9話 1月6日 人付き合いは難しい
一睡もできない。
窓には相変わらず夜の闇が張り付いていて、閉じられた箱の中にいるような想像にとらわれる。
ベッドに寝転んだり、椅子に座ったりと、できるだけリラックスするようにしていたが、いつまでたっても夢の世界に行くことはできなかった。
眠れない。ということに対する妙な不安はある。だが不眠は今に始まったことではない、以前からそうだったような気がする。
時間の流れが曖昧になっている。部屋には時計もないうえに、窓から見える闇が変化する様子はないからだ。
夜は鐘も鳴らなくなるようだ。と言っても音の法則がまだ分からないから、聞いても今が何時なのか把握できないのだが。
あまりに暇だったので、この世界に来る前の記憶を探ってみたが、成果は芳しくなかった。
通っていた高校や図書館の名称は憶えているのに、そこに至るまでの道順が思い出せない。
しかし、そこで読んだ教科書や本のタイトルなどの内容はしっかり覚えていたりする。
記憶を探る中で最も曖昧な部分は、神と名乗った彼がいた病室、あの場面になる直前がそうだ。
あの場所に行くまでの経緯。
そのことを思い出そうとすると、まるで濃い霧の中にいるような感覚にとらわれてしまう。
そして――
自分の家族。
家族構成は憶えている。
父、母、そして……妹。
皆、人柄も、名前も、顔すらも曖昧だ。
”へーくん、へーくん”と自分を呼ぶ、年の離れた妹の声だけを憶えている。
確か、何故かそのあと妹は泣き出してしまって――
僕が、何かしたような――
父が、何か言ったような――
妙な感覚だ、映像は脳に焼き付いているのに、詳細はまったく分からない。
何年も放置され、ひどく色あせたポスターで作った、パラパラ漫画を見ているようだ。
そしてそのあたりのことを考えると……ただただ嫌だなと感じる。
それは思い出せないむず痒さなのか、家族を忘れかけている自責の念なのか、
それとも――
これ以上はやめておこう。
嫌な感覚がループするだけで、一向に解決しない。
とにかく、記憶が混濁しているのは、この世界に飛ばされたことによる一時的なショックではないようだ。多少落ち着いた今でも大して思い出せることは無い。
鐘の音が聞こえた。
眠れないまま、朝になった。
一徹だ。
不思議と眠くはなかったし、徹夜特有の、意識を無理やりこじ開けられている感覚もない。
だが、睡眠を取れていない事実は、特に理由もなく不安を感じさせ、憂鬱にさせた。
部屋でじっとしていると、誰かが扉をノックした。
どうぞ。と声を出すと。
「儀式の準備が整いました。解呪の秘跡を行ないますので、礼拝堂にご案内致します」
そう言って現れたのは、昨日給仕してくれたシスターだ。
僕は導かれるまま彼女についていった。
結論から言うと、鎧が脱げることは無かった。
たくさんの聖職者が集まり、厳かな雰囲気のなか解呪の秘跡は行われた。
だが、問題なく進行した儀式は、最後の最後で何者かに邪魔されたかのように止まってしまい、何度行っても結果は同じだった。こんなことは初めてだと言う。
鎧は身体にぴったりと張り付いて、びくともしない。
聖職者たちは徐々に疲労と悔しさに顔を滲ませていった。涙を流す者も現れ始める。僕はあまりにいたたまれなくなってしまい、これ以上はやらなくてもいいと断ってしまった。
人が飲食をしないで生きていられる時間は、最短で三日程度だったか。普通なら、近々僕は死ぬのだろう。
それが分かっているからか、
申し訳ありません、と皆に繰り返し言われてしまう。
儀式を取り仕切っていたバースィルさんも辛そうにしていた。
それを見た僕はすっかり小さくなってしまい、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
