『サレ夫ですが、逃げ込んだ田舎のボロ家で、息子と一緒に最高に笑って暮らしています』
短編小説書いてみました。
錆びついた門扉を押し開けると、鼓膜を突くような甲高い金属音が鳴った。
かつて両親が丹精込めて手入れをしていたはずの庭は、溢れすぎるまでの生命力を持った雑草に完全に呑み込まれていた。背丈ほどに伸びたセイタカアワダチソウが秋口の風に揺れ、放置された家屋の雨戸は色褪せ、得体の知れない蔦が外壁を這い上がっている。郵便受けには、市役所から届いた『空き家の適正な管理に関する勧告書』が、雨水に濡れてひしゃげた状態で半分顔を出していた。
「……何とかしろ、か」
玄関のひび割れたコンクリートの地面にボストンバッグを下ろし、男はひどく重い息を吐いた。両親が他界し兄弟もいない彼にとって、この荒れ果てた家は唯一残された帰る場所だった。
スラックスのポケットの中で、スマートフォンが鉛のように重く感じた。画面を開かなくても、銀行の残高照会アプリの数字は脳裏に焼き付いている。
『7,000,000円』
それが、男のこれまでの人生の「清算金」だった。
妻の不倫相手から振り込まれた慰謝料500万円。地元の名士の息子だというその男にとって、他人の家庭を一つ壊し、父親から13歳の息子を奪い取る代償は、ポンと一括で支払える程度の端金に過ぎなかった。
そして残りの200万円は、財産分与の残骸だ。
『マンションは売って、預金は私がもらうわ。親権は私だし、これからの息子の学費や養育費を考えたら当然でしょ。あなたには500万円の慰謝料が入るんだから。マンションを売ったお金からローンの残額を払っても手元に200万円は残るから、合わせれば一人で生きていくには十分じゃない』
離婚の話し合いの席で、妻は淀みなくそう言い放った。
不倫をしたのは妻の側だ。本来ならばもっと徹底的に争うこともできたはずだった。だが、妻から「息子も私についていくと言っている」と告げられた男には、もう戦う気力すら残されていなかった。
男の学歴は高卒だ。小さな会社で這いつくばるようにして働き、少しでも妻と息子に良い暮らしをさせるため、マンションのローンを払い、預金を積み上げてきた。すべては家族のためだった。しかし、その根幹である息子から「自分は要らない」と突き放された男にとって、マンションや金への執着はすでに意味を失っていた。
妻の言葉にうまく言い含められるまま、男はすべての書類に判を押した。離婚が成立し、広くて清潔なマンションを出ていく妻と息子の背中を見送った翌日、男は15年勤めた会社に退職届を出した。その数日後、着の身着のまま逃げ出すように、この寂れた地元の田舎町へと戻ってきたのだ。
男はジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めてボストンバッグに押し込んだ。当面はあの700万を切り崩しながら、この田舎でゆっくりな時間を過ごすつもりだった。だがその前に、玄関への道を塞いでいるこの忌々しい雑草を、なんとかしなければならない。
軍手をはめてから、深く根を張ったスギナを引き抜くと、軍手越しに湿った土の感触が伝わってきた。時間を忘れて作業を続けていくと、額から落ちた汗が目に染みる。
ふと、妻の不倫相手の顔が脳裏をよぎった。仕立てのいいスーツを着こなし、日に焼けたことなどなさそうな、滑らかでスマートな手をした男。妻は、あの余裕に惹かれたのだ。
『あなたは、いつも疲れているじゃない。私のことなんて、もうただの子供の母親としか見てないんでしょ』
最後の日、冷たく言い放った妻の横顔を思い出す。
ふざけるな、と男は乱暴に雑草を引っこ抜いた。愛していなかったわけがない。女として見ていなかったわけでもない。守りたかったからこそ、誰よりも頭を下げて泥臭く契約を取ってきたのだ。
息子が大きくなるにつれ、妻が「息子の学費や、やりたいことにお金を使えるように少しでも貯めていきたい」とパートに出始めたとき、男は自分の甲斐性のなさを本気で悔んだ。だからこそ、さらに身を粉にして働き、休日出勤も深夜残業もいとわず、ボロ雑巾のようになるまで働いた。
