少女は殺した
硫酸。
硫酸である、あの溶けるやつだ、それを水槽に入れ、元あった水と入れ替える形で満たしていく。あのゾンビをゾンビたらしめるものはどうやらウイルスらしい、宿主が死ねばウイルスも死滅する。アルコールじゃ駄目なのか、とは思ったが、まぁ駄目だろう、彼らは宿主を操って移動する、殺菌するにもまず宿主の殺傷だ。
「どうしてこんな事になったんでしょう」
『施設外に出られなくなった彼らは生きながらえる術を整えると共に、脅威への対抗手段を探っていた。地下にこもる理由は数あれど、最も大きいのは"ここが安全だった"から。外に出るためには戦う力が必要だった』
それの取り扱いを間違えた結果がこの有様、という事だろうか。広間での戦い以外にも貯水槽へ辿り着くまでに何度か接触したが、破壊衝動しか持っておらず、にも関わらず同族には反応していなかった。ステレオタイプのゾンビそのものである、であるなら、噛みつかれた時点で自分もあんな風になってしまう。
なるほど確かに、野放しにしたまま自分が逃げる訳にはいかない、地上に放たれればコレラや結核、マラリヤなんかが裸足で逃げ出す大惨事が起きるに違いない。
「そんな事しなくてもロボットとか作ればいいのに……」
『普通はそうなんだけど、ね』
目にはゴーグル、口と鼻にはガスマスク、意図的にコーホー言いながらありったけの硫酸を水槽に入れ終え、蓋を閉めた後、水槽から離れた。
水槽は施設中に張り巡らされたパイプを通してスプリンクラーへ繋がっている、今頃はゾンビ達を溶かしているだろう。
『そこにも理由がある、戦うのはあくまで人間でなければならなかった』
「ふぅん……」
『その施設もアナログで済む部分はできる限りそうなってる。あなたのコフィンにアクセスするのも本当に苦労した、気付かれないようにしなきゃいけなかったし……や、それはいいや。外に出て、硫酸を撒いてないルートで出口まで誘導するから』
ノブをひねってドアを開け、そこでゴーグルとガスマスクを脱ぎ捨てる。水槽室に隣接した通路はスプリンクラーが作動しておらず、来る時に倒したゾンビの死骸があるのみ。小走りに駆け抜けて、次の部屋に入ってからドアを閉めればすぐ、硫酸の噴出する音がした。
「それじゃそろそろ、あなたの名前を聞いていいですか?」
『え……』
「自分の名前はどうしても思い出せませんが、まず聞いておきたいなって」
『あの…実は私も名前なくて……』
施設内を縫うように移動して出口へと向かっていく、かなり広いこの場所は大部分が後から増築したものらしく、やがて壁の色が変わった。
「あら、じゃあ付け合いっこしましょ」
『えぇ……そんな中学生のニックネームみたいな……』
「アステル!」
『しかも早い……』
総計して8個ほどのドアを越えた後、緩やかにずっと先まで続く登り坂が現れた。横幅5m、車両の移動に使っていたらしいレールが残されている。
『んと……』
「登りきる前に、思いついてくださいね」
このまま一番上へ、と考えたが、まだ生きている1体の気配を捉えた、引きずっていたバスタードソードを前へ。
生前は若い男性だったようだ、それが判別できる程度に原形を留めている。彼が最後の1人だったのだろう、いや最後の1人は自分だから…なんだろうな。
「ァ……」
もはや理性は無い、白内障にかかったような眼を向けてくるや急加速、手を振り上げて、
「ァーーッ!……ぁ……」
襲いかかる前に首を飛ばされた。
一思いに剣身を払えばそれで終わり、どさりと床に倒れ伏す。振り終え床に落ちた切っ先の金属音が収まった後に死骸をじっと見、色々思いはしたが、口には出さず目を上に向ける。
『とりあえず…扉の操作コンソールがあるはず、ネットワークに繋がっていないから私は操作できない』
「はい」
終点にあったのは分厚そうな鉄の扉だった、明らかに長い間、少なくとも10年は開いていない。円形のそれには何も付いていなかったものの、壁に埋め込まれたボタンがふたつだけあった。軽い気持ちで開閉できるものではない、物理的な鍵と電子的なパスワードロックが両方付いていた、が、何故かそれは既に外されている。
付け加え、"いつか来るかもしれない奇跡の為に"という切り書き。
「決まりました?」
『ん……じゃあ、はい、決めた』
またそれをじっと見て、話しながらおもむろに手を伸ばし
『鈴蘭』
指で一番奥まで押し込んだ。




