傍にいて
「もうじき私は死ぬから」
誰よりも幸せである筈の姫は、誰よりも哀しい願いを紡いだ。
「死ぬまで私の傍にいて」
時を遡ること数百年。
藤原氏が大内裏の半数を占める、平安と呼ばれる世。
きらびやかな都には、語り継がれる寝物語が存在した。
人間は決して行くことの出来ないもう一つの世があって、そこには鬼が住んでいるのだと。
悪い子のところには赤い目をした鬼が来て、鬼の世に連れ去っていくのだと。
誰もが一度はその話を耳にし、大人になるにつれてそれが嘘か本当か判断できるようになり、嘘と信じた人々は鬼の存在を否定した。
しかし鬼は確実に存在していた――――――。
「なあ、知ってるか? 麻祇」
仲のいい鬼の声に、麻祇と呼びかけられた青年が反射的に振り返った。
「何が?」
親友である悠はその答えを待っていましたと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
「下にさ、鬼の子って呼ばれてる人間がいるんだと」
下と言うのは人間界のことだ。そして麻祇たちの住む世界は人間が決して立ち入ることが出来ない場所。
人間曰く、冥界と呼ばれる世界に住む麻祇たちは鬼だった。
しかし容姿は人間と大差ない。ただ一つ。その双眸を除いては。
鬼の目は赤く染まっていた。
血を連想させる赤の瞳は鬼の証だ。瞳の色の濃さは鬼によって様々だが、麻祇の双眸は珍しがられるほどに鮮やかな真紅だった。
「鬼の子?」
「白髪赤眼の帝の娘」
一気に興味を引かれた。白髪赤眼の人間なんて拝みたくても拝めるものじゃない。しかもそれが帝の娘となれば興味を引かれない方がおかしい。
「もう結構見に行ってるらしいし、お前も行ってみれば?」
ただし覗くだけにしろよ、と悠が釘を指したが、それはすでに麻祇の耳には届いていなかった。
冥界から人間界の内裏に下りた麻祇は物珍しさから辺りを見渡した。
「へえ、やっぱ帝が住んでるだけあって豪勢に造られてんな」
綺麗に磨きこまれた渡殿に意向を凝らした御簾や蔀戸。
「こんだけ立派なもん拵えて、一体誰に見せびらかしたいんだかねぇ」
麻祇が呆れたような口調で言い放った。
入りたくても入られない、平民には一生縁も所縁もない場所。そんな場所に住んでるのは
政の一切を藤原氏に委ね、ただそこにいるだけのお飾りの帝とその家族。
何とはなしに手近の柱に指を滑らせていた時。
「……確かに、こっちから声が……」
「やべ……」
鬼と言えど姿が隠せる訳ではない。帝の住まう御所にいきなり鬼が現れれば、大騒ぎは免れない。
とっさに人気のなかった御簾に手をかけ、しゃがみ込んで身を隠した。
「……あら? 気のせいだったのかしら……?」
つい先程まで麻祇が立っていた場所に二人の女房が駆け寄った。
「気のせいよ、きっと。だってここって異形の姫のいるところじゃない。こんなところよっぽどの用事でもない限り誰も近づかないわよ」
もう一人の女房が嫌悪感もあらわに吐き捨てた。
異形の姫……?
