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ティアリーゼがここに来てはや数日が経った。
(……わからない)
気付けばティアリーゼの口癖までそれになっている。
それもすべて、白蜥の魔王と呼ばれる目の前の亜人のせいだった。
(この人、どうしていつも私の部屋にいるの)
シュクルは今日もまたティアリーゼの部屋で勝手にくつろいでいる。
勝手にベッドで寝ようとしたときはさすがに止めたが、やたらめったら慣れ慣れしい。
常に緊張し続けているティアリーゼとは違い、シュクルは無防備に背中を晒したり、ときどき昼寝をしたりと本当に好き放題過ごしていた。
「あの」
なにか話しかけようとすると、ぺちぺち床を叩いていた尻尾の動きが止まった。
次いで、シュクルがこちらを振り返る。
「なにか?」
「それはこっちの台詞なんだけどね」
「わからない」
「ああ、うん……」
(私にはあなたの方がわからないんだけど)
「あなた、私をどうしたいの?」
ティアリーゼがここへ来たのは、シュクルを殺すためだった。
それが人間のためになると教えられ、育てられてきたからだ。
しかしどうやら父や周りの者が言っていた魔王の像とシュクルが重ならない。
人に仇なし、強引に土地を奪い、大陸を蹂躙する恐怖の存在――にはどうしても見えなかった。
今もシュクルは窓の外を舞う蝶を目で追いかけている。
「どうしたいとは」
「私がどうしてここに来たのか、忘れたわけじゃないわよね?」
「その理由は消えたはずだ。お前は人間に裏切られた」
率直な物言いにティアリーゼの胸がつきりと痛む。
そう、自分は裏切られたのだ。
勇者とは名ばかり。甘言で育てられた姫は、なんの疑問もなく魔王のもとへ送られる。
人間のために、供物として。
(私を捧げるからタルツの繁栄を、と言っていた。……だったら最初からこんな育て方をしなければよかったのに)
なにも知らないまま、ただ供物として存在させてくれればよかったと心から思う。そうすればこの状況にこれほど疑問を抱くこともなかっただろう。
「……私を戦えるように育てたのは、あわよくばあなたを殺してくれたらってことだったのかしら」
「わからない」
「それはそれで都合がいいものね。……心変わりしたのは、想像していたよりあなたが強く見えたから?」
「わからない」
「……そうね、ごめんなさい」
律儀に答えるところがまた、シュクルの憎めないところだった。
彼は亜人らしく人間より獣に近い。ときどき会話が噛み合わないのはそのせいだろう。
(お兄様は知っていたのね、きっと。だから勇者として育つ私を馬鹿だと言っていたんだわ)
知らず、手を握り締めていた。
勇者でなく、ただのティアリーゼであればいいと願ったことは何度もある。なのにまさか、こんな形で知ることになるとは。
溜息を吐いたティアリーゼを見て、シュクルは首を傾げた。
そうした仕草もまた、獣に見える。
「殺してやろうか?」
「えっ」
「お前を裏切った人間を殺してもいい。国を滅ぼす方がいいなら、それでも」
「なにを言っているの」
「私はお前の望むことをしたい」
しゅうしゅうという蛇に似た鳴き声が聞こえた。
数日過ごしてわかったのは、シュクルがなにかしら感情の高ぶりを見せているときにこうやって喉を鳴らすということ。
今も、表情に出ていないなんらかの感情が高ぶっているらしい。
床をぱたぱた叩く尾もそれを告げていた。
「……それはこの間の話と関係があるの?」
「いかにも」
真顔で頷かれ、ティアリーゼは額に手を当てた。
先日、シュクルはティアリーゼに言ったのだ。
子供を産んでほしい、と。
あれきり、勝手に部屋に入ってきたり、ベッドに潜り込もうとしたり、なにかと付きまとってくる以外にそれらしい素振りを見せなかったが、どうやら本気だったようだ。
額を押さえたまま、ティアリーゼは言葉を選ぶ。
彼は人間ではない。同じ生き物ではないから、伝えたいことも伝わらないことがある。
「私、あなたにそんなことを言われる覚えはないわよ」
「私に触れた」
「……それだけで求婚するのはどうかと思う」
「わからない」
「ああ、もう」
本当に、純粋にそれだけが理由なのかもしれなかった。
だが、ティアリーゼにはまったくわからない理由である。
「あなたたち亜人は、尻尾に触るのが求婚を表す、とかじゃないわよね」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
やはり律儀に答えると、シュクルはぺたりとテーブルの上に突っ伏した。
顔色を窺うようにティアリーゼを見て、尻尾だけ嬉しそうに揺らす。
「私はお前が好きだ」
「だから、それがわからないの」
ものすごく好意を向けられているのはティアリーゼにもわかる。
尾に触れただけでこんなことになるとは思わず、対処に困ってしまった。
「残念だけど、あなたの気持ちには応えられないわ」
「そういうこともある」
(諦めが早い……)
どうにもついていけないシュクルのことを考えるのはもうやめておく。
ティアリーゼが考えなければならないのは今後のことだった。
「……少なくともあなたを殺すつもりがない以上、私は勇者ではないのよね。というより、最初から偽物の勇者だったわけで」
「困りものだな」
「……そうね、困りものね」
シュクルが顔を上げてティアリーゼを見つめる。
今、椅子はシュクルに譲ってしまっていた。ベッドに座るティアリーゼのもとに、そろそろとシュクルが近付いてくる。
そして、許しもなく勝手に隣に座った。
しゅうしゅうという鳴き声が微かに聞こえる。同時に、忙しなく動く尻尾が視界の隅をかすめた。
「ここにいてはいけないのだろうか」
「……普通はいけないと思うけれど。あなたはいいの? 私、人間なのに」
「我々は同じものだ。獣の本性が表面化しているかいないかの違いにすぎない」
「あなたはトカゲが出てきちゃってるわけね」
「トカゲではないと言っているのに」
そう言って、シュクルは勝手にティアリーゼの膝に頭を乗せようとした。
さっとどけたことで膝枕は失敗に終わる。
残念ながらシーツに転がる羽目になったシュクルは、懲りた様子もなくティアリーゼにすり寄った。
「……まあ、確かにトカゲより猫に近いかもしれないわ」
(だからどうも憎めないのよね)
ティアリーゼの敵で、人間の敵だったはずの魔王。
それがこんなにも気の抜けるトカゲだと誰が知っていただろうか。
(本当にどうしようかしら)
結局、この日もティアリーゼの今後は決まらなかった。
なにをするべきなのか、どうするべきなのかわからないまま、またここで日々を過ごすことになる。