雑居ビルの攻防
赤い服の女の動きは早かった。人ごみの中、すぐに見失った。
五寸釘レオは意識を嗅覚に集中させ、臭いをたどった。女の香水と、血の臭いを手繰った。魔法使いであれば、半人間であるレオができる程度のことは簡単にやってのけるだろう。傷もすでにふさいでいるに違いないが、赤い血が、一瞬部も噴き出たのだ。服には血が染みついている。臭いは消せない。
香水と血が混ざった独特の臭いを追ううちに、レオは人ごみから離れていた。人通りがまばらになった、背の高い雑居ビルに女が入っていった。
迷わずビルに踏み込み、踏み込むと同時に、レオは体勢を崩した。服をつかまれ、壁に叩きつけられたのだ。目の前に、レオよりもずっと小柄な赤い姿があった。
雑居ビルの内側の壁に押し付けられた。さらに、額に硬い鋼鉄の感触をつきつけられる。拳銃に違いない。
「私になんの用? 連中の仲間?」
「ち、違う、探していたんです……魔法使いを」
『魔法使い』と言うとき、戸惑った。怒らせるかもしれない。自分の体を人間よりはるかに効果的に修復できるレオでも、脳を撃たれては回復が間に合わない。
「なんのために?」
「オレの一族が守っている人たちの娘が死んだんです。生き返らせてくれる魔法使いを探しています」
「嘘をいいなさい。闇雲に探して、魔法使いが見つかるはずがないわ」
レオがまじめにやっていたことを、女は否定した。意味もなくやっていたわけではない。レオは慌てた。
「だ、だから、撃たれても平気で、撃った相手を追いかけているあなたを見て、ついオレもあなたを追いかけてしまったんです」
「一族で人間を守っているって言ったね。なら、魔法使いを見つけるための方法は知っているはずだよ」
「その方法は使ったんです。神社本庁に情報を流して……でも、魔法使いがお金で動くとは限らないから、自分で探して来いと、母に命じられました」
女はレオの首から手を放した。数歩離れ、携帯電話を取り出した。レオは動かない。下手に動けば、女を刺激することがわかっていた。胸倉をつかまれた瞬間に理解した。この女には、敵わない。
「どうやら、本当みたいね。この八億の懸賞金をつけた、氏家レイカって子だね」
「八億ですか? オレは、十億だと聞いていましたが」
「二億は手数料でしょうね。私を追った理由は信じてあげるわ。でも、君のことを信用してほしいなら、このビルの屋上にいる人間を殺してきなさい」
女は、指を突き立てた。
魔法使いの女がこのビルに入ったのは、偶然ではない。女を狙撃した相手がこのビルから撃ったのだと、確信しているからだ。レオに選択の余地はなかった。
レオに自信などなかった。相手は雑踏の中で標的を打ち抜く、狙撃のプロだ。殺しのプロでもある。魔女は、狙撃したのはただの人間だと保証したが、人間ほど力が読めない相手はいない。
渋谷周辺も再開発が進んでいるものの、まだ古いビルは多い。しかし、エレベーターも設置していないほど古いビルはさすがになかった。レオはエレベーターの前に移動した。現在は最上階だ。エレベーターに乗って移動するなら、待っていれば会えるかもしれない。エレベーターの動き方を確認しようとした途端、赤い服の魔法使いから指摘を受けた。
「私がここで見張っているから、君は階段で行きなさい」
「相手の特徴はわかりますか?」
「私が見る前に隠れたわ。臭いを追うのね」
「わかりました」
あまり時間をかけると、逃げてしまう。レオはコンクリートの床を蹴った。
銃を撃てば、火薬の臭いがしばらくはまとわりつく。服を着替えたとしても、すべては消せない。レオは足に力を集中させ、階段をほぼ十段ずつ上がった。
ビルの高さからして、一〇階以上はある。レオがそろそろ最上階かと思った時、上からの足音が聞こえた。急ぐような小刻みな足音だ。レオはエレベーターに視線を送る。七階を下方向に通過しようとしていた。階段を上りながら確認したかぎりでは、途中で止まってはいない。一階から最上階まで、レオは一〇秒足らずで移動してきた。どこかで降りたなら、遭遇しているはずだ。