御簾の中で麻祇が眉を寄せた。
「――――……」
――――――唐突に、空気が揺らぎ、鼻孔をくすぐる程度の甘い匂いがした。
「――――っ!」
人がいたのか。そう気付いた時には、後ろから伸びてきた手が麻祇の口を塞いだ。
背後から伸びてきた指の細さと白さで、それが女であることは分かった。
「……声出さないで」
耳のすぐ近くで囁かれた声に頷くことも出来ずに硬直した。
身動ぎ一つとれず口を塞がれた状態で固まっている間に、女房二人はどこかに立ち去っていった。そのことにひとまず安堵し、しかし最大の問題はまだ何も解決していないと嫌でも意識させられた。
しばらくして麻祇の口を塞いでいた手は音もなく外された。反射的に後方を振り返ると――――――。
「あ……――――」
声を失った。
目の前にいたのは白髪赤眼の少女。
「初めまして。鬼さん」
鬼の子と噂される姫が、そこにいた――――――。
口元に緩い笑みを浮かべた少女は麻祇の不躾なまでの凝視にも不快な表情は一切見せなかった。
「危なかったね。鬼がこんなとこにいるなんて知られたら、陰陽師と僧都が呼ばれて大事になってただろうから」
「……助かった」
今さらながらそんな大惨事を招くようなことをしかけたのだと実感した。
「どういたしまして」
……何でこいつ俺のこと鬼だって断定したくせに、こんな平然と話せるんだよ。
普通叫び声上げるか泣き喚くかだろ。
鬼を見た人間の反応なんてこんなもんだ。それが麻祇の中の常識だった。
ふいに、少女が麻祇の顔を覗き込んだ。そのあまりの近さに思わず麻祇が目を見開いた。
「鬼の目は赤いって言うけど、ホントにそうなのね」
まるで鬼のように赤い目を持つ少女は嬉しそうに笑った。
「おそろいね」
きっとその目のせいで、髪のせいで、数えきれないほどの責め苦を味わった筈なのに。
何でこいつはこんな顔で笑える?
何がこいつを支えてる?
無性にそれが知りたかった。
「……麻祇」
「え?」
「名前。あんたは?」
どんな表情を浮かべればいいか分からずぶっきらぼうに名乗った。そんな麻祇に気分を害すこともなく少女はにこりと笑った。
「咲夜」
随分変わった名前だな、とぼんやりと思った。姫が生まれた時、名前に『子』の字をつけるのは麻祇も知っている常識だ。
「変な名前って思うでしょ? でも私この名前結構気に入ってるの。だって父様がつけてくれた名前だから」
「父様って……。帝だろ?」
「うん。……ま、最近は全然会ってもないけど」
咲夜が嘆息混じりの苦笑を浮かべた。しかしその表情は一瞬で消え、途端に面白いこと思いついたと言わんばかりの笑みに変わった。
……あ、この顔マズイ。
直感でそう悟った。
何故か鬼の子の話を持ちかけた時の悠のにんまりとした笑い顔を思い出した。
「ねぇ、見つかりそうになったところを助けたお礼として、いっこだけ私の我儘聞いてくれない?」
かなり危険だったところを助けてもらった事実は消えない。その礼が我儘一つなら軽いものだ。……多分。
さて、どんな我儘がくるのやら。
「何?」
帝の娘の我儘なんて想像出来なかった。
「もうじき私は死ぬから」
「は?」
誰よりも幸せである筈の姫は、誰よりも哀しい願いを紡いだ。
「死ぬまで私の傍にいて」
それが冗談の類でないことは咲夜の目ですぐに分かった。
「何だよ、死ぬからって……」
麻祇が意味もなく乾いた笑みを浮かべた。
「言葉の通りだよ。私はもうじき死ぬ。……と言うか、殺される」
「……っ!」
ごく静かに呟かれた「殺される」と言う単語に息を呑んだ。
露骨に強ばった表情の麻祇に、咲夜は安堵させるように笑った。その顔がひどく寂しげに見えたのは、多分気のせいなんかじゃない。
「そんな顔しないでよ。だって仕方ないんだよ。帝の姫がこんな異形なんて、前代未聞の恥さらし。生まれた瞬間殺されなかっただけ、私は恵まれてる」
生まれた時に殺されなかったから幸せだ、なんて、この世で最も高位な存在である帝の娘の幸せとは思えなかった。
