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(いったい、なにが起きたの)
ティアリーゼは暗い独房の中で考える。
あの日、兄に勧められた紅茶を飲んだことで意識を失い、目覚めたときにはここに囚われていた。
手足を拘束する鎖は現実のものと思えないが、そのぞっとするような冷たさが夢ではないのだと伝えてくる。
遠くから聞こえるのは滴る水の音ばかり。
近くに他の罪人はいないらしい――。
(――罪人)
心の中で、噛み締めるように呟く。
そう、今のティアリーゼは罪人だった。
兄の最後のあの言葉。「人間の裏切り者」というあれがすべてを物語っている。
(最初からこのつもりで)
結婚式の準備が共有されなかった理由。
そして父との会話で感じた違和感。
(タルツのために尽くしてくれるな――。あのとき、お父様はそう言ったわ。人間と彼らのために生きたいと言った私に対して、あの言葉はおかしいと思っていたけれど……)
じゃらり、と鎖が耳障りな音を立てる。
(……レレン。あなたは自分の仕える人間がそうだと知って、この国を去ったの?)
教えてくれなかったことを恨む気にはなれない。
常にティアリーゼと線を引いていた教育係は、なにかと優しい面もあった。
ティアリーゼが家族を想う気持ちを知っていたからこそ、なにも言わずに去ったのだろう。
しばらく、ティアリーゼは呆然と暗い天井を見上げる。
ゆるゆるとやってくる悲しみと絶望。
こんな気持ちには覚えがあった。
(どうして……)
かつて、ティアリーゼは同じことを思った。
勇者だとまつり上げられ、仲間と共に魔王のもとへ到達したあの日。
魔王であるシュクルに頭を垂れた仲間たちを見て、そう思ったのだ。
(私は、また騙されていたのね……)
頬を熱いものが伝っていく。
最後にそれを感じたのは、もっとずっと昔だった気がした。
勇者ではなく供物だったと知ったときですら涙を流さなかったのに、二度目の今、はらはらと流れるそれを止められない。
ティアリーゼは家族を、人間を信じていた。
兄とわかり合えたのだと思っていた。
父に娘として必要とされ、認められているのだと思っていた。
――すべて、違っていた。
(そうまでしてあの人たちを滅ぼしたいの?)
シュクルをはじめとした、多くの亜人たち。
獣の特徴を持った彼らより、人間の方がよほど『獣』じみている。
うつむいたティアリーゼはしばらく嗚咽を漏らし続けた。
囚われた手では自分の涙さえ拭えない。
今、無性にシュクルに会いたかった。
愛おしげに触れてくるあの手に、撫でてもらいたかった――。
「――ティアリーゼ」
突然名を呼ばれ、はっと顔を上げる。
一瞬の期待はすぐに打ち砕かれた。
自分を見下ろす冷酷な兄の瞳。似ていないと言われ続けた二人が互いを捉えて見つめ合う。
足音に気付けなかったのは泣いていたからだろう。
そんな自分を恥じるように、ティアリーゼは唇を噛み締めた。
どんなに侮蔑の眼差しを向けられようと、決して視線は逸らさない。
「私を裏切り者だと言うのなら、早く処刑でもなんでもすればいい。なぜ、今も生かしておくのですか」
「魔王を呼び出す餌にする」
ぞ、と冷たいものが背筋を走り抜けた。
ティアリーゼがこんな状況だと知れば、シュクルはきっと来てしまう。
「そんなことをしたところで……。……あの人は魔王です。下手に怒りでも買えば、なにがおきるか――」
「脅そうとしたところで無駄だ。俺たちは魔王と呼んできたあの獣が、不完全で弱い生き物だと知っている」
「……え?」
「お前に『虫』を付けていたんだよ。こうやって」
檻の向こうからエドワードが手を伸ばす。
ティアリーゼの髪を掴み、乱暴に――撫でた。
「虫、という……のは……」
「遠くの言葉を聞くための便利な道具だ。もっとも、気候が合わなかったのかすぐに壊れたようだが」
(遠くの言葉を? ……まさか)
「シュクルが私に話してくれたことを盗み聞きしていたのですか……!」
以前、ティアリーゼは一度だけタルツに戻った。
そして再びシュクルのもとへ舞い戻った夜、大切な秘密を聞かされたのだ。
生まれた瞬間から不完全で、家族にその存在を認めてもらえなかったこと。だから人間としか子供を作れないこと――。
「お前に言っただろう? 協力してもらう、と」
「……っ、なんてひどい……!」
「ようやく俺の役に立ったな、ティアリーゼ。ありがとう」
笑う兄は別の生き物に見えた。
言葉を失っていると、檻の扉を開けられる。
「もしも魔王が来るならそろそろだ。一人で死ぬか、魔王と共に死ぬか。後者なら幸せだな?」
荒っぽく引っ張り出され、痛みにうめき声を上げる。
(来ないで、シュクル)
それだけを願いながら、乱暴な扱いに抵抗した。
(お願い、来ないで)
どんなに願っても、ティアリーゼはシュクルが来てしまうことを知っている。
そして、そうなれば殺されてしまうだろうことも――。
(私を助けようと思わないで……)
血の味が滲むほど唇を噛み締めた。
それで未来が変えられるなら、どれほどよかったか――。




