リレー小説 Dグループ「マッスルハート」
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耳鳴りがする
キーン、という音が断続的に響いている。もしかすると耳を傷つけてしまったかもしれないその症状を、しかし私は意に介さない。
否。意に介してなどはいられなかった。
というのも、耳鳴りの原因となったのは私の周囲の者達が上げた咆哮であった。耳朶を震わすほどの爆音が私の耳を暴力的に襲ったのだ。
さながらそこは中世の戦場であった。あるいは、剣闘士が演ずる闘技場か。
そして、先の咆哮はつまりは戦いの嚆矢であった。瞬く間に戦場が始まる。私の周囲の者達は我先にと、我こそはと、互いの敵へと相対する。しかし、私は動けなかった。耳鳴りを起こす程の咆哮に足がすくんだのだろうか。私は圧倒されている。この圧倒的な場において私の耳の不具合など、とるに足らぬ些事に過ぎないのだ。
ああ、どうして。
この空間は異様だった。数分前まで、確かに私は咆哮を上げ戦火へと身を投じていった彼らと、同じ心持ちでいたはずだった。しかし、このザマである。ふとしたことで私は我に返ってしまった。正常な空間と、この異常な空間との齟齬をはっきりと認識できてしまった。もう彼らのように盲目的に振る舞うことは難しいかもしれない。
むわり、とした空気が気持ち悪い。肌を汗が滴っていく。息を吸えば熱気が、汗ばんだ空間独特の臭気が口を、あるいは鼻を侵す。無論気分のいいものではない。
眼前には闘争がある。
まず2人の男たちが向き合っているのが視界に入る。どちらもガタイのいい男。片方は、髪が短くどことなく猿のような印象を受ける男。もう片方の男は毛深く、どことなく狼のような印象を受ける。両者のその表情は鋭く、険しい。まさに戦う者の表情。男たちは両腕を広げ、中腰になりながら相対し、間合いを窺いあう。緩やかに円を描くように移動する。そして徐々に距離が縮まる。にじるような、足運びになり、やがて二人の動きが止まる。ぴたり、と。
嵐の前の静けさ。いや、依然周囲では戦う者達の咆哮が鳴り響いてはいるが、しかし、2人の音は今、確かに完全に消え去っていた。
どれほどか。一分、あるいは三秒にも満たなかったか、時間の感覚さえ狂うように、この空間に飲まれているが、ともかくそれほどの緊迫した時間を経て、唐突に両者は動き出した。
裂帛の気合とともに、両者が弓で放たれたかのように飛び出した。がっ、と互いの手をつかみ合う。互いに押し合い震える両者の手が再びの均衡を表す。しかし長くは続かない。
片方の男――狼のような男が力をうまくいなしたのか、相手の男――猿のような男の体勢が崩れる。体勢を立て直そうとする挙動は数秒の事であったが、彼らの戦いにおいては十分な隙、無防備と言えるものだった。
その隙を逃すはずもなく狼のような男は勝負を決めにかかる。
その流れを私の目は克明に追っていた。一息に腰を深く落とした彼は、先程ではないが両腕を広げ、力を貯める。短く息を吐き出し、よろけた相手の腰めがけて猛然と組み付いた。そのまま彼は床へと相手を組み敷く。焦ったようにもがく相手とは対照に、彼は冷静に動いていた。彼をどかせようと迫る手を左手で防ぎ、足で暴れられないように自分の体をうまく使い押さえつけるように足を塞ぐ。
そして彼はゆっくりとその右手を振り上げ――
股間の布へと手を掛けた。
一息に、とはいかなかった。無論猿のような男は抵抗を試みた。しかし、それは逆転の一手とはならず、わずかに寿命を伸ばしたに過ぎなかった。もがく彼を尻目に、少し引っ掛かりながらも狼のような男はその布を完全に剥ぎ取った。手馴れているように見え、終始冷静に動いていた彼はその姿も相まってまるで本当に狼のようだった。
たらり、と汗が流れ、顎を伝い落ちる。私は汗を震える手で拭う。
狼のような男は、剥ぎ取ったその布切れを高らかに掲げ、勝鬨を上げる。勝利に震えるその手は汗でしとどに濡れ、彼の毛深い身体も同様に濡れ、てかっていた。
彼がその手に、鬼の首級を上げるように高らかに掲げる布切れは、真っ黒な俗にいうブーメランパンツである。それは彼も履いているし、更に言えばここにいる男たち皆が履いている。無論私も履いている。
否、履いていないものもいる。それは敗者だ。例えば狼のような男の足元で股間を手で覆いうずくまっている男がそうだ。彼は戦いに破れ、パンツを奪われた。それはこの戦場での敗北を意味する。失格である。
敗者は惨めに床に伏せ、勝負の成り行きを生まれたままの姿で眺めていなければならない。
そう、この戦場にはルールが有る。そして、私たちには目的がある。醜くもパンツを奪い合い、汗で汗を洗い流す地獄のような戦いを越えた先に一人だけが得られる汗にまみれた栄光が。
そこで、思考が鈍り始める。脱水症状か、あるいはこの異様な熱気に当てられたのか。深く息を吐き、そして吸う。熱に浮いたこの空間で少しでも酸素を取り込み、心を落ち着かせようと試みる。
