壱 遺伝
明治時代中期の某日。少年マリユスは朝一番から父親の自伝を聞く羽目になった。朝食を噛みしめることによって、ようやく覚醒してきた頭では、何故こうなったか推測するのも困難だが、おおよそ寝ぼけて変なことを口走ったのだろう。
不毛な考察は打ち切り、「まあいいや」と楽観的に臨むことにする。別に感想を求められる訳でもないのだから。
「さて、何から話そうか」
マリユスの父親ジャックは、ワイン片手に椅子に腰掛ける。朝から酒を持っているのは、吸血鬼のため、太陽と真逆の生活を送っているからだ。寝る前の飲酒は何もおかしくない。
「学校があるから短めの話でお願い」
問いかけではない口調だったが、一応答えておく。それを聞いてジャックは語り出す。
「俺がヴァンパイアハンターから逃れて日本に来たのは、明治三年のことだ。
来た理由は実も蓋もない言い方になるが、キリスト教の力が及ばない場所まで東へ東へ移動して、その結果偶然ここについた訳だ。だとしても本来は定住する必要は無い。今までは放浪生活だったし。人間の視点に立つと猟奇殺人犯かつ通り魔になる……唯の食事なのだが。
そんな俺が変わったのはお前の母さん、つまり千代子に出会ったからだ。いつも通りに襲おうとしたのだが、出来なかった。
一目惚れだったよ。
それまで湧いていた吸血衝動がスッと引いて、代わりに胸が高鳴った。男として本能が、吸血鬼としての本能を上回ったわけだ」
父がそこまで語ったところで、少年は半ば逃げ出すように席を立った。これ以上聞くと惚気が始まるのが目に見えていたからだ。
「ご馳走様でした。学校の時間だから、行ってきます」
「もうそんな時間か。頑張ってこいよ」
「ご馳走様」には朝食以外にも意味を込めたのだが、ジャックは気が付かない。少年は心の中でため息をついた。
明治時代、高等教育を受けられる者は極少数だった。しかし、そこで飛び交う会話の内容は、お世辞にも頭が良いとは言えない。
というのも、高等教育を受けられるのは金持ちのボンボンであり、偏差値が高いことは間違いないが、知能指数となると疑問が残る者が多くいるのである。本当に頭が良い者は(馬鹿と紙一重の例外を除いて)下らない会話に加わらないため、教室に飛び交う「音」はひたすらに残念な方に傾いているのである。
マリユスは残念の方である。
親友とも呼べる友、と下らない会話を交わしていた。目の色と名前だけで避ける者が大半だった中、賢徳は例外的に積極的に話しかけてきたのだった。