71 名前を覚えていないのは……
彼の名前を覚えていない理由は、二つほどあります。一つは社長秘書として覚えなければいけない相手が多かったということ。取引先の方を間違えるわけにはいきませんよね。それなら、会社内の人の名前を憶えなくてもいいかな、と思ったんです。流石に付き合いがあったり、同期の人は憶えていますよ。
でも、例えば営業2課の事務の方たちの名前は憶えていません。3カ月しか一緒にいないのです。覚える必要もないでしょう。逆に営業に出ている方の名前は憶えています。これは資料を作成した関係でなんですけどね。あと、優秀な人が多いというのもありますか。
もう一つの理由は営業4課にいる方々の名前のせいです。彼の名前に濁音が入っていたのは覚えていたのですが、他にも濁音がつく方が多かったんですよ。
安達、小高、高田、中澤、宮崎などです。そのせいで、忘れてしまったんです。面白いからということで、中々富永氏は教えてくれなかったのですけど、彼の名前は尾石というそうでした。……そうか、安達ではなかったんだ。凹ませられるなら、安達さんと呼び掛けてみようかしら?
さて、そんなこともありましたが、只今の私はその彼といつもの場所で待ち合わせをしています。喫茶店なのですけど、会社からは適度に離れた裏通りにあるんです。一見さびれて見えますけど、知る人ぞ知る名店なのですよ。
そこの奥の席に座っています。少しドキドキしながら。さて彼は私だとわかってくれるのでしょうか?
「えっ、もしかして大石さん?」
途惑った声がそばから聞こえてきました。視線をコーヒーのグラスへと向けていたのを、彼へと移しました。驚いたように目を見開いています。そのまま立ちつくしているので、私は言いました。
「座らないのですか?」
「あっ」
彼は慌てて座りましたが、まだ驚きから覚めないみたいです。口をまたポカンと開けていますから。
ふふっ。どうやら『綺麗になって』という部分は、大成功のようです。