「ヘイト様、アイシャが目を覚ましたそうです。一緒に顔を見に行きませんか?」
とエルザさんが助けてくれたのが少し前。
今僕は、扉の前で待っている。
アイシャさんが目を覚ましてからどれだけ時間が経っているのか分からないが、起き抜けの婦女子がいる部屋に入るわけにはいかない。
そういった気を回したのか、エルザさんが先に部屋に入ったのだ。
危なかった、アホな僕ひとりだったら、心配からノックも忘れて突入していたかもしれない。
こうして待たされていると、嫌な想像が膨らんでくる。無事だとは聞いていたが、魔物に噛まれた傷は目を背けるほど重傷だった。
もし――
もしだ――
切断なんてことになっていたら。
そんなことを考えてしまい、背筋がゾッとする。
僕が戦々恐々としていると、部屋の中から声がかかった。
失礼します。と蚊の鳴くような声を出し、ゆっくりと扉を開ける。
「こんな姿で申し訳ありません。それと、あの時はありがとうございました」
アイシャさんは笑顔で出迎えてくれた。
彼女はベッドから身を起こしていた。傷ついた片腕は包帯で固められており、骨折したかのように首から下げられている。いや本当に骨にダメージがあるのかもしれない。
切断は無いようだ。
だが安堵は出来ない。
笑顔だが、出会った時のような溌剌さはない。
表情はやつれていて、無理に笑顔を作っているのが分かる。
僕に気を遣っているのか、まだ痛いだろうに、健気な姿にこちらの胸が塞がれるようだ。
――さっき鎧が脱げなくて良かった。
自分の顔が隠されていることに少しだけ感謝する。
今の僕が浮かべている表情は、とても彼女に見せられるものではない。
「――助かって良かった。ご加減はいかがですか?」
僕は何とか言葉を捻り出す。
「今は動かせませんが、頑張って練習すれば元のようになるそうです。ヘイト様のおかげです」
「いえ……そんな……僕は……無理はしないでくださいね」
「はい。申し訳ございません。ご心配をおかけしました」
アイシャさんが謝り、それで会話が途切れ、重い沈黙が部屋を満たす。
この間、街を案内してもらっていた時の雰囲気が嘘のようだ。
沈黙を破ってくれたのはエルザさんだった。
両手で一拍し、
「解散しましょうか!」
と努めて明るく言ってくれたのをきっかけに、お見舞いはお開きとなった。
部屋を辞する前に、
「またお見舞いに来ます。果物か何か持って」
とこれだけは必ず言うと決めていた台詞を言う。あの時はドライフルーツを渡せなかったから。
それを聞いたアイシャさんは少しだけ顔をほころばせてくれた。
「果物ってなんのことですか?」
僕とエルザさんが部屋を出た後、廊下を歩きながらエルザさんが聞いてきた。
「えーと、アイシャさんにドライフルーツを贈ろうとしたんです。魔物のことで有耶無耶になってしまいましたけど……」
そう言えば、あのとき買った物とお金はどこに行ってしまったのか。武器屋のおじさんのところに置いたような。
「ああ、なるほど。でも今の時期、生の果物ですと少し贅沢品かもしれませんねえ。教会からそれだけの金額はお渡しできないかも……」
「……そう……ですか」
残念だが、お金をねだるわけにはいかない。お金を稼ぐ方法は無いだろうか。
ふと思い出したことがあり、質問を投げてみる。
確か、魔物との戦いに協力している使徒がいると、それならば――
「魔物を倒せばお金がもらえたりしますか?」
そう聞くとエルザさんは少し驚いた様子で答えてくれた。
「いえ、特定の魔物を討伐すると領主様から報奨金が出る場合もございますが、基本的には貰えませんね。魔物の亡骸は有効利用できないので売買できませんし、普通の人では大抵、返り討ちにされてしまうので報酬は出さないようにしているのです」
「では、魔物と戦っている使徒はどうやって生活しているのですか?」
「うーん、木材ですね」