ふと、上を見あげれば、なんだか心なしか天井付近にもやがかかっているようで――いやはや、天井の梁が湿っているように、私には見える。恐ろしいことだ。全く。
長期戦はきつそうだと、腕に浮く玉の汗を見ながらもそう思う。私も早く相手を見つけてパンツを集めなくては。
と、そこでとんとん、と肩を叩かれる。どうやら探す手間が省けたようだ。明確なルールではないが、戦いは正々堂々と一対一で行うという、暗黙のルールが男たちの間にはあった。スキだらけだった私が後ろから襲われる、ということがないのもそういうことである。やれやれ、と最初に私の獲物になるのは誰かな、などと思いながら不敵を気取ってゆったりと振り向く。
そこにいたのはアメリカからの留学生のトムだった。
黒人でアメフト部に所属するトムの体格は私の二倍はあろうかというものだった。肩幅も筋肉も。汗で濡れた彼の肉体は照り輝き、隆々としたその肉体はひどくブーメランパンツが似合っている。はて、人間の腹筋は六つか八つ程のパックではなかったのか。いつものニコニコとした陽気なおもしろ黒人ポジションの彼の笑顔は、事この場においては、何か得体のしれぬものが張り付いているような狂気的な笑みにさえ見えた。パンツの隙間に、一体何人が犠牲になったのか数多くの戦利品が挟み込まれていた。頭にも一つ誇らしげにパンツがかぶさっている。
やれやれ、と私は腰を落とし両手を広げる。一部の動物が自分を大きく見せようと工夫するのと同様のそれにしか、自分の行動は見えないなと、私は自嘲した。トムも腰を落とす。すごい迫力だ。
ジリジリ、と間合いを詰め合う。やがて、ぴたり、と止まる。
幾ばくかの沈黙を経て、トムが動いた。私は全く動けなかった。さすがはアメフト部とでも言うべきなのか。私が不甲斐なすぎるだけなのか。ともかくとして私はただ眼前に迫る大きな手を、いや正確には私の股間に迫るその大きな手を、なんだか妙にスローモーションになった世界で、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
ああ、どうして。
遡るはおよそ半年前。忘れもしない、六月の最終週。
煩わしかった梅雨の湿った風が、暖かな温風へと移り変わっていく、そんな時期。
その良く晴れた日の正午、大学の教室で私と大久保そして安藤の三人は、いつものように各々の弁当をつついていた。
事の発端、その口火を切ったのは安藤のこんな一言からだった。
「賀知、やらないか?」
恥ずかしながら正直に告白すると、私にはあまり友だちというものがいない。いじめられていて、その関係から孤立しているというわけではなく、大学生活のほとんどすべてを大久保亮介と安藤太郎という二人の友人と過ごしているので、結果として他との関わりが薄くなってしまったのだ。
その内心では、もはやかかせない存在だと思っている安藤の誘いを何度も断っていることに、日々、罪悪感が膨れ上がってきてはいるが、やはり私の返事が変わることは無い。
「すまない。だが、やはり実際にやるのはまだ早いと私は思う。私たちは始めたばかりでまだ体ができてない。無理にやっては体を痛めてしまってはどうしようもないだろう」
「相変わらず慎重だな、賀知は。なんでもやってみないと理屈倒れになっちまうぜ」
食事の和やかな雰囲気が静かに緊張を帯びてきたことを察知した大久保がちゃかすように言う。
普段ならそこでこの話は終了し、次の話題へと仕切りなおされるところだが、その日はそうはいかなかった。
「大久保の言う通りだ。賀知。一度やってみよう。やってみないと本当の快感はわからない。やり合って、熱くなってこそ、自分に足りないものを知ることが出来るというものさ。なあ賀知、やらないか」
今から思えば彼の言葉は純粋に私を心配したものだったと分かる。しかし、この時の私は何度も誘いをかけてくる安藤に、自身の慎重さを嘲笑われたように感じてしまい、反発せずにはいられなかった。
「いや、だから何度も嫌だと言っているではないか。それに、大人しく聞いていればやり合うだと。はっ、基礎ができていない君とやり合っても満足なんてできるわけがないではないか。なあ、そうだろう」
そう言葉を吐いた瞬間、私にはこの場が、びきり、と厚い窓ガラスを螺子切ったような音がしたように聞こえた。
大久保も目を見開き顔面を蒼白にしている。
大変なことを言ってしまった。
慌てて安藤の顔をうかがうと、うつむきがちに、反発ともあきらめともつかない、そんな表情を私に向けていた。
まずい。
何か言おうと試みるが、口をぱくぱくと開閉するばかりで、ついぞ音声につながらない。
そんな私に、安藤はまるで死刑宣告を言い渡さなければならなくなった医者のように悲痛な声と表情で、こう言った。
「そうか……。お前の気持ちはわかった。しかし、なんだ。こんなときに言うのも心苦しいが、俺は今度から昼休みは兵藤先輩のところへ行く。前々から、俺を欲しいと言ってくれているんだ。じゃ、返事をしにちょっと行って来るよ」
