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更に数日が経過し、ついにティアリーゼは部屋を出ることに決めた。
珍しくシュクルが様子を見に――もとい、遊びに来なかったせいもある。
(って言っても、勝手に外へ出ていいものかしら?)
扉に手をかけ、廊下に出てみる。
広い廊下には特に人影がなかった。見張りがいる気配もない。
本当に自分がこの城の主を殺しに来た勇者だったのかわからなくなりながら、ティアリーゼはあてもなく歩き出した。
初めてここへ来たときとは違い目的がないせいか、ゆっくりと城内を見ることができる。
魔王の城と言うのだからもっとおどろおどろしい場所だとばかり思っていたが、とてもそうは見えない美しい場所だった。
思えば、最初に外観を見たときも美しいと感じた記憶がある。
壁にも天井にも精巧な装飾が掘られ、開けた場所には絵が飾ってあることもあった。隅々まで掃除が行き届いているらしく、埃が積もっているようなところはない。
明かりとして壁にかけられた燭台にはすべて新しいろうそくが立てられており、もし今が夜だったら心強い照明となるだろうことを思わせた。
足を動かすたびにかつんと石の音が響く。聞こえるのはティアリーゼの足音ばかりで、他の物音は聞こえない。
しいて言うのなら、窓の外から聞こえる風の音だけだろうか。
しばらく歩いた後、ティアリーゼは足を止めた。
ちょうど曲がり角で鉢合わせたのは、初めて見る亜人。
「……あの」
ためらいがちに声をかけると、硬直していた亜人が肩を震わせた。
頭の上から覗く三角形の耳は二つ。ティアリーゼより頭ひとつ分小さく、短い毛の尾がぴんと立っている。どうやらネズミの亜人らしい。シュクルとは違い、考えていることが思い切り顔に出ている。
「別にあなたを怖がらせたいわけじゃないの。だから、あの」
「ににに、人間……」
「そう、人間だけど……ええと、悪い人間じゃなくて」
(近付かない方がいい、のよね?)
話をしたいだけだったティアリーゼは、それ以上警戒させないように後ろへ一歩下がる。
「ちょっと散歩をしたかったの。できればこの城にいる人と話をしたくて」
「……人間が私たちとなにを話すつもりです?」
「世間話……とか……」
「…………本当に?」
「ここでおかしなことをするつもりはないわ。なにかしたって、こちらは私一人で、あなたには仲間がたくさんいるでしょう? すぐに捕まえられちゃうと思うの」
「それはそうかもしれませんが……」
こくり、と息を呑んだのはティアリーゼか、それともネズミの亜人か。
次に口を開いたのは亜人の方だった。
「……私を食べたりしませんか?」
「た、食べる?」
「だって人間は恐ろしい生き物だって」
(……ああ)
怯える姿を見て、逆にティアリーゼの頭が冷めた。
自分たちが亜人を危険な存在だと思っていたように、彼らもまた、人間を恐れている。
「食べたりしないわ。あなたが私を食べないならね」
「……人間なんて食べません」
むっとしたように言われて、ティアリーゼの頬が緩んだ。
まだ感情表現をしてくれる分、シュクルよりこの女性の方がわかりやすい。
幾分、警戒を解いてくれた気配を感じ、ティアリーゼは引いた足を再び前に踏み出した。
向こうはもう逃げない。
「私はティアリーゼ。いろいろあってここでお世話になっているの」
「……メルチゥと言います。ここのメイドです」
「そうなのね。じゃあ……シュクルに雇われているってことなのかしら」
「王の御名を口にするなんて畏れ多い!」
「えっ」
メルチゥが慌てたように辺りを見回す。
落ち着かないその様子はいかにもネズミらしく見えた。
「いけませんよ。他の誰かに聞かれたら怒られます」
(怒られるだけで済むんだ?)
「……本人は気にしてなかったみたいだけど、それでもだめなの?」
「本人?」
丸い目を更に丸くすると、メルチゥはティアリーゼの頭の上から足の先まで見て絶句した。
「じゃあ、あなたが王妃様ですか!」
「ちょっ、ちょっと待って。なにって言った?」
「すみません、私としたことが王妃様に失礼をしてしまいました。どうかお許しください」
「いいの、とりあえず落ち着いて」
(……あの人、私のことをどう紹介してるのよ)
シュクルはティアリーゼに求婚紛いのことをしている。その調子で他の者にも紹介しているのだとしたら、これはとんでもないことだった。
「誤解されてるみたいだけど、私、あの人の妻になるつもりはないのよ」
「えっ、でも……」
「……本人に言ってもらった方が早いのかしら。シュクルの部屋はどこ?」
再び名前を出したことで驚いたのか、メルチゥがびくっと反応する。
「王の居室でしたら……こちらです」
足早に歩きだしたその背中を追いかける。
一度は警戒を緩めてくれたのに、またメルチゥは心を閉ざしてしまっていた。
(ちょっとずつこちらの人と仲良くなれたらいいんだけど)
亜人もまた忌むべき存在だと言われ、人を襲ったという話を聞くたびに心を痛めてきた。しかし、魔王がシュクルであったのと同じように、ティアリーゼの目の前にいるのはただの人でしかない。獣の耳と尾を持っているという違いだけで、日ごろ接することのない存在に怯えるのは同じだった。
(私、なにも知らなかったのね)
メルチゥの後を続きながら、そんな風に考える。
勇者と呼ばれもてはやされ、自分には大きな役目があるのだと思っていたときには考えもしなかった亜人たちのこと。
戸惑いが完全にないわけではない。だが、ティアリーゼは目にしたものを受け入れようと心に決めた。