第4話:嗜好
娑婆の空気はやはり美味い。天使に見送られたという事実もあるのだから尚美味い。
解放感も最高だ。あの水分無き湿った空間には二度と戻りたくないものだ。そういう意味ではあの独房は再犯防止には中々いいのかもしれない。
いや、それはいい。もう戻るべきではない場所の話など。ゴルドーさんだ。
鍵番さんが言うには私が尋問されている間に釈放されたようで、小屋の近くにある広場で待ってくれているそうだ。
私はとりあえず小屋から繋がっている道を辿っていると大きな広場にたどり着いた。
縦に長い2m程の銅の立方体の上に背筋を伸ばし凛と立つ旧日本軍の軍服を彷彿とさせる格好をした男の銅像が中央にどんと立ち、数人の甲冑やらお高そうな服装の人がちらほら歩いていた。
私は何とは無しに、銅像に視線を向ける。
この国の英雄だろうか。戦争が頻繁にある世界の英雄だというのだから、相当な戦績を残したに違いないのだろう。後学のために名前くらいは覚えておいたほうがいいだろうか。
「おーい! ノイ!」
銅像の名前を探していると、ゴルドーさんの声が聞こえた。
声の方に視線をやると、銅像にもたれかかりながらゴルドーさんは手をブンブン振っていた。
私は、小走りでゴルドーさんの元へ向かった。
「お待たせしました。ゴルドーさん先に出てたんですね」
「俺は昨日尋問を済ませてたからな」
「なるほど」
「もうそろそろ陽も落ちるし、一服したらオレんとこに行くか」
「一服?」
すると、ゴルドーはズボンのポッケに手を突っ込み、少し崩れた直方体の小さな箱を取り出した。
「なんです、……それ」
ポッケから取り出すという行動、出された物、大きさ。
にわかには信じがたい。いや信じて違ったら、私はきっと落ち込んでしまうので、信じたくなかった。
しかし、しかし期待が、私の意思とは勝手にどんどん膨らむ。鼓動は普段よりも多く脈打つ。
「何って、タバコだよ」
「あるんですか!? タバコあるんですか!?」
タバコ。この単語を聞いて私は反射的に大きな声を発してしまった。
何を隠そう私はタバコが大好物なのだ。愛して止まない嗜好品。
タバコがある。この事実だけで私の血は沸き、胸が熱くなる。
ため息をつくことすら憚られる前の世界で、ゆっくりと息を吐くことが唯一許される嗜好品。
いつどんな時でも、それこそ死ぬ前ですらずっとそばにいてくれた唯一の親友。
この世界のタバコがどのようなものかはわかったものではないが、あるだけでどんな世界でも生きていける気がする。それほどタバコが好きなのだ。
「何だよ、……ノイの田舎にはそんなに流れてこねえのか?」
「いやぁ、そういうわけではないんですけどね! いやあ、最高!」
ゴルドーは明らかに私の異様な喜びように引いている。しかし知ったことではない。
タバコだ。タバコがあるのだ! これを喜ばずにどうするというのだ!