言うが早いか、安藤は広げた弁当箱を放置して、教室を飛び出していった。
しばらくして、帰って来たのは昼休みももう終わろうかという頃だった。しかも一人でなく、兵藤という名の先輩をつれて。
「よう。賀知ってやつはいるか」
粗野な言葉遣いに、金に染めた短髪と眉。どちらも針金のようにとがり、つり上がっている。
いきなり名前を呼ばれ、身じろぎする私に気づいた兵藤先輩は、つかつかと私に近寄り、
「おお、お前か」
そう、言い放った。
「なあ、お前がいらないんなら、こいつもらってくぜ。こんなに相性バッチシのやつ始めてだから、俺は、もう手放せなくなっちまったぜ」
そういって兵藤先輩は安藤の肩に手をかけた。
安藤は終始私の目を見ることなく、兵藤先輩のなされるがままになっている。
次の授業へと行くためか、兵藤先輩は安藤を残し、教室からでていった。
安藤は気まずそうに置きっぱなしにしていた弁当箱を片づけ、その場に腰を下ろすことなく、私たちから離れた席についた。
ここにいたって、ようやく実感に到った。
私は安藤に見限られたのだ。
不思議と湧きあがってきた感情は、安堵だった。
「もう煩わしい思いをしなくて済む」
授業が終わり、私と大久保しかいなくなった教室で、私は複雑な表情でこちらを見つめる大久保に、そうこぼした。胸が痛い。しかし、これでいいはずだ。
「本当に、それでいいのか」
ああ。そう答えようとしたが、不思議なことが起きた。私の口はなぜだか違う言葉を発し始めたのだ。
「なあ、私が間違っていたのかな。ちゃんと体をつくってそれから楽しむ。基礎があってそこから応用があるんだ。どうしてわかってくれないんだ」
「賀知のいうことは、うん。正しいと思うよ。でも自分の体と大会に出るやつの体を比べて御覧。これ以上体のスペックに差が出てしまうと応用もなにもないんじゃないかな」
「それ、は……」
「怖かったんじゃないか?」
「怖い……何をだ」
「アメフト部のトムや、ワンダーフォーゲル部のマイケルたち、歴戦の猛者たちとやり合うことがさ。同じ人類かってくらい体格が俺達とは違うもんな」
「……」
「どんなに鍛えても、まともにやっては、彼らには勝てないことをお前は分かっていた。だからまともにやり合わなくても勝てる方法を、お前は考えていたんじゃないのか」
大久保は断言するように、そう言った。
さらに続けて、
「だが、見つからなかった。どんなに考えても、彼らに勝つ方法が見つからなかった。それがお前のプライドを、木端微塵にしてしまった」
反論は、できなかった。その通りだったからだ。
「そして、内心戦うことを諦めた君は、安藤の実戦の誘いを断った。戦っても最後には怪我をするだけだから」
「……っ、ああ、そうだよ! 君の言う通りだよ! 私だって頑張った。頑張ったんだよ! 少しでもいい順位を取るために資料を集めて、必死に練習して!」
ギリギリ、と奥歯を噛みしめる。
そう、だめだったのだ。彼らには勝てないと納得してしまった。それが私が安藤を拒む感情の土壌を育てた。
口を開くと嗚咽が溢れそうで、何も言えなくなった私に、しかし大久保はまるで機械のような無表情で告げる。
「なら、安藤の気持ちを考えたことはあるか?」
「え?」
「安藤だって、何度も断れれたらお前が本気で嫌がっていることぐらい分かるだろう。それでもあきらめず何度も誘った。なんでだと思う?」
「なんでって……」
そこで大久保の無表情が崩れる。
表れたのは、泣きだしそうな瞳と自嘲の笑みだった。
「大会に出場すると決まって練習を始めてから少しして、君は練習に参加しなくなり、机に向かうようになった。食事もとらず、濃い隈を貼りつけた虚ろな顔で。そんなの、友達として、心配しない方がおかしいだろう」
「えっ、あ……」
「安藤は、君が理屈倒れのもやしになっていくのを見ていられなかったんじゃないかな」
やりきれない、そんな態度で大久保は首を振る。
涙が流れていることに、着ていたランニングシャツを濡らすまで気がつかなかった。慌ててシャツからむき出しの二の腕で涙を拭うも、奔流と化したを涙のかたまりを止められるはずもなく、顎をつたって地面へと零れ落ちた。
天下一筋肉大会。
考えられる限り最低のネーミングセンスのこの大会は、驚くなかれ、国が開催している公式な大会で、今回で百回目となる。
私と安藤はこの大会に参加することにしていた。
公式戦で優勝。それはつまり、その者が一番強いということである。
安藤の真意を感じたあの日、結局私は大会に出場することに決めた。
一番強い存在に私がなる。その時は。
私は取り戻す。
安藤から失ってしまった信頼を。
そこからはまさに、地獄の日々だった。
私の作戦はこうだ。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
実戦を怠け、相手にぶつかっていけるだけの筋肉の鎧を身に着けられなかった私にできることは、もはやこれだけであった。