だが、深夜に帰宅し、泥のように眠るだけの夫の姿は、妻の目には「頼もしさ」から「退屈な不在」へと変わって映っていたのだろう。パート先で出会った裕福な男は、休日に妻を小洒落たレストランへ連れ出し、一人の「女」として丁重に扱った。自分には、休日に妻を外食に連れ出す体力すら残っていなかったというのに。
自分の不器用な愛情は、結果として妻を孤独にし、別の男のもとへ走らせた。その事実が、喉の奥に苦い後悔となってこみ上げる。
徒労感と無力感に苛まれながらも、男はひたすら無心で体を動かした。むしり取った雑草の山が、背後にいくつも出来上がっていく。荒れ果てた庭の土が、少しずつ顔を出し始めていた
***
慣れない作業で腰や関節の痛みと戦いつつ数日間同じ作業を続けていた。
無心で草を引き抜き続けていた男がふと顔を上げると、周囲はすでに薄暗くなり、遠くのヒグラシの鳴き声が耳をつんざくように響いていた。今日はこれくらいで作業を終わろうと、身体を伸ばすと全身の関節が軋むような痛みを訴えた。
縁側に腰を下ろし、泥だらけの長靴を脱ごうとした時だった。
ふと視線を感じて顔を上げた男は、錆びた門扉の向こうに立つ小さな人影に息を呑んだ。
「……お父さん」
リュックサックを背負い、うつむき加減に立っていたのは、十三歳になる息子だった。
裕福な男の家には似つかわしくない、少し汚れたスニーカー。都会からこの見知らぬ田舎町まで、一人で電車を乗り継いできたのだろう。驚きで声を出せない父親の前に歩み寄り、息子は堰を切ったように泣きじゃくりながら言った。
「お父さんと、一緒にいたい」
急ごしらえで埃を払い、雑巾がけをしただけの畳の居間で、二人は駅前のスーパーで買ってきた半額の弁当を並べた。
息子は割り箸を握りしめたまま、ぽつりぽつりと新しい家での出来事を話し始めた。
新しい父親は、表面上は優しくスマートだったが、事あるごとに息子を「邪魔者」として扱う冷たい視線を向けていたという。露骨な嫌がらせこそないものの、家族の団欒の中で息子だけが透明人間のように扱われる日々。時折出る冷たい言葉をぶつけられた時も、母親は自分の新しい優雅な生活を守るためか、ただ見て見ぬふりをして助けてはくれなかった。
「お母さんが、言ってたんだ」
息子はうつむき、弁当の白飯を見つめたまま震える声で言った。
「お父さんは、今の生活に疲れたから、一人になって人生をやり直したいって。だから、僕のことは引き取れないって」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
男は持っていた箸を落とし、唖然として息子を見た。
――あの女は、自分の不倫を正当化し、あわよくば養育費までせしめるために、息子にそんな残酷な嘘を吐いていたのか。
「違う……違う!」
男は弾かれたように身を乗り出し、息子の細い肩を両手で掴んだ。
「お父さんは、お前がお母さんと一緒に新しい家に行きたいって言ったって、そう聞かされてたんだぞ!」
「え……?」
「俺は、お前を手放したくなんかなかった。高卒の俺が必死で働いてきたのも、家を買ったのも、全部お前のためだったんだ。お前が望むなら、どんな手を使ってでも引き取ったさ……!」
男の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
沈黙が降りた。やがて、息子の目からもポロポロと涙がこぼれ、小さく鼻をすする音が響いた。新しい裕福な父親の家で、どれほど肩身の狭い思いをして、一人で耐えてきたのだろう。
「……そっか。よかった」
息子の声は、泣き笑いのように震えていた。
「よかった。お父さん、僕のこと嫌いになったんじゃないんだね」
その一言で、男の胸の中にどす黒く澱んでいた塊が、一気に熱い涙となって洗い流されていくのを感じた。男は、少し大きくなった息子の体を不器用に抱きしめた。