「木材?」
「はい。通常、魔物の討伐と黒い森の伐採はセットで行われます。不思議に思われるかもしれませんが、伐採された木は良質な木材として使えるのです。
魔物と戦う使徒様は、木を採る木こりの皆様に同行し、魔物から守ることで報酬を商会から得る。
商会に所属している使徒様方はそうして暮らしているようです」
「なるほど、木材を売ったお金の一部を、護衛の料金としてもらうのですね」
「はい。木材は燃料や建材など、生活に欠かせないものですから」
「僕にも出来ますか?」
え!?とエルザさんは驚いて固まってしまった。
そんなにおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「仕事を……魔物と戦わせてください」
僕は宣誓するように言った。
普段ならこんなに強引な態度はとらない。どうかしてしまっているのか。
――正直、腹が立っていたのだ。エルザさんにではなく、理不尽な魔物と力のない自分自身に。
先程のアイシャさんの姿を思い出すと、彼女をあんな目に合わせた魔物に対して、ふつふつと怒りが湧いてくる。
彼女が何か罪を犯したのか?あんな大怪我をする必要は無かったはずだ。無理に笑う必要も無かったはずだ。
自分もそうだ、こんな鎧を着ている暇があるのなら、さっさと彼女を追いかけて盾にでもなれば良かったのに。
自分はどこに行っても役に立たないのだろうか。どこかからそんな思いがこみ上げてくる。
喉の渇きや空腹を感じたりはしていないが、このまま飲み食いせずにいたら動けなくなってしまう可能性はある。
この先、鎧が脱げるかどうかは分からないのだ。自分に残された時間は少ないのかもしれない。
じゃあこのまま、何もできないまま死んでしまうのか。
もしそうなるのなら。そうなる前に。せめて。
「役に立ちたい」
そう口を衝いて言葉が出た。
「分かりました。ですが教会は基本的に黒い森には行きませんので、どなたか商会の使徒様をご紹介致します」
エルザさんは諦めたようにそう言ってくれた。
僕は昨日の夜を過ごしていた部屋で待っていた。
近くの商業会議所に他の使徒がいないか探すために遣いを出してくれたと言う。数日待つことになるかもしれないと。
だが、程なくして扉がノックされた。
「使徒様が馬車でお待ちです。こちらへ」
とシスターに教会の外まで案内される。
商業会議所に使徒がいたようだ。その使徒は所用で街に来ていて、これから拠点にしている街の外にある農村へと帰るところだったらしい。タイミング良く声を掛けることができたと。
教会の外に出ると、馬車のそばでエルザさんがひとりの男性に話しかけていた。
「ヘイト様、津山勘治様です。
勘治様、こちらは佐々木竝人様です」
エルザさんが僕に気付くと簡単に紹介してくれる。
こちらのことは僕が到着するまでに話しておいてくれたのだろう。
津山勘治と紹介された男性は、腕を組んで馬車に寄りかかり、渋面で僕を見ている。
というかその目線は睨んでいると言って差し支えない。
眉根に寄せたシワは刻みつけられたようだ。
僕の数倍は不愛想な表情をしている。
黒い短髪に黒い髭を蓄えている。
名前と顔立ちから僕と同じ日本人だろうか。
だが恰幅が良く、身長も体格も僕より二回りは大きい。
任侠物の映画に出てきそうだ。主役で。
お、怒っているのだろうか。
正直、怖い。
そう言えば僕以外の使徒と会うのは初めてだ。
縮こまっている場合ではない、とりあえず挨拶しないと。
「お待たせして申し訳ありません。佐々木竝人です。よろしくお願いします」
――。
――――。
――――――。
無視だ……
すでにくじけそうだ……
別のひとでお願いできないのだろうか。
魔物と戦うひとは皆こんなに怖いのだろうか。
「では勘治様、ヘイト様をよろしくお願い致します」