赤い服の魔女が狙撃されて、二分とは経過していない。
足音の主が、狙撃した相手だという可能性が高い。レオは足に集中していた意識を五感に移し、階段を一段ずつ登り始めた。
らせん状に直角に曲がった階段の踊り場から、次の階段に向かったところで、黒ずくめの服を着た痩身の男が降りてきた。中東のテロリストを想像させる服装だったが、顔つきは日本人だった。
手には細長いケースを持っていた。ちょうどライフルが収まるのではないだろうか。レオは緊張しながら、男とすれ違った。
男は何事もなく階段を降りていく。レオはそのまま階段を上った。
火薬の臭いが鼻をついた。
「ちょっと……」
振り向き、声をかけようとした。レオは声を出した。余分な行動だった。男の黒い服の隙間から、丸い金属がのぞいていた。
男がレオのことをどう思ったのか、もはやわからない。だが、レオが声をかけようと声をだした。その瞬間に、男はレオを殺すことに決めたのだ。
レオは後方に跳んだ。足に意識を移す余裕もなかった。その余裕があっても、火薬で打ち出される弾丸より速くは動けない。
自分の胸の筋肉が裂け、肺に穴が開く感覚は初めてだった。男は容赦がなかった。腹筋に穴が穿たれ、胃液が体内に飛び散る。肝臓が貫かれる。
階段が赤く染まった。
レオは、自分が膝をついていることにも、手をついていることにも、気が付かなかった。男は動かなかった。ただ、指を動かしていた。
銃口がレオの頭に向けられた。
脳を破壊されれば、もはや修復は間に合わない。
男の指が動いた。
音は聞こえなかった。
レオの耳は、もはや機能すら失っていた。
横に避けようとした。
背後に倒れた。
まだ、死んでいなかった。
体が冷たかった。
全身が冷えていた。
――雨?
天井でスプリンクラーが動いていた。
レオは階段の上で、仰向けに倒れていた。
どうして生きているのかすら、わからなかった。
目の前に、炎の柱が立っていた。燃え上がる、人間だった。
知っていた。レオを殺そうとした人間だった。
「……なにが?」
「役立たず」
女の声だった。降り注ぐ水よりも、なお冷たい声だった。
レオが顔を動かそうとして、自分の体が死のうとしていることを察した。
女の姿が視界に入る。相変わらず赤い服を着ていた。赤い靴に赤いバッグを持っていた。
「あの……ありがとうございました」
「自分で直せるわね」
質問ではない。レオを半人間だと知り、できなければ見殺しにするつもりだと感じさせる物言いだった。
「……はい」
女は燃え上がる男を掴み、降り注ぐスプリンクラーの水に晒した。女は男の腕を掴み、引きちぎった。体を階段に捨て、足を踏み砕いた。
男はうめき声を上げた。まだ生きている。女は男に尋ねた。何者か、誰の命令かを尋ねたが、男はまともに口を利ける状態ではなかった。女は舌打ちをして、男の頭を踏みつぶした。
役に立たないとなれば、殺される。レオは必死に自分の体内に意識を集中させた。体の損傷が激しい。まず内臓の機能を戻し、傷をふさがなければならない。血を流し過ぎている。
レオが瀕死の状態で倒れていることを知りながら、女は携帯電話を耳に当てていた。
「私のところに、人間の殺し屋と、神社本庁経由の八億の依頼人が来ているわ。殺し屋は始末したけど、情報は得られなかったわ。八億の方は、死んだ人間を蘇生させてほしいっていう依頼ね。依頼人は人間だけど、私のところには半人間が来ているわ。死にかけているけどね……了解」
女は携帯電話をバッグに戻した。レオの前に立つ。
「私たち魔法使いは、人間に命を狙われている。この程度で死ぬようなら、とても頼みは聞けないわ。私を目的地まで護衛すること。それが最低限の条件よ」
レオは体を起こした。無理だ。そう感じた。容赦なく殺しに来る相手に対抗できるほど、レオは訓練を積んでいない。
体中の筋肉が痙攣した。レオは立ち上がった。
「俺も命がけで、あなたを護衛します」
「安い命ね」
女は言い、レオに背を向けた。一切レオに手を貸そうとはしなかった。
火陀レンカ、女はそう名乗った。




