2:回収されない死亡フラグは高確率でハピエン化
死亡フラグなるものがある。
「この戦争が終わったら彼女と結婚するんだ」と口走った登場人物は戦死が確定するっていう、アレ。「押すなよ、お前ら絶対押すなよ」のDチョウ倶楽部さんの鉄板ネタに引けを取らない、凄まじい破壊力だと個人的に思っているのだけれど、そういえば私も死亡フラグを立てていた。
発症数日前のことである。
「人間なんていつ死ぬかわかんないんだから。やらずに後悔するくらいだったら、やっておけば」
と、子どもらに言っていた。
私には学童期を終えた娘が二人いる。その二人がお金を出し合い、夜行バスで東京から大阪に行こうと思い立ったまではいいけれど、「夜行バスで怖い人の隣になったらどうしよう」とか「大阪の人って早口っていうよね。関西弁聞き取れなくて迷惑かけないかな」といった具合に不安が押し寄せ、くじけそうになっていた。
夜行バスのトラブル対処法は、事前にネットで調べておけばいい。聞きとれない言葉は聞き返すのがむしろ礼儀だろう。
そんなアドバイスをした上で、前述の死亡フラグをばっちり立ててしまった経緯である。
「これ、旅費の足しにして」と、子どもにとってはちょっとした額となるお小遣いをあげたのだけれど、これも実は死亡フラグだった。『普段からは考えられない優しさを見せる』っていう、あるあるフラグ。
いつもチャラっとしている私である。にもかかわらず説教だなんて。かえすがえすも、らしくないことをしてしまったと思う。
そのようにして子どもらの大阪行きは決行された。タイミングの悪いことに、エンジニアの夫も泊まり作業が入っていて家族全員が不在だった朝、私は倒れてしまうこととなる。
入院から現在までの過程を、思いつくまま書きなぐるエッセイにはならない予定だ。あくまでこれは、お掃除備忘録として書いていくつもりで始めている。闘病方面の事柄は掃除に絡める形で書くことになるだろう。
だけど全体の構成的なことを考えたら、ざっくりとした経緯くらいまず冒頭に書いておかないと、ものすごく不親切だ。
そんなわけで、以下、箇条書き的に経緯をば。
発症時。
起き抜けに頭痛。もうこの痛みはくも膜下出血だろうと確信するも、バットで殴られたような痛みには程遠い。
タクシーで病院に行けるかも……近所に住んでいるマンション大家さんに送迎を頼んでみようか……迷っているうちに麻痺が始まる。連絡がついた夫に救急車を呼んでもらうが、搬送途中で意識を失ってしまう。
発症2時間後。
搬送先で手術開始。出血箇所を塞ぐことに無事成功。
いきなり飛んで、発症2週間後。
経過良好な上、目に見える後遺症も残らなかった。
発症4週間目。
退院。自宅療養の開始。
若干の高次脳機能障害が後遺症として残されていた現実に気付く。いきなり40度近い発熱をしてしまう症状も、後遺症として固定された様子。
そして、現在。
手術箇所を万全な状態にするため、年明けの再手術を決断する。後遺症の治療ではなく、再破裂を予防する根治目的の手術となる。
――……といった感じで時は流れ、死亡フラグは今も回収されずじまい。
でも、戦争で死なず彼女と結婚できたら普通にいい話だ。
バトル後の消耗が激しいキャラが「少し休めば大丈夫。すぐに追いつくから先に行ってくれ」と言ったとして、「次のバトルから参戦するぜ」と息巻きながら、本当に追いついてくれたら嬉しいに決まっている。
あの日、私が立てた死亡フラグもそれらと同じ。ただいい話として終わった。死亡フラグは回収も叩き折りもせず、ただスルーするのがベストなのだろうというのが、私なりの結論だ。
少なくとも私はそう思い込もうとしている。
くも膜下出血の死亡率は他の疾患に比較して、あまりにも高すぎる。救命率は昔より上がってはいるものの、重い障害が残る確率は今も30%くらいあると聞く。
現に私の親戚知人でくも膜下出血に倒れた人は5人いるが、ひとりとして助かっていない。
命が助かって麻痺も残らなかったのは、本当に幸運なこと。
高次脳機能障害は工夫すれば乗り切れるレベルの些細なもの。40度の発熱だって鎮痛剤を使えば寝込まずに過ごせる。
わかっているからこそ、弱音を吐けなくて辛い瞬間がある。
私はもう二度と、元通りの生活に戻ることができない。
自営業で医療校閲の在宅作業をしていた看護師だったけれど、「いつか現場に復帰したい」という夢も諦めなければならなくなった。
血圧が上がると呼吸が苦しくなりがちで、家事も連続して出来なくなった。
……でも、私は助かった。大きな後遺症も残っていない。もうそれだけでいいじゃないかという思いが、私なりの悲しみの邪魔をする。
所詮、助かった人間の贅沢な言い分だと誰かに叱られそうな気がして、弱音を吐くことができずにいる。
だからこそ私は、本気の掃除を自分に課した。
ちょっとでもラクができる安全な環境で、今できる仕事をアップデートし続けていきたいというのが、断捨離お掃除の最終目標だ。
体が辛い時こそバッチリぐーたら家事をサボれるように、家族が家事を代わりやすい空間を手に入れたい。
そんな切実な願いを叶えるために、タイトル通りモノを捨てまくる羽目になったのだけれど、捨てて後悔したことは未だない。
退院して真っ先に捨てたモノ。
それは「お掃除グッズ」。
最も綺麗にしておかなければならない「お掃除グッズ」が、悶絶するほど不潔な状態で溜め込まれていたのには、我ながら腰を抜かすほどびっくりした。
掃除するための道具から掃除することになるという絶望。
次回はそんなお話になる予定。
良いお年を~^^