98話 8月8日 往路
最後まで迷ったが、持っていくことにした。
この縁が、彼が結んだものだとしたら、きっと必要になるのだろう。教授が彼から預かったもの、百科事典くらいの木箱を鞄に入れて、数か月過ごした部屋の扉を閉める。
日が差し始めた街の西門。
見上げるほどの門の周りには、見送りにきた大勢のひとがいて、見送られる僕たちは僅か20名弱だ。運送と護衛を務めてくれるレネ傭兵団の荷造りが済んだら、いよいよ北へ往く旅が始まる。
この世界に召喚されてから初めて街から離れる。ディマス伯爵がいる王都へ100㎞ほど、急げば4日の旅だ。
斧、魔剣、ナイフ数本、それに牛革でつくられた手提げの鞄を傭兵団へ渡すと、他の皆よりも明らかに違うから確認されてしまう。
「ヘイト様の荷物はほんとにこれっぽっちでいいんで?」
「はい。日用品はあまり要りませんから」
僕の場合、全身を覆うこの一張羅を着ているから着替えられないし、飲食も睡眠も不要で、それに入浴もしなくなった。自分がクサくなっていないことを神に祈るばかりだ。
……何はともあれ、荷物はそれほど必要ない。
観光に行くわけではないのだ。持って行っても、持って帰ってこられるとは限らない。それどころか、この街に帰ることすらできないかもしれない。
何が待っているのかも、まったく想像がつかない。
「ヘイトぉ!良かった。間に合った」
「あ、アントニオさん」
人垣が割れて、息を切らしたアントニオさんが現れる。ひぃひぃ言いながら彼は、背中から大きなオリーブドラブ色の荷物を下した。リュックサック、背嚢というのか。
「色んな連中と……それからミックからの餞別だ。持ってけ」
「あ、ありがとうございます。ミックさんは?」
「才能の使い過ぎでベッドの上だ。いい旅を、ってさ」
「あぁ、申し訳ないな」
ミックさんの姿が見えないと思ったら、"8番の武器庫"を使い過ぎて倒れていたのか。
「って、重っ」
背嚢の紐を持つと、金属を満載したような重さを感じる。これだけの道具をもらってしまって、先月も大変だったのに、彼には無理をさせてしまった。
「準備できたってよ」
ブラウスにゆったりとしたズボンというラフな服装のイザベルさんが教えてくれる。
この旅に同行してくれるのは、この街の修道女であるイザベルさん。僕と同じ神の使徒であるローマンさんにダリアさん。
それと、ディマス伯爵の危機を伝えにきたアレホさんだ。
土地勘のない王都で活動するのに、メサさんへ道案内を頼もうとしたが断られてしまった。王都には行きたくないそうだ。
その代わりに連れてきてくれると言っていたが、まだ会えていない。
教会の鐘が鳴る。
時間だ。
馬車へ向かおうとすると、ひとりのシスターが歩み寄ってくる。この世界に召喚された時に初めて会ったひと、不安気な表情を浮かべる僕の案内人だ。
「アイシャさん、行ってきます」
「……ヘイト様。お気をつけて。『お帰りなさい』って、言わせてくださいね」
「はい――」
きっと2,3週間の旅だ。そう長く離れるわけじゃない。この日常に、またすぐ戻ることができる。そう思おうとするが、後ろ髪を引かれてしまう。
「はい。もちろん……お土産買ってきますから」
この口からはもうちょっと気の利いた台詞は出ないのか、と自分にうんざりするが、アイシャさんをふふ、と笑わせることはできたようだ。
「行ってらっしゃい。ヘイト様」
御者の持つ手綱が空気を打つと、2頭立ての馬車がゆっくりと動き出す。6台の馬車が作る車列が街道を進み始める。途中まで、領主の実質的な部下であるメルチョル男爵の商隊に紛れ込ませてもらっての移動だ。
街が、門が、手を振る人々が、すっかり見えなくなるまで僕は後ろを向いていた。
良し、行こう!
