残響
人は忘れることができない。忘れたことでさえ忘れることが、私の定義するそれだ。忘れられない。忘れることは覚えることよりもずっと、とてつもなく難しいことだ。
例えば殴られたときの恐怖とか、痛みとか悲しみ。怒りでもいい。対照的な幸せとかも、忘れることができないのだろう。愛された記憶だって例外なく。その事実に、記憶に、何度打ちのめされてきたのか。
体が痛いと、ぼんやりと思う。私の血液だけがあつい。息をする度に骨が軋む。アドレナリンのせいか冷静だ。恐怖はなくて悲しみも怒りもない。痛みだけがここに残響している。立てない。壁に身体を預けて、靴の散乱した玄関を見ている。踏みつけられた白のスニーカーを。瞼を閉じれば母親の背中。いっそ、ころしてくれたなら。
『あいして』
気が狂っていた。私が。メッセージアプリに叩きつけた4文字。その文字を叩きつけるべきは、きっと彼ではない。いい迷惑だと思っているのだろうか。そう思っていてほしい。どうか撥ねつけてくれと。
──産まなきゃよかった、
ひゅ、と息が詰まる。私を一通り殴り終えた母の言葉。私も、あなたのところには生まれたくなかった。なんて呟く。誰もいないここで。
玄関のチャイムが鳴る。立てない。から、そこまで行けない。吐き出した白い息を眺める。そしてもう一度、控えめに呼ばれた。鍵は開いていた。母は鍵を持っていないから。
三度目の呼びかけはなく、遠ざかる足音がこれみよがしに響く。たすけてと叫んだら、扉を開けて救急車でも呼んでくれただろうか。今ここで死にたいのに、彼に会いたいと思う。撥ねつけてほしいなんて思っているのに。何故なのか、私は知らない。知らない振りをしている。
──愛がほしい。
億劫になって目を閉じた。階段の踊り場。まぶたの裏に映る私は抱きしめられている。愛がほしいと言ったのは私だった。愛されたいと願ってしまった。彼があまりに真剣に、私を好きだと言うから。優しく私を包むから。悲しいくらいに彼が、暖かかったから。
「…………ゆき、な、」
苦しい。胸が。心臓の内側が。
「────っ、愛!!!」
扉が音を立てて開いた。差し込んだ冬の陽と共に、誰かの色素の薄い髪が煌めく。まばゆいその姿は救世主のようだった。ヒーローのようにも見える。寒さのせいか赤い顔と、大きく見開かれて揺れる、髪と同じ色をした瞳。私の惨めな姿を見て、なんでと唇が言葉をなぞったのが分かる。ヒーローは悲しそうに、それでも憤りを感じているようだった。まるで噴火前の火山だと、漠然と思う。
「誰に殴られた?」
噴火を無理矢理堰き止めたみたいに、絞り出された声が問う。答えるつもりは全くと言っていいほどなかった。いつもはそれを許してくれる彼も、きっと今は許してくれないのだろうと、分かってはいる。でも、それでも私は首を振った。
私を殴った母さんを庇っているわけではない。これは同情だ。私より惨めで、憐れな母さん。1人目の旦那に棄てられて、2人目の旦那を棄てて、3人目の旦那ではない誰かに、きっとまた棄てられた。首を絞められたって、抵抗する気にもならなかった。なれなかった。いつもより酷く殴られたとしても。
顔は腫れているのだろうし、口の中は鉄の味がしている。腕も足も使い物になる気がしない。制服だって、私の血で汚れている。
彼はそんな私から、目を離さなかった。少し泣きそうだ。答えてくれと瞳が訴えている。吐き気をこらえて首を振った。幸せな家庭で育つ彼に、聞かせたいものではない。
「…………」
「愛?」
痛みに顔を歪めながらも、右手を差し出す。抱きしめて欲しかったのかもしれない。あのときのように。けど、私の血で彼が汚れると躊躇った。ヒーローを汚してはいけない。意図を理解しない彼の眉毛が、下がったのが分かる。手は下ろした。
汚れて欲しくないと思う。汚れてしまうくらいなら、思い出だけに縋って生きていく。父の背はもう思い出せない。きっと彼で上書きされてしまった。
「ゆきな」
きっと今、頬を濡らしているのは血液ではない。こんなにも目頭が熱くて、目の前にいるはずの彼が薄まっていくのだから。さみしいと喉が震えた。欲しいのは殴る母でも私を置き去りにする父でもない。堰を切ったように嗚咽が溢れる。
「──あいして……っ」
彼の表情は見えない。見えなくていい。こんなに惨めな私を見る彼なんて。彼の気持ちなんて。優しい彼は私以上に傷ついて悲しんでいるのだろうから。
「おねがい、」
抱きしめて、どうか、背を向けないで。
──ねぇ、雪名。