夜を焦燥と不安と
勉強に励もうと思うが、体が動かない。体は重く、頭にはガスがかかったようにはれない。こんなようでは、勉強に集中することも叶わないだろう。だから、私は勉強への意欲を失ってしまった。午前3時52分。僕は自由帳を開き、思いの丈をスマホのメモに書き殴った。
この状態をどうすれば打開できるか、他者の意見を求めてネットサーフィンをしていると、それは『甘えである』という回答を見つけた。『甘え』なんだか嫌な響きの言葉だ。努力しているものに対して、そのようなことをいうのは例え誰であっても違うだろう。そう思っている私にとって、その言葉をみて、一瞬でも私の意見として取り込んでしまったことは心を傷つけ、悩ませることとなった。それ故に、私は.....
それは甘えだよ。
この世の中、何かができなかったり、やる気が出ないとこの言葉で全て方がついてしまう。
原因を考えることなく、そんなことを言って結論となるのだから、とても力があるのだと思うし、危険だと私は思う。
なぜだか、その言葉で理解してしまうんだ。それは心当たりがあるから。その心当たりという意味では、ほぼあなたの過去を言い当てますなどという占いに近い要素だ。自分が自分の意思に負けたと感じる記憶を呼び覚ます。そして、その自身の個人的解釈をもって帰結させてしまう。
そこに客観的な意見はない。あなたに私こんなことがつらいんだけど、あなたの意見を聞かせてほしい。『それは、甘えだよ。』それはあなたの意見ではないのだ。ただ私の甘えかもしれないという記憶を呼び覚まし、自分の否定を促す言葉でしかない。
仮にその甘えという言葉に、適する状態だとしよう。ゲームという時間がある。ここにボーッとしてる時間がある。ここを有効活用できるかもしれないね。この状態は、見直す必要があるのかもしれないということを示唆しているということ。見直すことがあるということは、怠けだろうか、ただそうすることに気付いていないだけなのではないか。『甘え』はここまでの訂正を促す意味を持つだろうか。単に、質問した当人への否定しかそれから読み取ることは難しいということが理解できる。『甘え』という言葉には、思いやりが感じられない。
以上から、『甘え』という指摘文句は相手を強く否定し卑下するという意味を持つことが考えられる。あたかも、廃れたであろう感情論、根性でなんとかしろの域の話であり、精神的にも非常に影響が大きく、傷つけられる可能性の大きいことから、使うことは勧められないのではないだろうか。
ふぅとベットに寝転んだ。どうしようも無い。そんなことはわかっていた、わかっていたけど衝動が抑えきれなかった。天井を眺めて、自分の今の実力を思う、あぁ、そして目を瞑った。今の自分にはどうしようもない。どうしようもないんだ..... 手をギュと握りこんで、横向きになる。
短針はもう5時を指そうとしていた。