それでも、僅かな勝利への可能性をつかむために、私はひたすら必死に自身の瞬発力を磨き続けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ふ、ふぅ――っ」
さんさんと照りつける太陽は私の筋肉を焦がし、少し前までは暖かかった風が、今は私の不安を象徴するようにじめじめと私をなぶる。
だが、それでも。
――そうだ、負けるわけにはいかない。
その一撃をしのげたのははっきり言って偶然だろう。それ反射神経が起こした奇跡か。
とにかく右手の甲で、トムの地面から股間へと滑りこむように襲ってくる大きな手を払い落とす。
まさか防がれると思ってはいなかったのだろう。
勢いを削がれた反動で、トムは右半身から地面へと激突した。
すかさずトムの首筋に尻を乗せ、両足を交差させることで首を絞めにかかる。さらに上半身から、トムの背中に覆いかぶさり両手はトムの膝裏をつかみ四つん這いの状態をつくる。
絞まった喉から潰れたような悲鳴を挙げつつ、体を揺することで抵抗を試みるトム。それを聞き流しつつ、私は両手で一気にトムのパンツを引き下ろしにかかる。
しかし、さすがというべきか、トムはその異形とも表現できる鍛え抜かれた筋肉と黒人特有のしなやかなバネを遺憾なく発揮し四つん這いの姿勢のまま、しゃくとり虫のごとく覆いかぶさっている私に体当たりをしかけてきた。
だが、何をやっても無駄だ。すでに私には勝ち筋が見えている。
――蝶のように舞い
トムの悪あがきの一撃をあえて抵抗せず上空へと吹き飛ばされる。
ただし両手に掴んだトムのパンツは決して離さずに。
そのままトムの腰を支点とし、体を反転させ安全に着地。
――蜂のように、刺すっ!
勝利の瞬間。トムの断末魔が会場に響き渡った。
「アッ――――!」
「強敵だった。一歩でも間違えば地面にうずくまっていたのは私だったかもしれない」
そう言ってトムの健闘を称えた私は次の獲物を探す。
だが、探すまでもなかった。
「ほう、トムを倒したか。これはなかなか見所のあるやつが大会に出てきたな。だが所詮、やつは我らの中では一番の小物。今度は私の相手をしてもらおう」
背後から掛った声。振り向くとまるでアメリカンコミックから飛び出してきたスーパーマンのような爽やかな笑みと筋肉を持つ白い巨人が佇んでいた。
……。
…………。
ああ、どうして。
少し昔話をしよう。
「単刀直入に聞く、なぜお前は筋肉をつけていない?」
それが安藤が私に言った初めての言葉であった。
春、人々がタンスにしまっておいたタンクトップを取り出し、上腕二頭筋を鍛え始める季節。
大学敷地内の食堂前、じゃれ合う男どもを横目にそさくさと大学から帰ろうとしている私を、低身長のヒョロヒョロした男が呼び止めてきた。
先ほどの英語のクラスで同じだった人であることはわかったが、会話もしたこともない上、名前すらわからない。
彼は非力そうな細腕で私の腕を掴み、私に先ほどの言葉を言ったのだ。
「仕方ないんだよ。つきにくい体質なんだ」
私は彼の腕を振り払おうとした。しかし、ねっとりとまとわりついてきて離れない。
「嘘つけ!昼は菓子パンばっかで、飲み物もノンプロテインのやつしか飲んでないだろ!」
なんだこの男は! ストーカ-か何かか?
彼の異常なまでの執着は、彼の気持ち悪いほどの私の観察と目の前の彼の必死な表情から感じ取らざるを得なかった。
「お前3Kってのは知ってるよな! 就職に結婚、人生にいつでもまとわりつく魔法の言葉だ!
高学歴、高身長、筋肉! 筋肉のない人間なんてゴミ同然! なんでお前は筋肉をつけていない! 馬鹿なのかぁ!?」
「うるさい! 君だってガリガリじゃないか! お前みたいな無筋野郎に言われたくないね!」
私も思わず彼の煽りに乗ってしまい胸倉を掴み、取っ組み合いになってしまった。
しかし、お互い握力がないのでまるで子供の喧嘩のようになってしまっている。
今思えば、周りで真面目に組み合っている筋肉勢の隣で、口喧嘩しながらお互いの服を引っ張り合うモヤシっ子二人の図というのは何とも滑稽なものである。
――ポンッ! テーテッテー! テーテッテー!
突如、プラスチックを叩くような音とともに聴き馴染みのある不穏な音楽が流れてくる。
いつもなら学内から出られているはずなのに、不毛な争いをしていたせいであの時間が来てしまったのだ。
「しまった、礼筋の時間だ!」
周りの筋肉勢たちは早速服を脱ぎ始めている。
毎日この時間になると筋肉への感謝を込めパンツレスリングを行わなければならない決まりなのだ。
むろん私は毎日逃げていたのだが、今日は非常に運が悪い。
「こっちだ!」
ヒョロ男はそういうと私の手を引き走り出した。
「確かこっちにまだ大きい断層があったはずだ! あそこに隠れるぞ!」
すでにパンツの奪い合いを始めている学生たちをすり抜け私たちは必死に走った。
頼む……、間に合ってくれ!