泥のように眠っていた自分の愛情は、決して無駄ではなかったのだ。この子は、不器用な父親の背中をちゃんと見ていてくれた。
息子が泣き疲れて眠った後、男は一人、縁側で缶ビールを開けた。
口座にある700万を切り崩しながら、しばらくはこの田舎で時間を気にせず、世間から隠れるように休むつもりだった。だが、襖の向こうで丸くなって眠る息子の寝息を聞いていると、そんな悠長なことは言っていられなくなった。
明日にでも弁護士を探して、家庭裁判所で親権変更の申し立てについて相談しなければならない。あの狡猾な元妻がすんなり応じるとは思えないが、十三歳になる息子自身の「父親と暮らしたい」という強い意志があれば、十分に戦えるはずだ。
それから、転校の手続き。新しい制服や教科書の準備。何より、この隙間風だらけのボロ家を、中学生がまともに生活できるレベルまで急いで改修する必要がある。本格的な冬が始まるまでには床板を張り替え、水回りを直し、自分の就職活動も本格的に始めなければならない。
「……忙しくなるな」
夜風に向かって呟いた声には、数時間前までの絶望感は微塵も残っていなかった。
身を粉にして働いてきた泥臭い営業マンの根性が、腹の底で再び熱を帯びるのを感じた。手元には、あの男が払い、妻が残していった700万がある。当面の生活費と家の修繕費、そして裁判の費用には十分すぎる額だ。
憎悪と共に受け取ったはずの清算金は、今、息子との未来を切り拓くための資金に変わっていた。
翌朝、目を覚ました息子に今後の生活や学校の事と当面やらないといけない山積みになった事を説明すると、息子は不安がるどころか目を輝かせた。
「俺も一緒に頑張るよ。壁のペンキ塗りもやりたい。あと、庭の草刈りも手伝うよ」
「バカ言え、お前はまず学校の宿題だ。転校初日に忘れ物なんてシャレにならないぞ」
「えー、宿題は夜やるからさ。俺もここで暮らしていくんだから、自分の家くらい自分で直すよ」
文句を言いながらも、息子の顔には昨日までの陰りはなく、満面の笑みが浮かんでいた。
やるべきことは山のようにある。元妻との話し合いも一筋縄ではいかないだろう。だが、男の心にもう孤独はなかった。
「よし、まずはホームセンターに買い出しだ。朝飯食ったら行くぞ。お父さんも家を直す工具なんかについては、何もわからないから教えてもらわないとな」
「うん! 俺も使いたいから一緒に教わるよ」
ひたすら雑草を引き抜いて土の見えてきた庭の向こうから、眩しい朝日が差し込んでいた。
逃げ出すように辿り着いたこの廃屋は、今日から二人の城になる。不器用な父親と、少しだけ大人になった息子の、忙しくも新しい日々が始まろうとしていた。
***
親権の変更は、拍子抜けするほどあっさりと決着がついた。
弁護士を立てて家庭裁判所に申し立てを行う準備を進めていた男だったが、元妻はあっさりと息子の親権を手放すことに同意したのだ。
理由は単純だった。男が「すでに持って行った養育費の返還は求めないから、親権だけを渡せ」と条件を出したこと。そして何より、元妻自身の中に『手のかかる中学生の息子がいない方が、新しい恋人との優雅な生活を気兼ねなく満喫できる』という冷酷な打算が働いたからだ。息子があの家で邪魔者扱いされていたのは、新しい父親からだけではなく、実の母親からも暗に疎まれていたからだった。
電話越しに聞こえた「じゃあ、そういうことで。あとはそっちで手続きしておいて」という元妻の弾んだ声に、男は怒りよりも、むしろ深い安堵を覚えた。これで完全に、息子は自分のものになったのだと。
季節が冬を越え、春を迎える頃には、二人の生活はすっかり軌道に乗っていた。
転校先の学校に馴染めるか心配していたが、息子は持ち前の明るさであっという間に友人を作り、田舎暮らしの環境を楽しんでいた。
隙間風だらけだった家は、男と息子の手によって見違えるように修復されていた。700万の資金の中から必要な工具や木材を買い込み、動画サイトを頼りに見よう見まねで床板を張り替え、壁に漆喰を塗った。手作りの歪みや不格好な箇所はいくつもあったが、それは「自分たちの城」の誇らしい勲章だった。
