Level.50.5:「雫」
少女は、兄のことが大好きだった。心の底から、大好きだった。
異性として、というわけでは無い。普通に、ごく普通に、兄妹としての兄のことが大好きだった。
兄は、活発的で皆から好かれる、自慢の存在だった。
兄は、少女にあやとりや折り紙といった昔ながらの遊びをよく教えてくれた。少女が上手く出来ない時は、何度でも優しく教えてくれた。
少女と少女の兄は、一度も喧嘩というものをしたことが無かった。少女の兄は少女に対して優しく、少女はその優しさを暖かく思っていたのだから、当然と言えば当然なのかも知れない。
少女の兄は、少女が泣いている時に、いつも優しく背中を擦ってくれた。母親に怒られプチ家出した時も、ぬかるみで滑って転んだ時も、どんな時でも少女の兄は少女の下へと駆け付けて優しく慰めて慰めてくれた。
少女の兄は、強くもあった。少女が同級生の悪ガキにいじめられている時には、鬼の形相で現れ、悪ガキ達をコテンパンに懲らしめてくれた。懲らしめ過ぎて怒られることもあったが、少女の兄は少女に対して決して文句を言わずに、少女の身を優しく案じてくれていた。
少女は、そんな兄のことが大好きだった。心の底から、大好きだった。
ある日、少女の兄は人を殺した。少女を守るべく、少女の兄は、自らと少女にとって実の父親を、殺した。
少女は、泣いた。喉が潰れる程、夜通し、激しく泣きじゃくった。その背中を、少女の兄はいつものように優しく擦ってあげていた。少女はそれが嬉しくもあり、辛くもあった。本当は自分よりよっぽどショックを受けているであろう兄が、自分に対して変わらぬ優しさを向けてくれている。自分がそのまま刺されれば、兄がショックを受けることも無かったのだ。だがそんなことを言ったら兄は怒るだろう。……怒りつつも、やはり慰めてくれるだろう。いっそこの時ばかりは、怒りを向けられた方が楽だったかも知れないと、少女は思った。
しかしそれでもやはり、少女は兄のことが大好きだった。心の底から、大好きだった。
程なくして少女は、心身共に体調を崩し、家に引きこもるようになった。同時に少女と少女の兄、少女の母は、慣れ親しんだ田舎から見知らぬ都会の地へと引っ越すことになった。
それと同時に少女には、新しい父親が出来た。少女の母を支えたい、と言っていたが、少女はその男のことが嫌いだった。少女は一度もその男とは話そうとしなかった。
程なくして、男はその家を出ていった。稼ぎが減った分……元から変わらなかったのかも知れないが、兄の進学等もあり、少女の母は今まで以上に仕事で家を空けることが多くなった。
少女は、兄と母が外出している間、家に一人きりだった。学校には行く気になれず、兄以外に親しくしていた子供もおらず、少女は一人きりで日々を過ごした。
そんな少女を見かねた兄がある日、少女に携帯ゲーム機をプレゼントしてくれた。自分も最近初めてハマったから、と兄に勧められダウンロードしたソフトは、自分でキャラメイキングの出来るオンラインRPGだった。
少女は、そのオンラインRPGに夢中になった。自分じゃない自分が、画面の中で動き、会話をしている。
引きこもりということもあり、少女はすぐに強くなっていった。何分プレイ時間が長い分、ゲーマーを自称する兄を追い抜くのに時間はそんなにかからなかった。
少女は、ゲームの中でなら兄以外の人とも友好的に話すことが出来た。獣人とエルフ、メインとサブで作成した二つのアバターで、少女はゲームを楽しんでいた。
もちろん、少女は兄とも一緒にそのゲームをプレイすることがあった。その時は主に獣人の方を使い、アイテムで姿をお姉さんっぽく変え、兄を困惑させたこともあった。
少女はそのゲームが大好きだった。兄のくれたそのゲームが、心の底から大好きだった。
少女は兄が大好きだった。そのゲームをくれた兄が、心の底から大好きだった。
少女の病は、気付かぬうちに少女の身体を蝕んでいた。
――冠状動脈硬化症。高脂血症・糖尿病・肥満……または強いストレス反応の反復等によって引き起こされるその病は、心臓を構成する心筋へ栄養や酸素を供給する働きをしている冠状動脈を硬化させ、心筋虚血を招き、狭心症・心筋梗塞等の虚血性心疾患の発作を引き起こす。
過度のストレスで引きこもり、知らず知らずのうちに不健康な生活を送っていたことが原因だと医師は言っていた。
少女は兄や母の協力の元、入院して闘病生活を送ることとなった。……だが、病院では大好きなオンラインRPGは出来ない。ストレスを緩和するはずが、余計にストレスは溜まる一方だった。
それを見かねた兄は、よく本を買ってきてくれた。神話やライトノベル等多種多様な分野の本を読むのは、ゲームと同じぐらい大好きだった。
兄や母のためにも必死で治療に取り組み、少女の病気は、徐々に回復に向かいつつあった。
……しかし。その日少女は、生まれて初めて兄と喧嘩した。
兄が誕生日のお祝いに、と買ってきてくれた赤いリボンを、可愛くない・こんな色嫌い、と投げ捨ててしまったのである。この時少女は心因性視覚障害を併発しており、赤色のリボンを、緑色のリボンと誤認してしまった。……それだけならば兄からのプレゼントを投げ捨てることなどしなかったはずだが、少し前からその片鱗を見せていた鬱病が、ここに来て悪化していたのだ。
リボンを投げ捨てられた少女の兄は、リボンを拾い上げ、黙って病室を後にした。
喧嘩……と呼べる程のものでは無かったかも知れないが、少女は自らの行動を理解し、深く傷付いた。そして兄に対してあんなことを言った自分を、深く呪った。胸が苦しくなるのも構わず、自らの身体を爪を立ててかきむしった。皮膚が剥がれ、血が流れるのも構わず、呪い……呪い、深く深く自らの身体を傷付けた。
それから数分後。少女は、異常に気が付いた他の入院患者によって、血まみれの状態で発見された。すぐに担当医が駆け付けて処置を試みたものの、少女の命は既に事切れていた。出血多量と、心筋梗塞。知らせを受けた母親と、色とりどりのリボンを手にした兄が駆け付けた時、少女はもう帰らぬ人となっていた。
少女は、兄のことが大好きだった。心の底から、大好きだった。
兄は、少女のことが大好きだった。心の底から、大好きだった。
死を迎えた少女の最期の表情は、暴れていたというのが嘘のような、穏やかなものだった。その右手には、兄から貰った赤いリボンが、固く固く、握り締められていた。
少女の兄は、そんな少女の右手を握った。そして少女に対する謝罪の言葉とともに、涙を流した。
おだやかに眠る少女の瞳からも、涙が流れ出ていた。
いつまでもいつまでも、兄妹の、涙の雫は止まらなかった。
兄妹は、お互いのことが大好きだった。心の底から、大好きだった。