こんな無防備で見つかってしまったらもう終わりだ。
彼はうまいこと人のいないルートを通って誘導してくれている。
随分慣れているように私は感じた。
そして走ること数分、何とか岩まで着くことができた。
「へぇ、こんなとこにまだ断層があったんだな」
私は断層にもたれかけるように座って言った。
「震災のがまだ残ってるらしい。随分昔のように感じるがまだ3年しかたってないからな」
彼はリュックをおろすと私の隣に座ってきた。
「飲むか?」
彼はリュックからアイスティーのペットボトルを私に差し出してくる。
「プロテインは?」
「大丈夫だ、入ってない」
しばらく沈黙が続いた後、私はペットボトルを受け取った。
だが、まだ口は開けられずにいた。
「なぁ、お前は筋肉ってなんだと思う?」
周りで男たちの野太い声の響く中、彼は唐突に私にそんなことを聞いてきた。
「知らないな。 俺たちにはないものだからな」
「お前は本当に筋肉が生命の源だって信じてるのか?」
この瞬間、私はなぜ私に声をかけてきたのかなんとなく理解していた。
「おいおい、あの悲惨な震災からここまで復興できたのは何のおかげだと思ってるんだ? 聖なる筋肉教サマのおかげだろ? 伊達に国教じゃないんだぞ聖なる筋肉教は。 生命の源である筋肉をみんながつけたおかげで、東京はまたここまで発展できたんじゃねーか」
「そして現在、お互いの筋肉を見せ合い絡み合うことが一般化し、筋肉のないものはどんどん迫害され始めているわけだな」
彼は随分トゲのある言い方をしてきた。
まあ、皮肉たっぷりに彼の問いに答えた私が言える立場ではないのだが。
「しかし、すべての人間がマッチョになれるわけないだろう。筋トレなんて向き不向きもあるし、筋肉がつきにくい体質もある。そんな理不尽なやり方で差別が行われている世の中なんておかしいと思わないか?」
ヒートアップした彼の声はどんどん大きくなっていく。
「2000年代を生きてたジジイババアが見たら驚くぞこんな世界! 平気で半裸で人々が戯れあい、筋肉ですべてが決まる世界なんてな!」
「おい! やめろ!」
私は一喝した。
現政府の批判など他の連中に聴かれたら反逆者として通報され、豚箱行きになってしまう。
「君の言いたいことはわかった。そしてなぜ僕に声をかけたのかもね。確かにこの世界はクソだ。 狂ってる。まるで排泄物でも我慢しながら書いた小説のようだ」
私は彼に言い聞かせるようにつづけた。
「でも、僕はこの世界に抗ったりはしないぞ。君、どうせ反政府運動の勧誘だろ。僕だってすでに他の人に何度も誘われてるさ。あいつらはあいつらで狂ってるね。英雄だとかカッコつけて、犯罪やってるだけじゃないか」
――ポン!
礼筋終了の合図が鳴った。
これでやっと解放される。
男たちの汚い咆哮はもう聞かなくていい。
彼はだまったままだ。 私が同志ではなかったことに悲しんでいるのだろうか。
私は彼にペットボトルを返し立ち上がった。
そして彼を背に歩き出した瞬間、
「おまえ……、世界を変えたくないのか?」
奴はまた喋りだした。
ここまでしつこい勧誘も初めてだ。
本当に今日はついていない。
「おい、まだそんなことを。僕は犯罪者には……」
「俺は汚い手は使わない!」
そういうと彼は立ち上がり私の手を強引に掴んできた。
「正々堂々勝負するんだよ! 筋肉大会って知ってるよな? 全国の筋肉ダルマたちがパンツ取り合うイベント! 就職とかに必要なアレだよ! テレビ中継とかもされてるやつ! あれで1位になってやるんだ、このガリガリの俺がな! それが筋肉がいらないって民衆に証明する1番の方法だろ!」
彼はより一層私の手を強く握りしめ、さきほど私を捕獲した時の様なむさくるしい表情に戻っていた。
「あの競技には筋肉はいらねぇ! 必要なのはスピードなんだ! やはり俺の目は間違ってなかった! お前さっき逃げる時、しっかり俺のスピードについてこれただろ! 一緒に出ようぜ! 筋肉がこの世のすべてではないってことを見せつけてやるんだ!」
そう、これが私と安藤との出会いだ。
私が無理やり筋肉大会へのエントリーさせられてしまっていたのを知ったのは、確かその日から2日後のことである。
その後もなんだかんだ安藤との関係は続いていった。
相変わらず無筋者への風当たりも強かったので、一緒にいる方が心強いというのもあった。
私は反政府運動など全く興味がない。
むしろこの世界自体にあまり興味がないのかもしれない。
だか、私は彼の太陽のようにアツいココロは好きだったのだ。
それに非常に愉快な奴でもあった。
こんな世の中になって初めて、外に出るのが楽しいと思った。
6月末、彼が私を見捨てたのは正直悲しかった。
しかし、それは仕方ないことである。
私が練習を拒み続けたから。
私は他の仲間を見つけたのだとばかり思っていた。
だが、それも違ったようだ。
会った当初に比べ日に日に彼の元気がなくなっているということは私もわかっていた。
大久保の情報によると、毎日タブガイに挑んではボコボコにされていたそうだ。
彼をリンチするというのが一部学生の日課にもなっていたようだ。
そこで彼の筋肉勢にたいする憎しみというのも肥大化していったのだろう。
だが、私は励ましの言葉すらかけてやれなかった。
元気を無くしているとわかっていたのに、言える勇気が出なかった。
私は心底ダメな人間だ。
この世界から逃げ、大切な人間さえ逃げることで無くしてしまうのだ。
後にわかったのだが、兵藤という男はテロを専門とする反政府団体を束ねる長であるそうだ。
彼は変わってしまった。
私は失望した。
彼にではなく私自身にだ。
あんなにもまっすぐだった男をダメにしてしまった。
そして、私はもう逃げないと決めた。
間違いなく彼は第100回大会に出場する。
記念すべき100回大会には大勢の政府のお偉いさんや教祖ご一行がやってくる。
彼らがテロを計画するなら間違いなくこのタイミング。
止めるんだ、彼を。
戻すんだ。
もう一度まっすぐな男に!
