6 夕刻
どうにもこうにも今回は上手くいかない。理由は明白で、今まで感じたことのない感情に振り回されているからだ。
無神経高橋に頼まれてやっていた作業が思ったよりも長引いて、すっかり暗くなった街は、ネオンと提灯に美しく照らされる。朝から降っていた雨が止んでいたので、そのあたりは幸運だったが、それを差し引いてもマイナスになる程に時刻は遅い。
急ぐことも特にないので、梅雨特有のじめじめとした空気の中、のんびりと家まで帰ることにした。
何となく手持ち無沙汰で、傘をくるくると回す。子供っぽいと思わなくもないが、上手くなると地味に楽しいし、癖みたいなものだから仕方ない。物理的に危ない癖だと思う。
「なあ、キミ可愛いね。俺たちと遊ばない?」
不意にそんな声がして、興が削がれた。傘を回すのを止めて、声のした方を見ると、ガタイのいい男たちが三人ほど、下賤な笑みを浮かべながら、一人の少女を囲っていた。ここまで判りやすい『クソ野郎』も今時珍しいな、と思う。
ヒーロー願望があるわけではないが、完全に見捨てられる程割り切れてもいないので、最悪の場合は割り込む前提で、一先ずは傍観を決め込むことにした。
「あの、困ります。もう家に帰らないと……」
「大丈夫だって。そんなに時間は取らないからさ」
「そうそう、それに絶対楽しいって。な?」
「でも……」
「いいから、さ。なあ、いいだろ」
少女が中々肯かないので、男たちの言葉に少しずつ苛立ちが混じる。
思ったよりもヤバそうだと判断して、なるべく穏便に割り込む準備をする。そう、穏便に済ませようと思ったのだが。
「お前さ、俺たちは遊んであげるって言ってんの。ふざけんなよ! お前は黙って俺たちの言うことを聞けばいいんだよ!」
男の一人が逆上して叫び、少女に手を伸ばす。
流石にアウトだ。
体を隙間に滑り込ませ、男の手を払い落とす。小さく呻く男と驚愕する仲間が口を開く前に、出来るだけ自然な演技をしつつ、第一声を発する。
「すみません、俺のツレが何かしましたでしょうか?」
「ああん? 兄ちゃん誰だよ?」
逆上男とは違う、一早く復活した一番背の高い男が怒鳴る。ツレって言ったのが聞こえなかったのかコイツ。分かりやすく言い直してあげよう。
「だからさ、俺の女が何かしたか?」
用がないなら行くぞ、そう続けようと思った矢先、先ほどの男がまた逆上し、言葉と拳を同時に振りかぶる。
「マジでふざけんなよ手前! 死ねよ! 割り込んできて彼氏宣言とは、ずいぶんと愉快なことするじゃねえか。邪魔だ、退かねえと殺す!」
その言葉は男にとっては、それこそ息をするように自然に出たのかもしれない。しかし、それをトリガーにして、俺の中で何かが切れた。
相手の拳を避けつつ、傘の柄を刃に見立て、逆上男の鳩尾に突きを叩き込む。
現代の格闘技など所詮スポーツだと思い知らされる、殺すことを目的とした実践的な戦闘技術の一つ『銃剣術』。
慣れてくると相手の生死は勿論のこと、怪我の有無も多少は調整出来るようになる。昔取った杵柄が、思わぬところで、望まぬ形で役にたった。倒れた男の胸倉を掴んで、無理矢理立たせる。
「『死ね』『殺す』、お前はそう言ったな!? あれはな、そんな軽い気持ちで言って良い言葉じゃないんだよ! あれはな、言った相手本人と、その身内の気持ちまでよく考えてから、覚悟を持って漸く言える言葉なんだよ!」
心からの叫びだった。大切な人を失った経験がない者が、軽々しく口にする『死ね』という言葉が、俺は絶対に許せなかった。何だから正義感等ではなく、衝動で体が動いた。
男の胸倉を放し、ゴミを見るような眼をしたまま言い放つ。
「往ね」
短い言葉だったが、以外にも効果覿面なようで、彼らはビクッと体を震わせて、逆上男以外の二人が無言で逃げ出す。一拍遅れて逆上男が、呻き声を漏らしながら去っていった。
男たちが去り、怒りで燃えていた心が一気に冷める。
やりすぎた。武器対等の原則を無視した、明らかな過剰防衛だった。あの男たちが警察に行く可能性は限りなく低いので、そちらの方は問題ないが、冷静でなかったことは確かだ。
軽い自己嫌悪に陥っていると、今まで静かに壁際で震えていた少女が口を開く。
「……マリユス、君?」
「華蓮?」
よく知る少女の澄んだ黒眼を、自分の濁った碧眼の中心に映し、思考がフリーズする。どのくらいの間そうしていたのか正確には分からないが、暫くすると華蓮は顔を赤らめて目を逸らした。
華蓮が目を逸らすと同時に、俺の凍結も溶ける。やや動揺の残ったままの頭で考えた言葉を、原文そのままで口に出す。
「あんなことがあったんだ。華蓮が嫌じゃなければ家まで送ろう」
整理されていない不格好な台詞を聞き、彼女は一瞬、キョトンとした顔をする。そんな無防備な華蓮を見て、守ってあげなければ、という思いが強くなる。数秒たって俺の意図を理解した彼女は小さく頷く。
「お願い、します」
こちらも頷きを返し、歩きだそうとしたのだが、華蓮に待ったをかけられる。未だに小さく震えながら、俺の服の端を引っ張る姿には、初めて見た時に感じた凛とした印象は面影もない。それすら心のどこかで可愛いと感じてしまう、この数ヶ月で著しく浸食した自分の恋愛脳に戦慄しつつ、「どうした?」と尋ねると、目の前の少女は小さな声で答える。
「手を繋いでもいい? まだ、怖いから」
拒む理由はないので、黙って手を取る。どこか体が熱く感じるのは、激しく動いたせいだろう。
しかし、女の子の手というものは、誰もがこんなに小さいのだろうか。生憎と比較対象は持ち合わせていない。右手で握った彼女の左手は、もう少し力を入れるだけで折れてしまいそうで、とても脆く儚いものに感じた。
今更ながら、俺は勘違いに気が付いた。
彼女は、美人で秀才で運動神経抜群で優しいけれど、決して完璧ではないのだと。
「ねえ、マリユス君、質問してもいい?」
暫く無言で歩いていると、華蓮が不意にそんなことを言ってきたので、俺は首肯を返す。
「マリユス君――なんで、そんなに寂しそうな眼をしているの?」
心臓がドクンと音をたてて跳ねる。言葉の意味は、何故かすぐに理解出来た。
「初めて会った日から、勿論今日も、いつもその眼をしてる。真面目に授業を受けている時も、私や先生と話をしている時も、人を避けるように隅にいる時も、貴方は絶対に人と目を合わさない。ううん、目が合ったとしても、別の場所を見ているみたい。」
答えられなかった。俺は曖昧な笑みを浮かべつつ、華蓮の手を少しだけ強く握った。彼女は抵抗も追及も一切せず、ただ手に力を込めた。
右手に温もりを感じつつ、「自分は弱いな」と再認識した。