。ブーツカバーのおかげで足跡は誤魔化せたはずだ。あの場所で幽霊が僕たちを見失ってくれればいいが。
遠くで何かが爆発した。反射的にしゃがみ込み、間延びする残響を聞く。
「引っかかってくれたようだね」
と、ローマンさんが呟き、楽しそうにイザベルさんが答える。
「オレンジ色のパラコードを注意させて、本命は細いワイヤーなんて。汚いね」
「どうせ追跡されているし、方向もバレてるからね。相手は集まってくるけど、これからは慎重にならざるを得ない。距離も測れた。後方1300mってとこかな」
「奴ら神経研ぎ澄ましてただろうから、ビックリするな。ウンコ漏らすかも、フフ」
汚いな。
「さ、急ぐよ。幽霊が総出で向かってくる」
「はい。あと半分、頑張ります」
「いや、あと少しだ」
「え?」
「あそこまで行ければ良いなって思ってたけど、追いつかれる。目標を変えるよ」
目的地が変わり、残り4㎞の距離が1㎞ほどになった。真北から北北東に少しだけ進路を変えて、闇の中を歩く。
違う路地の幽霊が何人か、僕たちを追い抜いていった。燭台を地面に置き、這いつくばる幽霊を見た。
その度にしゃがみ込み、息を殺し、やりすごしてきた。視界のまったく効かない暗闇のなか、神から与えられた能力を使い、欺瞞工作をして、知恵を振り絞って回避し続けた。
それなのに何故、僕たちの方向が分かるのだろうか。先月は死ぬほど嫌だったこの暗闇がなければとっくの昔に捕まっている。
あれは本物の幽霊なのではないのかと思えてくる。僕たちを闇に引きずり込むために彼岸から出てきたのではないかと。
連中の追跡能力と執念は常軌を逸している。
だが、もう少し。
一本道だ。
前方にふたつの光が見えて、皆に尻尾で停止の合図を出す。あいつが行ったら――
尻尾が引っ張られる。首を後ろへ向けて、絶望が胸中を満たした。
燭台の光がこちらへ近づいてくる。
挟まれてしまった。
逃げ場はない。
一か八か前へ進むか。音を立てずに行けるのか。隠れるか。じっとしているか。ろうそくに照らされたらどうするのか。戦うか。騒ぎを起こさずに倒せるのか。痕跡を残すことにならないか。あともう少しなのに。ここまで見つからずに来られたのに。
どうする。
ろうそくの火が地面に近づいた。幽霊が燭台を置いて地面を調べている。
その時、夜風が強く吹いた。咄嗟に尻尾で皆のローブを抑え、はためかないようにして音を消す。
風は幽霊の方へ吹くと、置かれた燭台を倒し、ふっ、と火を掻き消した。
光を絶たれた幽霊は訝しんだ様子を見せた後、立ち上がり、ゆっくりと路地を歩いてくる。
残り5m、
4m、
3m、
2m、
1m――
僕は幽霊を見ているが、
幽霊は僕を見ていない。
自分の眼球が黒いローブを追っているのが分かる。
眼球の動く音で、気付かれるのではないだろうか。
それほどの近くを、幽霊が歩き――
去っていった。
「撒けましたかね」
「多分ね」
まだまだ暗いから、小さな声で話す。
幽霊をやりすごし、イザベルさんが合図をした塀をよじ登って乗り越えた。広い庭に降りた僕たちは、大きな納屋に身を隠して寛いでいる。勝手に。
「まさかあんなタイミングで風が吹くなんて」
あれがなかったら見つかっていた。戦闘は避けられなかっただろうし、あの場では終わらなかった。騒ぎになり目撃者が増えることになる。万が一、死体なんて残したら痕跡どころの騒ぎじゃない。
「まさに神の息吹だねえ」
ダリアさんが呆れたように言って、ローマンさんを見た。
「日が昇ったら矢を回収しないとね」
彼は両手にクロスボウを持ったまま肩を竦める。ここ数日、レガロを分解して作っていたのはあれだったのか。確かに引き金を引くだけなら怪我をした手でもできるのだろうが。
「撃ったんですか?ろうそくの火を?」
「まあ……動きから地面に置いたことも分かったし、光が目立ってた」
遠慮がちに言う彼に唖然とする。確かに目立ってたとは言え、豆粒のような光だったのだ。それを暗闇のなかで……どうやって狙いを定めたのだろう。
「あー、イザベル。ここの家は?勝手に入って大丈夫なのかい?」
ローマンさんは無理矢理に話題を変えようとしている。
「だいじょーぶだいじょーぶ」
イザベルさんは脇腹をさすりながら、気にも留めずに言う。
幽霊は、ひとの土地までは入ってこないようだ。
隠れ家だと思っていたから、廃屋や教会の地下などの地味なところを想像していた。だが、広い敷地に納屋があり、大きなお屋敷が立っているのを見て面食らってしまう。
セナイダさんが遠慮がちに質問する。
「イザベル。確かに、幽霊は入ってこないだろうけど……それはここが……あのヒメネス侯爵の屋敷だからでしょ?不法侵入では……」
「国家反逆罪までやらかしといて、今更じゃない?」
「それはそうだけど、日が昇ったらどうするの?」
「だいじょーぶだって――」
イザベルさんはごろんと横になり、嫌そうな顔をこちらへ向けた。
「ここ、私の実家だから」