私の憧れる、真の男に!
白人の男を倒した私の体力は既に半分以下になってしまっていた。
巨体のくせに妙に素早い。
流石ナチュラルボーンマッスルといったところか。
だがその白人を私の肉体は凌駕していた。
ただそれだこのことだ。
私は次の対戦相手に見つからぬように、懸命に安藤の姿を探した。
間違いなく彼は来ている。 考えるんだ、いったい彼ならどうするか。
そしてふと私の目に留まったのは競技場にある障害物であった。
大きな岩……。
彼の体なら十分に隠れることは可能っ!
私は会場から死角になっている岩の後ろに周った。
そこには……、
「賀知!?」
ブリーフの中にペットボトル状の形をした爆弾を隠した安藤の姿があった。
「よう……。なんだそのデッカイものは……?」
「どうだ、いいもんだろ。俺んだぜ?」
安藤は私の一言に苦笑してみせた。
一方で安藤の苦笑には、苦悶の様子が見え隠れしていた。というのも、岩にもたれかかる安藤のその細身は、引きずり回されたかのように細かい擦り傷を体中に負い、顔面は拳を何度も叩きつけられたが如く、右目を腫らし、口元に切り傷を作り、また曲がった鼻からは流血していた。挙句左腕が力なく地に向かって垂れる様から、骨折していることが見て取れた。
「安藤、誰にやられた?」
私は安藤の細い両肩を力任せに引っ掴んだ。安藤が苦痛に表情を歪める。
「お前には関係ないだろ……」
安藤は苦痛に顔を曇らせながら、私から目を反らせた。
私は安藤のひどく傷ついた様を忘れ、砂に汚れたその右頬に右手の平を叩きつけた。乾いた音が会場内に高く木霊する。
「関係ないわけないだろ! 俺たち、友達だろが!」
私は安藤の瀕死の瞳を睨みつけ叫んだ。
「汚い手は使わないんじゃねえのかよ! 正々堂々戦うんじゃねえのかよ! なのに何だよてめえこれは?」
私は安藤のブリーフからはみ出すペットボトル型の爆弾を引っつかみ、突き出した。
「友達、ね」
安藤は小さく呟いた。
「正々堂々やったさ。汚い手は使わなかったさ。でも何も変わらなかった。だから汚くて不公平な世界には、汚い手で臨む。それが一番効果的だってことに気がついただけさ……」
安藤は自嘲気味に笑って見せた。鼻息を急に荒げたためか曲がった鼻から滴る鮮血が飛沫し私の胸に付着した。
「バカヤロウ……血で血を洗うなんて何も変わんねえじゃねえかよ……」
私は再び目をそらした安藤を見つめた。
「おや、まだ生き残りがいたのか」
唐突に私の背後から聞き覚えのある声が響いた。私はゆっくりと首を背後に向けた。
「大久保……」
背後に立つその者の名を、私は呼んだ。私のよく知るその男は、ほかの者と同じくブリーフ一枚の出で立ちであった。
雲が走り、覆っていた太陽を開帳した。大久保が日光を全身で受け止める。意識して見たことはなかった大久保の体は、無駄な筋肉を一切省いた均整のとれた逆三角形であった。
その逆三角形の肉体の背後には、パンツを剥ぎ取られた大勢の屈強な男たちが地に伏していた。私が視認した限り、大久保の他大地に立つ者は、いない。
大久保は光合成をするかの如く丸太のように太い両腕を青空に掲げた。その両手には大量の戦利品が握られており、また自身のパンツにも戦利品を大量に挟んでいた。おそらく地に伏す者たちの、つまり私と安藤、大久保以外残っていた強者たち全員のプライドであろう。
「大久保……お前……」
私に大久保は微笑んでみせると、唐突に顎の下付近に右手の指を食い込ませた。
布が避ける不快な音と共に、大久保の顔はみるみるうちに剥がされていく。最後に黒い髪の鬘が地面に落ちると、そこには全くの別人、スキンヘッドのアングロサクソンが立ち尽くしていた。
「マッチョリーニ首相……?」
マッチョリーニと呼ばれたアングロサクソンは、我々に向かって微笑してみせた。
このマッチョリーニなる男は、唐突にイタリアからこの極東の国に渡来し、瞬く間に政権を掌握し、聖なる筋肉を国教指定し日本社会を筋肉社会へと塗り替えた、いわば諸悪の根源……。
「なるほど、ここまで生き残るとは。やはり私が目をつけていた通り実力はあったようだな」
大久保もとい、マッチョリーニは私に向かって輝くような笑顔を見せた。
「もっとも、その彼は実力おろか筋肉も満足にないようだがね」
一方でマッチョリーには心底残念そうな瞳を安藤に向けた。安藤は砂埃のついた眉間に皺を寄せた。
「マッチョリーニ、あんた何が狙いだ?」
「狙い?」
マッチョリーニは私の質問に一瞬あっけに取られた表情を浮かべたが、間を置かずすぐに笑顔に戻った。
「私は男性の筋肉隆々の肉体を愛しているんだ。筋肉こそ芸術! 筋肉こそ生命! そう、筋肉こそ世界で真理なのだ! しかし私の母国ではそれが理解できる者がおらんでな」