無情にもエルザさんが一礼と共にそう言う。
先程の決意が、すでにぐらぐらと揺らいできていた。
勘治さんは小さくため息をつき、
目線と顎の動きで馬車に乗るよう促してきた。
出発した馬車の中の空気を揺らしているのは、がらがらという車輪の音だけだった。会話はひとつもない。
乗っているのは僕と勘治さんだけ。
エルザさんが付いてきてくれるかとも小さく期待したが、そう上手くはいかないようだ。そういえば、街の外に出ると言っていたっけ。
これからお世話になるので、なけなしの勇気を振り絞って何度か声を掛けてみたが、すべて無視されてしまった。勘治さんは目を瞑って、腕と足を組んだ体勢から微動だにしない。
僕は早々にコミュニケーションを諦め、隅っこで小さくなることにした。これ以上しゃべりかけたら怒られるかもしれないと思うと、怖くてうかつなことはできない。
馬車の隅で黒い全身甲冑が縮こまっている様子はどれだけシュールなのか。
魔物と戦うと大口を叩いておきながら、これは大丈夫か。
街に入る時よりも、今の方が車体の揺れを強く感じる。
息の詰まるような雰囲気のせいだろうか。
僕はうまくやっていけるのだろうか。
情けないことだが、不安しかない。
結局一度も会話しないまま馬車は止まった。
日は傾きかけている。
街の風景は後方に過ぎ去り、今は辺り一面、農村と畑の風景が広がっている。
勘治さんが馬車を降りたので慌てて後を追う。どんどん先に進んでしまうので、追いかけるのが大変だ。周りを見渡している暇は無い。置いていかれたら絶対迷子だ。
驚いたのが、たまにすれ違う農民が皆、勘治さんに挨拶することだ。笑みを浮かべる人さえいる。だが勘治さんはそういった人たちに視線すら向けない。
その後、僕の方をきょとんとした顔で見て行くので、軽く会釈しておく。
勘治さんはこの辺りの人たちに顔を知られているようだ。挨拶する人の様子から、恐れられているわけでもないと感じさせる。あんなに怖い顔をしているのに実に不思議だ。
一軒の農家に着き、勘治さんがその扉をノックする。
いやノックという上品なものでは無く、叩いているというのが正確か。
もしや借金取りや地上げの類だろうか。僕は何をさせられるのだろう。
心配が絶えない。
間もなくひとりのご婦人が出てきた。年配ですれ違った人達に似たような服装をしている。
ご婦人は来客が勘治さんだと分かると相好を崩して言った。
「あら、先生じゃないですか。どうかなさったんですか」
「柵のことだ、あれ貸してくれ」
しゃべった!!
いや、つい驚いてしまった。
もしかしたら勘治さんは耳か喉が悪く、話すことができないのではと、そう思っていたからだ。そう考えると彼のこれまでの態度は不自然では無い。
それに気付かず話しかけてしまった僕の態度は不快だったろうと。
良かった。彼は単純に僕を無視していただけのようだ。
……良かったのだろうか?
「引き受けてくださるのね。助かるわあ。でも、もう夕暮れだけど、今からでいいの?それと、そちらの方は」
「問題ない、こいつにやらせる」
ご婦人がこちらに注意を向けたので、こんにちは。とあまり目立たないように言うと、愛想よく挨拶を返してくれた。勘治さんと並ぶと彼の強面がより際立つ。
いや、しかし柵とは何のことだろう。何かの隠語なのか。
あれとは、いわゆるドスやチャカと呼ばれる類の物か?
日も傾いているし、僕に何をやらせるつもりなのだろう。
まさか、殺し屋的な何かか。夜闇に紛れて誰か邪魔な人間を排除すると。失敗したら僕が消されるのか。
どうしても勘治さんの見た目に引っ張られたイメージをしてしまうなあ。
「そう?分かったわ。ちょっと待っててくださいね」
ご婦人はそう言って家の中に引っ込み、そして――
出てきたときに彼女が両手に持っていたのは、二振りの木刀だった。