「まぁ、……とりあえずその狂気もタバコで落ち着かせようぜ。ほれ」
そう言って、ゴルドーは前の世界で言うソフトケースからタバコが一本飛び出た状態で私の前に差し出してくれたので、両手で一本拝借した。
「いやあ、ありがとうございます! なんていうタバコなんです?」
「ヴァリアンってタバコだ」
「へー、ヴァリアン」
ヴァリアン、聞いたことのないタバコだ。流石に前の世界のタバコではないか。
指に挟んだタバコを一瞥すると色は白く紙巻のようでフィルターらしきものはついていなかった。
「おー、両切りタバコですか」
「リョウギリ? なんだそりゃ」
「フィルターが付いてないやつのことですよ」
「フィルター? ……まぁ知らんがそんなんもあるんだな」
こっちでは両切りが主流なのだろうか。まぁ今は何だって吸えればOKだ。
「すいません。火もらえますか?」
「ちょい待ち」
するとゴルドーさんは、タバコをポケットにしまうと、おもむろに右手のひらを上に向け、
「ファイア」
「えっ」
まるで似合わない詠唱に思わず声が出る。
すると、ゴルドーの手のひらからボッと小さな炎が出現した。
「えっすげえ」
「ほれ早くつけえ」
「あぁ、はい」
すっと口にタバコを咥え、タバコの先を炎に近づけ、勢いよく吸う。
すうぅっと吸い上げ、肺に煙を染み込ませると、脳の外側と頭皮が痺れる。味は少し甘めで、セブンスターに似ていた。
久々の感覚に思わず驚き煙を吐き出してしまいそうになるが、それでもぐっと少しの間堪えた後、
「おふうーっ」
と煙を大きく吐く。まるでそのまま煙に乗って魂が半分外に出ていく感覚。
血は刹那浮き、頭のてっぺんから足のつま先まで少しの痺れとリラックス効果がもたらされる。
頭は少しだけふらつき、重力が少しだけ強く感じるようになる。
変わらない。この感覚は、いつだって変わらない。
これだ、このために生きているんだ。
こんな世界で生きている感覚はこれしかねえ。そう思えた。
「おー、なかなかの吸いっぷり」
ゴルドーさんはタバコを吹かしながら言った。
まさに救世主、メシア。この男が私にとって一番神に近い。
「あぁ、最高です。ホントにありがとうございます」
「タバコ一本でここまで感謝されたのは初めてだぜ」
そういうとゴルドーは手のひらに浮いていた小さな火を握ると、無音で明かりと共に消え、辺りはほんの少し暗くなる。
「魔法使えるんですね」
「タバコ吸うためにこれだけ覚えたんだよ」
「かしこい」
「ノイは使えんのか?」
使えるわけがないだろう。使えたら前の世界ではそれだけで口に糊ができてしまう。
「使えないですけど、……誰でも出来るものなんですか?」
「おっ、もしかしてお前も学校出てねえのか? どこの学校でもある程度は習うらしいぞ」
失言をしてしまった。この世界では魔法は国語や数学と同じ扱いなのか。
「うちはそんな裕福ではなかったので、ゴルドーさんも?」
「まぁなぁ、貧乏は辛いぜ」
「となると、魔法はどう覚えたんですか?」
「安く売ってた魔法の書を買って魔法を覚えようとしたんだが、意外と面倒ですぐ辞めちまった」
「へぇ」
魔法、か。
こんな世界に来たと言うのだから、是非とも覚えてみたいものだ。機会があったら魔法の書とやらを探してみるか。
しかしまずは食い扶持だ。これがなくては前の世界と同様生きていけないだろう。いや、あっちでは一応生活保護があるか。
ふうと煙をゆっくり吐く。少しの喧騒と私のふうと吹く音だけでも私は風情を感じて、郷愁とニコチンに胸をやられる。ニコチンが入っているのかは知らんが。
吐いた煙は空に昇って、次第に見えなくなる。昇るところまで昇って空を泳ぐ雲と一体化したらタバコの煙は仲良くやっていけるだろうか。
そんな浅はかな思考を無音で垂れ流し、ぼうっとしながら吐いたタバコの煙を空に吸わせていると、かしゃかしゃと甲冑の擦れる音が近づいて来て、
「おい、ゴルドー」
と、聞き覚えるのある女性の声が、ゴルドーの方から聞こえた。
声の主に視線を向けると、甲冑のお綺麗な女性が立っていた。たしか、ミラさんだったかな。
