144 富永氏は……富永さんじゃない
富永氏は私が言いかけた言葉に心当たりがついたらしく、眉を寄せた。
「それはあれか。俺の本当の出自を隠すためだろ」
「あー、わかりました? 富永さんは、今は春菜さんの母親の旧姓を名乗っていますけど、本気で調べられたら『富永克明』という人物は、この会社にいないってわかりますもの」
もろもろの諸事情により、富永氏が本当の名前を名乗っていないことは、不正云々の話から富永氏に断罪役を決めた時に、私に説明がありました。
なので、2課で私が富永氏のことを観察していたのは、富永氏の本当の立場に気がついて近寄ってくる女性……だけではないですね。とにかく擦り寄る姿勢を見せる人物がいないかを、視ていたのです。
本当は冷や冷やものだったんですよ。女性に流した噂で、富永氏に興味を示す人物がどれだけ出るかわかりませんでしたから。結果はあの歓迎会以降、富永氏と接点が持てないことで、早々に諦める人が続出したんですけどね。
それも諦めざるを得なかったのは、大した用事でもないのに……というより、仕事上の用事でないことで2課を訪れ、富永氏にアピールしに来た強者がいたからなのですよ。だけどそんなことが富永氏に通用するわけがないじゃないですか。富永氏に冷たくあしらわれて、それから抗議がいったその人の課の課長に叱責されたそうでした。
「そこは大石に迷惑をかけて済まないと思う」
「いえ、事情が事情ですしよくある話だと思うので、全然迷惑ではありません」
そう答えたら訝しそうに私のことを見てきた、富永氏。
「よくある話か?」
「私が読む小説の中ではよくある話ですよ」
「小説かよ」
呆れられてしまった。小説ではなくてドラマと言えばよかったかな? 身分を偽る話ってよくあるよね。
「まあ、いい。それで、トラップはそれだけなのか」
「大きなトラップはその二つです。あとは彼らを含めた2課の人がどう動くのかを、観察するだけでした。でもまさか、私が休んだ間に動きがあるとは思いませんでしたね。私が休んでいる間は何も連絡がありませんでしたから、本当に昨日のメッセージには驚いたし焦りました。秘書室長に文句は言いましたけど、先ほどのことを踏まえると言い足りないです」
「それは俺に任せろ。あとで親父たちが引くくらい文句を言ってやるから」
富永氏のことを多分キラキラ(?)の目で見つめたと思う。富永氏もまんざらでもない顔をしたから。
是非とも室長及び重役の方々に文句を言ってください!
でも、凛香さんには言い負かされるだろうけど……。