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うちの娘には××癖があります  作者: 志月さら
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プロローグ

「もしも私になにかあったら、この()のことお願いね」


 突然、目の前に座る女性は穏やかな声でそう呟いた。

 肩に寄りかかって寝息を立てている娘の髪を撫でながら、まるで気軽なお願い事でもするかのように。


「いきなりなにを言い出すんですか?」


 そんなこと縁起でもない、と日向夏癸(ひゅうがなつき)は眉をひそめた。


「だって、こんなこと頼めるのあなたしかいないんだもの。ねえ、先生からの一生のお願いよ」


 からりと、彼女は明るく笑う。

 一生のお願いをされるのはこれで何度目だっただろうか。

 けれど、夏癸はその言葉が嫌いではなかった。彼女からされる『お願い』は、彼に心地良い結果をもたらしてくれることが多かったから。


「わかりました。でも、俺より先に死んだら許しませんからね」

「あら、ひどい。あなたよりいくつ年上だと思ってるの?」


 冗談めかした口調で彼女は言う。つられて、彼も僅かに表情を和らげた。

 十以上も歳が離れているが、彼女はまだ若々しい。けれど、死は突然、理不尽に訪れるものだということを二人とも嫌というほど知っている。


「……長生きしてくださいよ、茜ちゃんのためにも」


 穏やかな声で呟き、微睡みの中にいる少女――茜の無防備な寝顔をそっと見つめる。

 ふたつにくくった髪が電車の振動に合わせて微かに揺れている。毛先に緩い癖があるのは父親譲りなのだろう。腕の中にすっぽりと収まる大きさのぬいぐるみを大切そうに抱きかかえて、寝息を立てている姿はとても愛らしい。


「もちろん、早死するつもりなんてこれっぽっちもないわよ。でも、人生なにがあるかわからないでしょう? この娘を任せられる人なんて、あなたしかいないわ」


 なんて、勝手なこと言ってごめんね、と彼女は苦笑を浮かべる。

 夏癸は首を横に振った。彼女に頼れる身内がいないことはよく知っている。


「俺にできることなら、なんでも力になります」

「……ありがとう」


 女性は緩やかに微笑むと、愛娘の寝顔に柔らかな視線を向けた。その表情は慈愛に満ちている。

 彼女は女手ひとつで幼い娘を育てている。その苦労は並大抵のものではないだろう。

 かつて彼女が彼を救ってくれたように、今度は彼が彼女を助けたいと思っていた。

 そのための労力ならば惜しまない。

 小さな女の子と、娘のために懸命に働く彼女。二人を守りたい。その想いは彼の決意であり願いであった。夏癸ももう子どもではない。この母娘(おやこ)を守れるくらいの力は持っているはずだ。

 彼女への恩返しをしたいというわけではなく、ただそうすることが彼にとっては当然のことだと考えていた。


「ん、ぅ……」


 ふいに、茜が小さく身じろいだ。

 ぼんやりと瞼を開いて何度か瞬くと、ゆっくりと頭を起こした。


「……おかあさん」


 母親の袖をちょこんと引っ張り、もじもじと恥ずかしがりながら何かを耳打ちする。

 あらあら、と彼女は慌てたように目を丸くした。


「まだ我慢できる?」

「ちょっとなら……」

「じゃあ、次の駅で降りるから、もうちょっと頑張ってね」


 うん、と茜は小さく頷く。

 彼女はほんの少し申し訳なさそうに、手すりを掴んで立っている彼を見上げた。


「茜がトイレに行きたいっていうから次で降りるわね。夏癸くんは先に帰ってて」

「俺も一緒に降ります。荷物多くて大変でしょう、持ちますよ」

「……ありがとう、助かるわ」


 まもなく次の駅に到着するというアナウンスが聞こえてきて、電車が減速を始める。網棚の上に腕を伸ばして、載せていた紙袋を手に取った。


「ぬいぐるみも預かりましょうか?」

「そうね、お願い。茜、イルカさんちょっとだけ持っていてもらおうか」

「はぁい」


 茜は嫌がることなくぬいぐるみを袋にしまい彼に差し出した。大きく膨らんだ水族館のマスコットキャラクターが印刷されたビニール袋をしっかりと受け取る。

 電車が駅に到着した。娘の手を引いて、彼女は足早にホームを歩いていく。二人の後ろを歩いていた彼は、ふと視界に入った空へ見るともなく視線を向けた。

 夕暮れ時の空には、優しい茜色が広がっていた――。

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