マッチョリーニは太い右腕を突き上げ、手のひらを太陽に掲げた。日光を燦々と浴びるマッチョリーニの均整のとれたその肉体は確かに芸術作品のようであった。
「しかしこの国にははるか昔から祀られていた聖なる筋肉が存在した! 私の芸術と哲学を大成させるのはこの国しか存在しない! そう確信したのだ!」
マッチョリーニは青空に掲げていた右腕を岩盤のような胸筋の前で握った。私はそれを尻目に両肩をわなわな震わせていた。それは『感動』などではなく『怒り』であった。そんな私の震える左肩に安藤の弱々しい右手が乗った。
「賀知、俺はさっきあんなこと言っちまったが、実はお前が来てくれて嬉しかったんだ」
安藤は私の肩を掴んだまま乾いた地面を足踏みした。
「友達って言ってくれたときも嬉しかったんだ。排泄物を我慢しながら書いた汚い世界だが、お前みたいなきれいでいいやつもいるんだって」
「安藤……」
「だから俺はそのきれいな部分だけでいいから、きれいなまま置いておきたいんだ」
安藤はあっけに取られた私の隙を見落とさず、その時に私の右手に握られていたペットボトル型の爆弾を瞬時に奪い取りマッチョリーニに対峙した。
「おや、まだやられ足りませんか。散々可愛がってあげたのにね」
マッチョリーニの一言が言い終えられるのを合図に安藤は右手に爆弾を掲げ、骨折した左手を引きずりながら雄叫びを上げ駆け出した。
安藤の雄叫びは高らかに空に響いた。安藤の細身の体から出たその声は、痩せた猿の鳴き声にも聞こえなくはなかったが、まさしく魂の叫びであった。
一方でマッチョリーニは迫り来る安藤を無表情のまま一瞥すると、その鉄骨のように太い右腕を伸ばし安藤の腰に巻かれた布を力任せに引っ掴んだ。
マッチョリーニは安藤を頭上に持ち上げる。そして右手でブリーフを引っつかんだまま勢いよく回転させ始めた。
マッチョリーニの剛力により安藤は間を置かずレシプロ飛行機のプロペラのように勢いよく回転させられる。その速さは、視認できぬほどであった。私は声も上げず、ただただそのさまをあっけに取られた様子で眺めるほかなかった。
糸が切れたように、安藤がマッチョリーニの右手を離れた。マッチョリーニの右手には安藤が履いていたブリーフのみが残されていた。
「おっと、忘れ物だ」
マッチョリーニは足元に転がっていたペットボトル型爆弾を青空へ向かって放り投げた。その強靭な腕力が相余って、飛翔する爆弾はロケット弾のようであった。
爆弾が飛来する先には、全裸で青空を舞う安藤の姿があった。
私は感嘆詞を上げる暇も与えられなかった。飛来した爆弾は速度を落とさず、無防備な安藤に直撃した。安藤は破裂音とともに晴天の下に打ち上がった一輪の花火として消え失せた。
「安藤ォオオオーーーーーー!」
私の叫びは晴天に吸い込まれていった。
「まったく。彼はずっと観察していたが、最期まで実力もないし、無論筋肉もない。実にがっかりだ」
マッチョリーニは右手に握られていた安藤のプライドを乾いた地面に叩きつけ、その鉄板のような右足の裏で踏みにじった。それを見た私に、涙とともに怒りが再びこみ上げてきた。
「てめえ、こんなことのために、この国を、安藤を巻き込んだのか……」
私は涙を拭い、怒りに燃える眼差しをマッチョリーニに投げつけた。私の視線を受けたマッチリーニは露骨に表情を歪めてみせた。
「こんな……だと? 私の哲学をこんなもの扱いするとは……。君は体こそ細身だが、実力はある。我々が力を合わせれば最高の筋肉を想像することも可能であるはずだ」
「黙れ!」
私は闘魂に突き動かされるがままマッチョリーニに向かって猛進する。
「どうやらそれは不可能なようだな」
マッチョリーニは拳を掲げ目前に迫った私の薄い胸板に張り手を叩き込んだ。
私は突風に煽られた枯葉の如く宙を舞った。マッチョリーニとの距離まみるみるうちに遠のく。私の背中と後頭部に強い打撃が走り、目前に火花が散った。先ほどの岩に叩きつけられたのだ。
「私をがっかりさせた罪は重いぞ!」
マッチョリーニは地に伏す私に鋭いローキックを刺した。鋼の脚力から繰り出される蹴りは私の痛覚をも怯ませる。再び宙に浮いた私の後頭部に雷落としが激突した。再び私の目前は星空へ変わり、乾いた地面に叩きつけられた。
私の意識は既に霧中の中へ葬り去られようとしていた。そういえば最後に闘った白人相手にかなり消耗していたっけ。ふと思い出し、腹のなかで自嘲気味に笑ってみせた。マッチョリーニの腕が悠然と、私の腰の布に迫りつつあるのはなんとなくわかった。私はここで敗北するのか。
ああ、どうして。
敗北を確信した私の脳裏で、何度も心中で反芻していた言葉が蘇った。
何に疑問を抱く?