「……俺なんかが傍にいていいのかよ」
人間の血なんか一滴たりとも流れていない、鬼である自分が。
「人間は私の相手なんてしてくれないもの」
麻祇は長く息を吐き出した。傍にいて欲しい。そんな、我儘とも言えない我儘を、咲夜は願うのだ。
「……いいよ」
そんなささやかな願いを、断ることなんて、出来る訳なかった。
「母様はね、私の姿見た瞬間、父様に向かって謝ったんだって」
咲夜にあてがわれた対屋には誰一人として訪れない。人がここに来るのは一日二回。女房が食事を届けに来るだけで、その時に会話は一切ない。ただ膳の置かれた、かたんと言う音で食事が届けられたことを知るのだった。
そのため麻祇は殆ど人間に警戒する必要がなくなった。
「謝った? 何で?」
咲夜は話相手が欲しかったらしく、麻祇に幾度も話しかけた。麻祇自身、聞き役に徹することの方が得意だったので咲夜の相手は全く苦ではなかった。
「こんな姿で生まれてきたから。だから母様はそれから十年間、一度も子供を作らなかった。でも六年前に弟が生まれて、しかもその子は普通の姿で、父様も母様も大喜びだったって」
十歳年の離れた、現在六歳の弟とは一度も会ったことがないと言う。
また別の日には。
「鬼の目は赤いって言うけど、みんな同じ赤なの?」
「や。赤いのは赤いけど濃さとかはバラバラ。朱色っぽい目の奴もいるし、赤黒い感じの奴もいるし」
麻祇が近くにあった和歌集に適当に目を通しながら答えた。書いてある和歌は何が言いたいのかさっぱり分からず、眠気を誘うだけだった。
「麻祇の目ってかなり綺麗な赤だよね。濃くもなく薄くもなくって言うか……」
「あー……、何かよく言われる。けどあんたの目も似たようなもんじゃね?」
「ホント? だったらいいな」
純粋な混じりっ気のない赤い瞳が嬉しそうに笑った。
咲夜との会話は他愛のないものばかりで、もうじき殺されるなんて気配は微塵も感じられなかった。
だからすっかり忘れていた。
そんな時、その話は持ちかけられた。
「明日の望月の晩に……――――」
滅多に人の訪れない対屋に、咲夜の父である帝が姿を現した。とっさに麻祇は几帳の裏に身を隠し、図らずも盗み聞きする状態になってしまった。
「……そうですか」
ほんの少しの間を開けて、しかし一片の動揺も滲ませずに咲夜が声を発した。
「……父様」
こうして、父親と向かい合うことなんて、何年ぶりだろうか。
「私に名前を下さって、ありがとうございます。咲夜って名前、私好きでした」
過去形で紡がれた咲夜の言葉に、今まで能面のように無表情だった男が、初めてその表情を歪ませた。
「何であの時しおらしく受け止めたんだよ。無駄だって分かってても、反論するくらい自由だろ」
帝の姿が見えなくなってから、麻祇がやや声を荒げた。
「無駄だって分かってるから、反論しなかったんだよ」
どこまでも、咲夜の声は静かだった。
「麻祇、我儘、聞いてくれてありがとね」
そして、望月の夜に。
音もなく咲夜の対屋に入り込んできたのは、全身黒い衣装を纏った集団だった。
燭台に火も灯さず座していた咲夜に、黒衣装の一人が腰から太刀を抜いた。
麻祇は咲夜が帝と対面した時のように、几帳の裏に身を潜めていた。月明かりだけが頼りなく室内を照らす中で、太刀の刃が咲夜の首に据えられる。黒い布から僅かに除いた手でそいつが男であること、そして迷いのない動きから相当な手練れであることが窺い知れた。
『死ぬまで私の傍にいて』
咲夜のひどく哀しい願いだ。聞いたこともない願い事だった。
死ぬまで傍にいて、なんて。本当はそんな願い、叶えたくなかった。
だって――――――。
ぎりっ、と麻祇が歯噛みした。頸動脈を掻き切るためにあてがわれた太刀が月明かりを受けて鈍くきらめく。
――――やっぱ、ただ見てるだけって。
「……性に合わねえ!」
バン、と几帳を蹴り倒して麻祇が立ち上がった。突然の声に全員の目が麻祇に向く。