そんな二人の様子を見ていた近所の昔馴染みから、「うちの傷んだ雨戸も見てくれないか」と声が掛かったのは、桜が散り始めた頃だった。
最初は躊躇したものの、息子と一緒に工具箱を持って出向き、半日がかりで立て付けを直してやると、ひどく感謝され、採れたての野菜を山のように持たされた。
それを機に、「うちの庭の柵も」「納屋の屋根を少しだけ」と、少しずつ近所から声が掛かるようになった。男はまだ本格的な再就職を決めていなかったが、素人仕事の便利屋のような真似事をして近所の老人たちの相手をしているうちに、すっかりこの自分の育った田舎町に息子ともども深く根を下ろしていた。
「お父さん、そっちの釘押さえてて! 俺が打つから」
「バカ、真っ直ぐ打てよ。また曲がったら親父さんに笑われるぞ」
汗と泥にまみれ、顔を見合わせて笑い合う男たちの毎日は、忙しくも穏やかで、確かな熱を帯びていた。
一方、都会の夜景を見下ろす豪奢なマンションの一室。
元妻は、完璧に整えられたダイニングテーブルで、すっかり冷めきった手料理を前に一人座っていた。
不倫相手だった男との生活は、最初の数ヶ月こそ夢のように甘く、刺激的だった。男は「好きなものを買えばいいし、好きなことをすればいい」と彼女にブラックカードを渡し、週末になれば高級レストランやホテルへと連れ出した。
だが、その生活には決定的な「生活感」が欠落していた。
男は徹底して外食を好んだ。元妻が「家庭的なところを見せよう」と良かれと思って手料理を作り、エプロン姿で帰宅を待っていても、男は露骨に嫌な顔をした。男はずっとハウスキーパーを雇って生活しており、「自宅に他人の生活の匂いがすること」や「常に誰かが自分を待っているという重圧」に慣れていなかったのだ。
『家政婦の真似事なんてしなくていい。君は綺麗に飾って、僕の隣で笑っていればいいんだ』
それは一見、女としてこれ以上ないほど大切にされている言葉のようだった。だが、裏を返せば「それ以外の役割は求めていない」という残酷な宣言でもあった。
次第に男は、何かと理由をつけて家を空けるようになった。仕事の付き合いだと言って深夜まで帰らず、週末すらゴルフや出張で姿を消すことが増えた。
ハウスキーパーによって完璧に掃除され、生活音のしない静まり返った部屋で一人待つうち、元妻の胸に真っ黒な疑念が渦巻き始めた。
――あの人は、別の若い女と会っているのではないか。
かつて自分が、前の夫を裏切ってこの男のスマートさに惹かれたように。
疑えば疑うほど、虚無感が胸を蝕んでいく。
ふと、元妻の脳裏に、かつての家族三人の風景が蘇った。
深夜に泥のように疲れて帰ってくる前夫。休日は死んだように眠り、スマートな会話も、洒落たエスコートもできない退屈な男。
だが、あの広くないマンションの食卓には、自分の作った平凡な料理を「美味い」とかき込む夫がいて、その横で笑う息子がいた。夫から漂っていた汗と泥臭さは、間違いなく自分たち家族を守るためのものだった。女として見られていないと不満をぶつけたが、彼は不器用なほど誠実に「妻」と「子供」を愛し抜いていたのだ。
そのすべてを、退屈だと切り捨てて自ら壊したのは自分だ。
元妻は、誰もいない広いリビングで顔を覆った。指輪の輝きも、ブランド物の服も、今の彼女の心に空いた巨大な隙間を埋めることはできなかった。静寂の中、声にならない嗚咽だけが虚しく響き続けていた。
「よし、今日の作業はここまでだ!」
「お疲れ! いやー、今日の柵のペンキ塗りは俺、完璧だったね」
「調子に乗るな。ほら、タオル。先シャワー浴びてこい」
初夏の青空の下、泥だらけの作業着姿の二人が、縁側で笑い合っている。
不器用で泥臭い父親と、その背中を追いかけて逞しく育っていく息子。すべてを失ったはずの廃屋から始まった二人の生活は今、何よりも豊かで、温かな光に包まれていた。
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