ミラさんは変わらず兜をつけず、その凛とした面持ちを公共に晒していた。改めて見ても、やはり美人。
ゴルドーは彼女の姿を見るなり突然後頭部を撫で始め頭をペコペコしながら、
「あっミラさん、これはどうも」
と言った。私にとって一番神に近い存在が頭を下げているので、私もつられて頭をペコペコさせた。
「お前また軍の世話になったそうだな」
「あー、いやその、すんません」
「酒はほどほどにしとけと何度も」
と、ミラさんは言いかけ私の方に視線を向けると、
「ん? 貴様は朝方あった不審者か。 何故独房にいないのだ」
「釈放されたので」
「なんと、ということは無実であったか。それは失礼した」
今度はミラさんが私に向け深々と頭を下げたので、私は思わず、
「いえいえ、お気になさらず」
と、何故かまた私は頭をペコペコさせる。
頭を垂れることはあっても後頭部を見下ろす経験はほとんどないので、対応が中々わからない。
「いやどんな状況とはいえ、無実の者を拘束してしまったのだ。何か補償しなくては」
律儀なお人だ。軍人としては長生きできないタイプだろう。
しかし、この機会を逃すには勿体無い。
スカして手を横に振ることはできるが、今の私にその余裕はない。
どんな機会であれ、まずは食いつかねば話にならない。
「では何か、お手伝いさせてもらえませんか? 今食い扶持に困っていて」
「軍の手伝いか? うーん、魔法も使えず武術も使えないとなると、雑用くらいしかないぞ」
「今はそれでも構いません」
ミラさんは顎に手を当てうーんと一回唸ると、
「そうか、君がそう言うのなら手伝ってもらうことにしよう。軍も人手が足りているというわけではないからな」
「ありがとうございます!」
「しかし、もちろん後々魔法か武術の訓練も受けることになるし、場合によっては戦争に駆り出されることになるが、……本当にいいのか?」
戦争、戦争かぁ。正直な所、それは嫌だなぁ。
痛い思いはもうたくさんだし、かといって言ってしまった以上後にも引き辛い。
「顔に出てるぞ」
「えっ、すいません」
口に手を当てミラさんがふふっと笑う。隣でぷっとゴルドーさんも吹き出しやがった。
「まぁ場合によってだ。今はだいぶ落ち着いているし、そうそうないと思うぞ」
野盗に襲われた手前中々信用しがたい言葉だが、今の私に選択の余地もないだろう。
「まぁそういうことでしたら、……魔法も少しは勉強するつもりですし」
「そうか、では詳しい話はまた後でしよう。今日の飯は私が持つよ」
飯という概念を思い出した途端、急激な空腹感に襲われた。
そういえば、随分と飯を食っていない。思考は飢えを満たすことばかりで一杯になり、どうしようもない。
無一文の私がこの問題を解決する術は、このお誘いにあやかる以外に存在しないことは明白だった。
「申し訳ないんですが、あやからせていただきます」
ミラさんは「うむ」と言って大きく頷くと、
「あぁ、当然だがゴルドーは自分で出せよ」
とゴルドーの存在を今思い出したかのようにゴルドーの方にパッと視線を向け言った。
するとゴルドーさんは目を見開いてぎょっとした顔になり、
「そんなぁ、お願いしますよ」
と弱々しく言った。
「だめだ。禁酒に成功したら少しは奢ってやる」
「じゃあ無理だ」
ゴルドーさんは肩をがっくり落とし、ため息交じりに言った。
「では、仕事が終わったらゴルドーの宿屋に行くから待っていてくれ」
そう言って、ミラさんは広場を後にした。
そして少しの沈黙が流れた後、
「俺らも行くか」
と言って、ゴルドーさんは吸い殻を小さな携帯灰皿らしきものに入れていた。
「しっかりしてますね」
「ミラさんにまたどやされるのは勘弁だからな」
「知り合いだったんですね」
「ミラさんを知らん街の人はいねえぞ。俺たちの声をよく聞いて親身になってくれる」
「へぇ」
ふと空に意識を向けると、陽の明かりは弱くなっていて少し暗がりになっていた。
吸い殻をゴルドーの携帯灰皿に入れると、私たちは広場を後にしゴルドーの宿へ向かった。