脳内に唐突に響く声。その疑問に私は心中で首を傾げた。そういえば私は何に対してどうしてと疑問を投げかけていたのか。天下一筋肉大会に出場したこと? トムとの対峙? 安藤が反政府団体に加わったこと? それともこの世の理不尽さに?
すべて否。私が疑問視していたのは『この世界に私が何をできるか』だ。
ならば力を貸そう
私の朦朧とした意識が白く、暖かい光に包まれる。ふと私は顔を上げる。目の前にはマッチョリーニではなく、均整の整った美しい逆三角形の肉体を持つ、穏やかに微笑む男が私を見つめて立っていた。神々しいまでのその姿は、私が義務教育時代散々教科書にて目にした聖なる筋肉そのものだった。
ゆっくり目を開くと、先ほどまで至近距離にいたはずのマッチョリーニが驚愕を顔面に湛え、私と距離を稼いでいた。先ほど地に伏していたはずの私の体は、蒸気が吹き出すほどのパワーに溢れ再び大地に仁王立ちしていた。
「なぜだ……? なぜ貴様に聖なる筋肉が降臨するのだ!?」
マッチョリーニはそれを厚く信仰していただけあり、私の現状をよく理解できているらしかった。余裕の笑みをたたえ続けて表情は、先ほど以上に驚愕に歪んでいた。
「教えてやるよ」
私は体中から蒸気を吹き出しながらマッチョリーニににじり寄る。私のように糸のごとく細身の男でも聖なる筋肉の力を授かった理由、今ならはっきりわかる。
「美しい筋肉は肉体につくんじゃないんだ。それは純粋な気持ちと一途な思い、熱い心を持った健全な精神につくものだ! そう、俺は体にこそ筋肉はつかなかったが、俺の熱いハートは心の筋肉となったんだ!」
私の心臓が強く熱くマッスルビートを打つ。その熱きビートとともに、私は瞬時にマッチョリーニとの間合いを詰めた。
「そんな貧弱なハートで筋肉を語るなんて笑わせるな! 国へ帰って鍛え直すんだな!」
表情を変える余裕すらない様子のマッチョリーニのブリーフを私は右手で引っ掴んだ。そのまま私は、力任せに右手を青空に突き上げた。マッチョリーニは思いのほか軽く感じた。
マッチョリーニはやはり表情を変える暇もなく、引きつった顔のままで大陸間弾道ミサイルよろしく青空に打ち上げられた。青空に高らかとまうマッチョリーニはどんどん小さくなり、青空に吸い込まれていった。
私が青空に掲げた右手には、マッチョリーニのパンツが握られていた。
後日、私はこの国の首相となった。最強の名を欲しいがままにしていたマッチョリーニを打倒した私に当然の如く政権が持ち回ってきたのだ。
私は聖なる筋肉を国教指定解除に始まるマッチョリーニ政権の置き土産の抜本的改革から始めた。官房長官として私を支えてくれた兵藤の尽力もあったおかげか、この国は昔の面影を取り戻していった。そんな私の改革を、国民は強く支持し、一躍時の人となった。
私は心の筋肉を手にし、今や富、名誉、権力など世の人間が欲しがるものはおおむね手に入れた。
しかし私は満たされた気にはなれなかった。私はおもむろにスマートフォンの写真フォルダを開き、一枚の写真データを画面に映し出す。私を中心に、安藤と大久保との三人で撮った写真だった。確かはじめて一緒に酒を飲みに行った時だったか、繁華街の光を背後に私たちは頬を染めて笑っていた。
ああ、どうして。
私は欲しいものはすべて手に入れ、心の筋肉まで手に入れた。しかしそれらのための代償は大きすぎた。
ああ、どうして。
私はぽっかりと穴の空いた自身の心に、自問自答を繰り返した。
fin