33 タクシーの行き先が……違う
歌舞伎を観終わって興奮した状態の私を、富永氏は苦笑気味に見つめていた。
早めに着いたことで、資料館を出た後、公演のパンフレットを先に手に入れて演目の予習ができたのよ。これが何も知らないで観るのと、少しでも知っていて観るのとでは大違いだったの!
あと、席が……桟敷席でした。それもお弁当も予約してあったとかで、幕間に届いていたのよ。お茶もあって、こんなに致せり尽くせりでいいのかと思ってしまったわ。
大変満足して歌舞伎座を後にした。このまま富永氏の部屋に戻って、お泊りバッグを取ったら家に帰れると私は思っていたの。なのに、タクシーが向かった先は、なぜか富永氏の実家だった。
「えっ? なんで」
呟いたら、富永氏が「言わなかったか」と言った。
「何も聞いていませんけど」
「ああ、そうか。幕間にメッセージが来ていたんで母に連絡したら、終ったら家に寄れと言ってきたんだ。席に戻ったらすぐに演目が始まってしまい、伝えそびれたんだな」
本当か? と、疑いの目を向けたけど、富永氏は真面目な顔で「悪いな」と言った。どうやら本当のことみたいだ。というか、春菜さんが呼ぶということは何か起こったのだろうか?
そこで私はハッとなった。今更気がつくなんて遅すぎると思いながら、富永氏に言ってみる。
「あの課長、昨日言っていましたよね。今日は何か用事があると。私につき合って出かけることになってしまって、大丈夫だったのですか」
玄関の扉前での私の言葉に、富永氏は少し思案した後、唇の端をあげて苦笑を浮かべて答えた。
「ああ、心配ないぞ。用というのは母からの呼び出しで、多分これに付き合えということだったんだろう」
これと指さしたのは、歌舞伎座で買ったお土産の袋。佃煮と金平糖が入っている。
もしかして春菜さんは息子と出掛けるのを楽しみにして、チケットを取ったのかもしれない。そう思って顔色を悪くしただろう私の耳に、ため息交じりの富永氏の声が聞こえてきた。
「父が行けなくなったからって、息子を引っ張り出そうとするのはどうなんだろうな」
……あら。富永氏は代理で付き合うことになるところだったのね。あれ、でも?
「急に来るなと言われていませんでした?」
「大石を連れて行くと連絡しなかったことに、文句を言われたぞ」
……そう言うことでしたか。