8:ヤバいと思った時にはかなりヤバい
退院したその足で買いに行ったものがある。
血圧計だ。
少なくとも三年間は毎日の血圧測定が必要になったので、退院したその足で近所のヤマダ電機で購入した。
私の人生史上、二台目の血圧計である。そのお値段、ちょっとお高めの8千円也。
ちなみに一台目は看護学生時代に購入した水銀式で、およそ実用的とは言えないものだった。聴診器とともに押し入れの中で化石化して、今も眠っている。
前にも書いたとおり、後遺症? が思わしくない状態だった私は、足もとフラフラで買いに行った記憶があるのだけれど、退院したら血圧計を買いに行く! を密かな目標にして入院中はリハビリに励んでいた。
だからヤマダ電機に着いた私は感動もひとしおだったのだけど、なぜか血圧計のコーナーに杖まで売っていて、「これあったら便利かもな~」なんて目移りしつつ、血圧計を無事ゲットして帰宅する(大型電機店に布団とか売ってるのも未だに謎)
意気揚々と退院したはずだった。
なのにそれからの日々は、ほぼ寝たきり状態になってしまった。思っていた以上に目に見えない後遺症が大きいものだったからだ。
自主的なリハビリと夕食の支度以外は、寝ているか吐いているか動画を見ているかのみ。
入院中にあった頭痛は治まっていたものの、吐き気は見事なくらい丸ごと残ってしまい、一日に数十回は吐いていた。なんの脈絡もなくいきなり吐き気がこみあげてくるものだから、夫氏の付き添いがあっても外出がままならない。
正直に言うと、くも膜下出血がこんなにヤバい病気だと思っていなかった。
三人に一人は自分の足で歩いて退院して社会復帰すると聞いた時は、元通りの元気な生活に戻れる、健康的なイメージしか持っていなかったのだ。
確かに私には重い後遺症は残されなかった。自分の足で歩いて退院したし、社会復帰もギリギリできた気がする。
間違いなく社会復帰ができた三人に一人だったのだけれど、目に見えない障害は決して軽いものではなかった。かと言って障害者認定を受ける範囲でもないから困惑した。
アウトプットがたまにマズいという言語障害との向き合いも精神的に結構辛くて、一生この状態が続いた時のことを考えて、今後の仕事のこととか生活のこととか人生設計考え直さないとかもな~、とボンヤリ考えてばかりいた。
唯一の救いは、家族が明るかったことだ。
私の夫を始め、子供たちも底抜けに明るい人たちで、この時期は本当に救われた。
いきなり吐き出しても「大丈夫かー、無理しないでねー」でサラっと対応してくれる。
リハビリがてらの夕食作りも、大鍋の一品を作るのがやっとなのに、どれだけ時間がかかっても「うまー」と喜んで食べてくれた。
大鍋料理と言ったって、豚汁だったり煮ものだったり野菜炒めだったり、冷蔵庫の在庫による、ありあわせのものばかり。
それでも当時は、椅子に座りながら、時にベッド上で数時間かけて野菜を切っていた。
ようやくコンロの前に立っても、火の消火確認は誰かと一緒にダブルチェックをお願いしなければならなかったりと、必死に作ったものだった。同様に、それに付き合う家族も大変だったと思う。
私の家族の何がすごいって、嫌な顔を一度たりともしなかったこと。面倒だなと思った瞬間くらい、きっとあったと思う。なのに家族は「後遺症がその程度で済んで良かったよ」と普通に言ってくれた。
そのたびに私は、「この程度で済んだんだから」と頑張ることができた。必要以上に悲観することなく、日々過ごすことができたのは家族のおかげだった。
「再手術が必要かもしれない」
そんな話が主治医から出たのは、退院から半年ほど経った頃だ。
破れた動脈瘤にきっちり詰めたコイルが変形しつつあるという。
治療自体は成功しているので再発はありえないが、コイルの変形が続くと治療箇所とは別の場所が破裂する恐れが出てくる、という話だった。
可能性の可能性という話である。また動脈瘤が発生するかもしれない。そして破裂するかもしれない。みたいな。
だから、とりあえずこの時は様子見となった。
しかし次の受診でも「変形が進んだ」というので、夫とたくさん相談した上で、もう一度同じ場所にコイルを詰める再手術(未破裂脳動脈瘤治療)をしてもらうことになった。
(私の場合、治療部分が既に破裂して血管がもろくなっていたので、ステントという筒状の金属を留置して血管を確保した上でコイルを詰め直す、という術式になりました。治療ということで社会保険が適用、3割負担でいけました)
そのようにして再手術の日程を組んだのが、年末のことだった。
謎の肺炎が中国で発生したと、テレビニュースに取り上げられ始めた頃だった。
