3)
雪が降っていた。これが根雪になるのだろう、そんなことを考えながら二人で歩いていたのを覚えている。確かあれは3年生の12月のことだった。
「沙英ちゃんくらいだよ。こんな話できるのって。」
「そっか。」
まただ。また藤川君が私を惑わす。彼にとっては何気ない一言でも、その一言に私はひどく悩まされるのだ。その言葉に何か別の意味が含まれているのかもしれない。藤川君は何か私に伝えようとしているのかもしれない。勝手にそう考えては一人困惑していた。
冷静に考えれば、私の方が彼の一言に意味を持たせたかっただけなのだろう。私と彼の間に何か特別なものがあると信じていたかった。私はそうとわからない勘違いを続けていたかったのだと思う。
けれどそれに私が気付くのはまだ先のことで、そのときは自分が勘違いしている可能性さえも考えてはいなかった。きっと、考えることを避けていた。
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「なんだ川内、藤川君と知り合いだったのか。それなら彼の補佐役は片岡ではなく、川内に任せることにしよう。」
そう言って対策室の静寂を破ったのは係長だった。水戸係長は水質管理対策室歴20年(途中で異動もあったが)の大ベテランであり、余程のことがない限り動揺されることはない。部下と出向してきた国家公務員が知り合いだったくらいで普段のペースを乱されることはないのだ。そんな係長の姿を見て私は動揺している自分を恥じた。おかげで幾分か冷静になることができた。
それは何か呪縛にかかったように固まっていた他の職員たちも同じだったようで、係長の言葉で再び動き出し、各々が藤川君に挨拶を始めた。
「片岡と言います。補佐役の予定だったんだけど、たった今川内さんにバトンタッチしました。でも何かあったら気兼ねなく言ってください。これからよろしくお願いします。」
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。」
「それにしても川内さんと知り合いだったとは…。こんな偶然、なかなかあるもんじゃないよな。はい、川内さん、これ資料ね。」
「ありがとうございます。」
私はにやにやしている片岡さんの顔を見ないようにしつつ、資料を受け取ってお礼を言った。そして、自分でも気が付かないくらいに一つ小さく小さく息を吐き、顔を上げて言った。
「久しぶり。すごく驚いたけど、これからよろしくお願いします。補佐役として精一杯サポートするからね。」
「久しぶり。まさか配属先にいるとは思ってなかった。よろしくお願いします。」
私は藤川君の顔を見ることができなかった。だから確認はしていないけれど、きっと藤川君も私の顔を見てはいないだろう。そう思った。
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補佐役と言っても藤川君のアシスタントになるわけでもなければ、彼の仕事に直接関わるわけでもない。私は今まで通り自分の仕事をこなしながら、必要なときに藤川君のサポートをするだけだ。例えば過去データの閲覧、県施設の案内などである。つまり、管区センターの藤川君と県庁の関係を上手く取り持ち、調整するということだ。その仕事内容からも、水部門のうち水質管理対策室に藤川君が配属された理由が伺える。
初日の今日は藤川君が他の対策室に挨拶するのに付き添ったり、県庁内を案内したりするだけが補佐役の仕事だった。だから、勤務時間のほとんどをそれぞれがそれぞれの仕事に費やしていた。昼休みに社食に連れて言ってあげてと片岡さんに言われ、一緒に昼食をとったときくらいしか個人的な話をする機会がなかった。
しかし逆に言えば、片岡さんのおせっかい(すみません…)によって、彼と二人で話をする時間が約1時間あったということだ。私たちは4年間のブランクを特に感じることもなく、仕事のこと、大学時代の友人のこと、1時間でいろんな話をした。
―――しかし、仕事を終えて帰宅した今、私はその内容をほとんど思い出せないでいる。
思い返せば昔からそうだった。私と藤川君は二人で話をしていて話題に困ることはなかった。二人とも特によく話す方ではなかったが沈黙に陥ることはなかった。それなのに後から思い出しても、会話の内容を断片的にしか思い出すことができず、何を話していたのかまるで覚えていないのだ。私は頭でよく考えもせずに次から次へと言葉を発し、彼の話も上の空で聞いているような感覚で会話をしていた。だから彼が口にしていた言葉を断片的に思い出すことはできても、結局彼が何を言っていたのかを覚えていないのだ。
しかしそんな私とは対照的に、藤川君は二人きりになると口数が減っていたように思う。私が彼の話を遮ってしまっていたのかもしれないし、私の原因不明の勢いに押されて話す気力が削がれていたのかもしれない。これは会話じゃない、相手に失礼だと後から反省しても、彼を前にすると私のその癖のようなものはなかなか治せなかった。
私がいつからそんな態度を取り始めたのかは覚えていないが、その癖を意識し始めたのは3年生の冬だったと思う。とにかく、気付いてから3か月ほどかけて私はようやくその態度を克服した。克服したはずだった。
そのはずなのに、4年ぶりに彼を目の前にすると、私はまた当時と同じことをしてしまっていたらしい。私は今日、藤川君と何を話したのか覚えていないのだ。26歳にもなってこんな態度の私に彼は呆れてしまったかもしれない。昼休みの後から自己嫌悪に陥り、帰宅した今も私はその感情を振り払えないでいる。
思い返せば昔からそうだった。私は藤川君といると自分の駄目なところを痛感する。そして自分のことが嫌いになるのだ。だから、もう二度と会いたくないと思っていたし、会うこともないだろうと思っていた。しかし、実際はこうして4年ぶりに彼と会うことになった。私の日常の中に彼が再び現れたのだ。何だか夢の中にいるような気がする。
不思議で―――すごくすごく苦しい。