と吹っ切って前を向いたところで馬車が止まる。
下車し、何事かと車列の先頭へ行く。すると街道の傍に2頭の馬と、女性の背に隠れるように、ぜんぜん隠れられていない大柄な黒甲冑が立っていた。
「あれ、メサさん?」
「ああ、ヘイト様。こちらを通ると聞いておりましたので待たせて頂きました。先日申し上げた私の代わりです。この大きいのを連れて行ってください」
「え、ええ。それは良いんですけど……」
黒い甲冑を着た男性は何だか決心がついていないような、落ち着かない様子を見せている。
兜で顔が見えないが、こんな2m近い身長に、全身甲冑なんて重くて高価なものを普段着のように着られる男性など、ひとりくらいしか思い浮かばない。
「フェルナンドさん?」
ビクッ、と巨体が固まる。
「い、いえ。私は……そう、ブラックナイトです」
聞いたことのある、品の良い低い声だ。
「え、いや、でも……まあいいか」
メサさんは彼を白い目で見ると、
「ブラックナイト氏は長く王都で暮らしていました。あそこを案内するなら彼以上の適任はおりません」
ね、と目線を送られて、フェルナ――ではなくブラックナイト氏は目を背けた。何か顔を隠しておきたい理由があるのだろう。
馬上から礼をするメサさんに手を振りながら、大柄な同行者を連れて出発する。ここ数日の準備は大変だったが、いよいよ出発だ。もう止まることはないだろう。
同じ馬車にいるのはアレホさん。それとブラックナイト氏が、甲冑を着たままの大きな身体を押し込むように隅っこに座っている。
初対面の彼と会うのは2か月ぶりだ。一応、どこまで話を聞いているか把握しておいた方が良いだろうか。
「ああ、と。ブラックナイトさん。事情は聞いてますか」
彼はピシッと姿勢を正して、
「は、はい。ある程度ですが。恐縮ですが、もう一度お聞きしてもよろしいでしょうか。本当に恐縮ですが……」
「アレホさん、もう一度お願いできますか」
「分かりました――」
アレホさんは憔悴しきっている。アフリカ系の顔は不安で歪み、祈るように組まれた両手は膝の上に置かれている。床から理知的な眼を上げて、こちらを見た。
「1か月ほど前、騎士団が王都に到着したばかりの頃、王都で大魔法を使った事件が起こったのです。"蛇竜"の魔獣が現れ、一区画が壊滅し、多くの命が喪われました」
悪魔と契約を交わした魔法使いが、自らの命を捧げて行使する大魔法。見たことはないが、その威力と規模は通常の魔法とは比べ物にならないと聞いている。
「数刻ほどで、魔獣は王国親衛隊により討伐されましたが」
かつて"王の宝剣"と謳われたフェルナンドさんが隊長を務め、12年前のクーデターをきっかけに再編成が行われた王国親衛隊が迅速に対応した、が。
「その騒ぎに王妃が巻き込まれ、帰天されました」
第一王妃が病に斃れたあと、現王が再婚した相手である第二王妃が、テロに巻き込まれて亡くなられた。心優しい、才色兼備の方だったようだ。今回の問題はそれからで。
「その首謀者が……我が主であるディマス伯爵だとして……捕縛されました。
直前で事態を察したディマス様は騎士団を散開させ、各地へ救援を呼ぶように命を下しましたが、大部分が王都から出ることなく捕縛されたようです」
「すみませんアレホさん。確認ですが。冤罪ですよね」
「はい。騎士団に"蛇竜"の魔法使いはおりません。魔獣の討伐と復興には我々も協力しております。
私にも、何故このようなことになったのか」
アレホさんは痛みに耐えるように身体を曲げた。
国家転覆を謀ったと疑われる騎士団が、どんな運命を辿るかは想像がつく。そんな危険を目前にして、伯爵はただ捕まったのだろうか。
「伯爵が、というかディマス騎士団が負けるとこ、想像できません」
ディマス騎士団は国内有数の軍隊だ。新兵交じりで全体の一部だとしても、100騎を超えるあの騎士団なら、それを率いるディマス伯爵であれば、危機を察した時点で無理矢理にでも王都から出られなかったのだろうか。これは強引な考えだろうか。
「アレホ……将軍か?」
「はい」
ブラックナイト氏が聞き、アレホさんの返答を聞いてこちらを向く。
「おそらく、伯爵はあの男との武力による衝突を避けたのでしょう。これから、我々も王都で事を起こすのならば、必ずあの男が立ちはだかってきます」
ゆっくりと、語り掛けるように、彼は話す。走り出した車列は徐々に速度を上げ、巨大な牢獄へ車輪を回していく。
「現王――ホセ・レオノード・デ・ゴート・アギュラ王の弟君にして、国で最も強大な戦士が任命される王国親衛隊隊長。
戦場においてただの一度も膝を付かず、"使徒喰らい"との異名を持つ、アーサー・ザカリアス・ル・ヴァリエ・アギュラ将軍」
王国を守護する英雄のことを、これから僕たちを阻むであろう相手のことを淡々と話す。
「決して戦ってはなりません」