正月を挟んで新しい年を迎えてからの再手術は、結論から言うと大成功。
あれだけ私を苦しめた後遺症は、濃い霧が晴れたかのように、嘘みたいに消えていたから本当にびっくりした。
再手術から初めての受診日にそれを主治医に話すと、
「気のせいですよ~」
ときっぱり否定して笑っていたが、実話である。
症状が改善された原因を自分なりに考えてみた。
再手術で血流がよくなったのかも、とか。
画像では見えない血栓が飛んだのかも、とか。
あれやこれやと色々考えてみたけれど、結局のところ原因はさっぱりわからなかった。そもそも医師が否定しているし。
だけどとにかく私は言語障害もかなり良くなって、吐き気も落ち着いて、寝たきりじゃなくても起きていられるようになって、PCも長時間打てるようになった。
家族の見守りがなくても長風呂ができるようになったし、夕食の支度も以前は豚汁だけで三時間かかっていたのが、おかず二品加えても三十分でできるまでに劇的に回復していた。
再手術を評価するための検査入院をした頃には、付き添いなしで二時間も散歩できるようになっていた。
春が近かったその季節、テレビではダイヤモンド・プリンセス号に関するニュースがひっきりなしに流れていて、その頃にはもう病院でも、入院時の面会制限がかかるようになっていた。
面会人は家族のみで、一度に一人まで。病室ではなく喫茶コーナーで三十分以内と決まった頃だったが、まだ当時はゆるゆる規則で、病室まで面会に来る人たちもたまにいたみたい。
その後数週間もしたら、完全に面会アウトになってしまうのだけれど、迫りくるコロナの恐怖から逃げるように再診→再手術→検査入院の日程を私は終えて、再び自宅に戻ったのだった。
この再手術入院の退院後、私は断捨離を再開している。
そもそもは、義姉が亡くなったのを機に始めたことだった。
今度は自分がくも膜下出血に掛かってしまい、断捨離どころではなくなった。
セルフ介護生活を送るために、リビングにベッドを移動したり、すぐ休めるようにという理由で購入したパイプの丸椅子6脚とサイズ違いの折り畳みデスク4台を、家中のあちこちに設置していた。
それに合わせるように、私の手が届きやすい場所に生活雑貨を配置したこともあって、そこら中が雑然としまくって、とてもじゃないが見れたものではなかった。
再手術を経て、いざ断捨離を再開しようと思い立ったまではよしとして。とっちらかった家を見て、「部屋ぁ……」とガックリきたのを、まるで昨日のことのように覚えている。
そんな状態の部屋では、とてもじゃないがリハビリなんかできなかった。
まずは不要な家具を捨てることから始めた。
まだ使えるから、というだけの理由で、本棚として再利用していた子どものタンスとか。
同じく、捨てるのがもったいないし愛着もあるからと言って使い続けた、夫氏が大学入学時から愛用していた超大型デスクとか。
特に理由はないけど、なんとなく使っていたカラーボックスとか。
なくても大丈夫な家具を家族と相談しながら捨てていった。
リサイクルショップやフリマ出品はしていない。処分したい家具の時価と手間が釣り合っていなかったので、この際未練を完全に断ち切って、思い切ることにした。
最も捨てまくったのは、押し入れとクローゼットで使っていた衣装ケース。
全部で10個余は処分したか。粗大ゴミの日まで一時保管していたベランダが衣装ケースで満杯になってしまった。
断捨離自体がリハビリになったと思えるくらい、家の片付けに没頭した毎日だった。
リハビリがてらの散歩を始めたのもこの頃だ。
最初は私が住むマンション前を歩く程度からスタート。次は少し離れた国道まで。それができたら、国道の大きな交差点がある信号機まで。やがて付き添いなしで二時間も歩けるようになっていった。
そして再手術後の検査入院を無事終えてひと段落した頃、志村けんさんの訃報が流れた。
生きているって当たり前じゃないんだと再び実感して、一度は諦めた車の運転も挑戦しようと決意。夏には近所を運転できるようになった。
もう無理だなと、やっぱり諦めていた小説も、また書き始めるようになった。
最初に書いたのは思い出せないくらい小さな頃のことだから、趣味というより衣食住に含まれる生活習慣、毎日の歯磨きみたいなものだったので、また書けたことにほっとした。
…と、ここまで書いておいてアレですが。
せっかく生きることができたのだから一秒でも無駄にしない! …という生き方は、それはそれで心に辛いものがある。
眠りに就く前に、「なんだかんだで今日も一日いい日だった」「だから明日も頑張ろう」と思える程度のゆるさで、今日もゆるゆると生きていたりするのです。