4、葦田とアシカ
「……お姉ちゃん。た、ただいま」
「ああ、おかえり」
あの日以来、私は天気に関係なく路上ライブをしなくなっていた。
理由はうまく言えない。ただ、あの日からあの場所に足が向かなくなった。
放課後になると、真っ直ぐ家に帰って夜勤に行く両親を見送って妹の帰りを待つ日々。
作詞作曲をする代わりに課題に時間を費やし、授業にだってついていけるようになっていた。
学生として、きっと一番正しい、模範的な日々を送れていると思う。
「……お、お姉ちゃん」
「なに」
「……いや、何でもない……あ! 今晩のメニュは? お、お腹空いたな〜」
ああ、何度目だろう。最近よく妹や両親から何処か困った顔をされる。
なんでそんな顔するのよ。
「魚の煮付けだよ」
私がメニューを教えると、妹は頬の引きつった嬉しそうな顔をしてわーいなんて言いながら食事の準備を始めた。
「お姉ちゃんも食べる? まだでしょ?」
「いや、いい。なんかお腹空かなくて」
そう、空腹感というものを感じない。どこか常に満腹感に似たものがあって、とても更に胃に何かを入れる気にはなれない。
妹に、『じゃ』とだけ言って部屋に籠って課題を始めると、今度は物足りなさに襲われた。
息抜きに机から顔をあげた時、視界の隅に映るギターを無視し続けることが習慣になりつつあった。
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「……葦田」
「ん? 石田、どうしたの?」
路上ライブをしなくなって2週間。その日私は食べ終えた弁当箱をしまおうとしていた。
そんな時、最近の家族と同じような顔をした石田が声をかけてきた。
「ちょっといいか?」
彼はそう言って、遠慮がちに教室の外を指さした。私はそれに黙って従った。
教室を出て、人気のない所まで行くと立ち止まり、しばらく彼は無言で俯いたまま。こっちが困ったくらいだ。
「何よ、用事があるなら早く言ってよ」
しびれを切らした私がそう声をかけると、彼は意を決したように顔をあげた。困った顔は、苦しげな顔に変わっていた。
「……行けよ」
「え?」
顔こそはこちらを向いているものの、絞り出すような小さな声は、人気のないここでも辛うじて聞き取れるレベルの大きさだった。
と、思った刹那。感情が爆発するように彼は真剣な顔をして、急に大きな声を出して言った。
「だ、だからっ!路上ライブに行けって言ってんだよ!」
「大声出さないでよ。てか、もう辞めたからいいのよ。石田だって反対してたじゃん。そもそも石田には関係ないしさ」
そんな彼に私はおどけた顔で反論した。そして自分でも分かった。表情筋が上手く働いてくれない。そんなはずはないんだけど。
「ああ、関係ねえよ。でもさ、なんでそんな死にそうな顔をしてまでここに来てんだよ。なんでそれで辞めたなんて言えるんだよ。どう見たって未練しかねえじゃねえか。あの時は悪かった。言い過ぎた。ただ、いつもの感覚で、すぐに言い返してくると思ってたんだよ。だからまさか……お前があんな顔するなんて、思わなかった」
勢い任せに言い切った彼は、再び顔に影を落とした。私のせいで、後悔してるらしい。
「あんたこそそんな顔しないでよ。私は辞めた、それだけなの。それに、死にそうな顔なんてしてないから。石田が勝手な解釈してるだけよ。だから、気にしないでよ」
話は終わりと告げる代わりに、私は踵を返した。が、再び人が多い所まで戻ったところで彼が追いかけてきて、『待て』という言葉とともに手首を掴んだ。
私が驚いて振り払うと、さっきと同じ、真剣な顔をした彼に気づいた。
「き、気にするんだよ、俺がっ。頼む、1度だけ、今日だけでいいからまた歌ってくれ。もう1度だけでいいから、あの馬鹿みたいに楽しげなアシカの歌声を聴かせてくれっ! 頼む」
その言い方は、お願いという生易しいものじゃなかった。私に訴えてきていた。私はその勢いに圧倒されるばかり。
突っ立ったままの私が何も言わないからなのか、石田はもう1度『頼む』と大きな声で訴え、頭を下げた。
「ちょ、石田!?人が見てるから……」
男女が何やら騒いでいる。こんな光景は、昼休みの廊下では噂への格好の餌だ。
そこら中に溢れる学生は皆、チラチラとこっちを見ている。
「頼むっ!」
こんな状況、当然耐えられるわけがなかった。
「もう、分かった。分かったから早く頭をあげてよ」
「本当か!? あー良かった。じゃ、必ずいけよな!」
「え、あ……うん」
私が折れると、彼はすぐに顔を上げた。その顔には、真剣さも困惑もなかった。さっきまでのは芝居だったのかと、疑う程の清々しい笑顔を浮かべて立ち去った。
あれ、そう言えばあいつ。私のことアシカって呼ばなかった?