「あさ……」
麻祇の名前を呼ぼうとした咲夜の手首を掴み、無理矢理立ち上がらせた。
「お前、何にも悪いことしてないのに、何で殺されなきゃなんねーんだよ!?」
こんな姿で生まれてきてしまった。だから自分は殺される。咲夜のその考えは、そもそもおかしいのだ。
「俺はお前の目も髪も、すげえ綺麗だし好きだよ!」
咲夜が驚いたように目を見開いた。そして。
「……ありがとー……」
一筋だけ咲夜の目から涙が滑り落ち、今まで見たことないような笑顔を見せた。
「鬼の子が……本当に鬼を呼びやがった……!」
呆然としていた黒衣装のうちの一人が、震える声で呟いた。
「鬼も一緒に殺せ!」
咲夜に向けられていた太刀が今度は麻祇に向けられた。その切っ先が狙うのは、左胸――――心臓のある部位だった。
武器がなくても、鬼がその気になれば人間なんて簡単に殺せる。目の前に迫ってくる切っ先を睨み付けていた時――――――。
麻祇の視界を白いものがかすめた。そして。
「やめてえっ!」
突然、麻祇の前に咲夜が立ちはだかった。
「ばっ……!」
麻祇が後ろへ下がらせようと伸ばした手は間に合うことなく、咲夜の左胸に太刀の刀身が吸い込まれた。その深さから、咲夜が即死であることも、それ故に何の痛みもなかったであろうことが見て取れた。
大きく傾く咲夜の体を麻祇の腕が受け止める。
想定外の出来事が起こったものの任務は果たせた黒衣装の男達は動揺を浮かべながらその場を立ち去った。
その場に残されたのは、麻祇と、二度と目を覚まさない咲夜のみ。
「死なせたく、なかったんだけどな……」
まだ体温の残る華奢な体は想像以上に軽く、細く。
鬼の自分が力を込めれば一瞬で壊れそうなほど、儚く、脆く。
人間よりはるかに長命な鬼は、もう数え切れないほど人の死を見てきた。
その中の一人には勿論麻祇もいた。だけどどんなに人の死んだ光景を目の当たりにしても、涙なんて一滴も出なかった。当然だ。だってその人間の死は麻祇とは何の関係もない。
人が死んで、その死を悲しんで涙を流すという行為を、冷めた目で見ることしか出来なかった。
そんな、冷めた目しかできなかった鬼が、どうして今。
どうしてこんなに、目が熱い。
「……何で……っ!?」
咲夜の左胸から流れ続ける血を気にする素振りも見せず、麻祇がその体を掻き抱いた。同時に自分の目から水滴が零れ落ちる。それが涙だと、理解するまで時間がかかった。
『死ぬまで私の傍にいて』
いたよ。お望み通り、あんたの命が絶えるまで。
これであんたの我儘は達成できただろ?
じゃあこっからは俺の我儘。
徐々に冷たくなっていく咲夜の体を抱え上げ、麻祇は対屋を出た。
「取り敢えず、埋葬かな……」
このまま咲夜をここに放置して、人間に好き勝手に処分されるのは耐えられなかった。
月明かりだけが頼りの暗い平安京の闇に、鬼の姿が溶け込んだ。
じゃあこっからは俺の我儘。
咲夜の魂を持った人間が再び現れるまで、待ち続ける。
何十年、下手すれば何百年とかかる輪廻転生を待ち続けられるのは、無駄に長命な鬼でないと出来ない所業だ。
そして、平安と呼ばれる世が幕を閉じ、何百年も時が過ぎて、平成と呼ばれる世になった。
人々が好奇の眼差しを向ける先に歩いていたのは、一人の少年。
そんな白い髪と赤い目を持つ少年の目の前に降り立ったのは。
「……誰?」
「鬼……、や、今は死神かな?」
時代の流れで、人間は寝物語として語られてきた『鬼』という名称を、新しく『死神』とした。そして噂の内容を少しずつ変えながら現代まで生き残ってきた。
だけど赤い目を持つことに変わりはない。
「俺の名前、麻祇な?」
怪訝そうに眉根を寄せる少年に、何百年も昔に息絶えた少女の面差しが重なった。
「……待った甲斐があったな」
面影も、魂の色も、瓜二つだった。
「やっと逢えたな。サクヤ」
少年の驚いたような目に、麻祇の笑みが映った。




