『完璧な男の、完璧ではない一日』
黒川は完璧な男だった。元・会計士で、数字とリスク管理のプロ。彼の人生に「想定外」という言葉は存在しない。毎朝のルーティン、仕事の段取り、老後の資金計画にいたるまで、人生のハザードマップは完璧に頭の中へ構築されていた。
そんな黒川が、ある日、珍しく風邪を引いた。しかし完璧な彼は慌てない。引き出しには、数年前に購入した高性能圧力電気鍋が眠っている。具材を入れてボタンを押すだけで、完璧な栄養スープが仕上がる算段だ。
「よし、チキンとローズマリーの薬膳スープを作ろう♪」
黒川は手際よく鶏肉を切り、庭の鉢植えからちぎったハーブを添えた。ここまでは完璧だった。だが熱のせいで少し手元が狂ったらしい。棚の奥からスープの素だと思って掴んだのは、孫娘が置いていった海外製の謎の固形調味料(怪しいトカゲの絵入り)だった。黒川は気づかず、それを鍋へ放り込んでスイッチを押した。
ピッ、と電子音が響き、加圧が始まる。ソファに横になり、数分後の完璧な癒やしを待った。だが十五分後。キッチンから、およそ調理器具とは思えない地響きが響いた。
『ウオオオオオオオオオオ!』
凄まじい咆哮に跳ね起きる。キッチンへ駆けると、圧力鍋がガタガタと激震していた。蒸気口から噴き出すのは、白い湯気ではなく禍々しい紫煙だ。
「なんだ!? 私は分量を間違えておらんぞ。計算が合わん!」
パチン!と安全弁が吹き飛び、蓋が引きちぎられた。中から現れたのは、体長三十センチほどの漆黒のミニ・ドラゴンだった。瞳はサファイアのように青く、背中には小さな羽がある。
『グルアアアアア!』
特注の無垢材の床にヨダレを落とす怪物へ、おたまを構える。
「食らえ、必殺おたまシールド!」
ガキン!とおたまが爪とぶつかり合う。熱で視界が曇る中、黒川は冷静に相手を分析した。どうやらローズマリーの匂いを気にしている。
「フッ、俺の計算からは逃れられん」
黒川は冷蔵庫からマヨネーズを取り出し、おたまの先へ塗って突き出した。ドラゴンは動きを止め、それをペロリと舐めた。その瞬間、青い瞳がトロンと蕩け、足元へすり寄ってきた。
「お父さん、何そのトカゲ!?」
お見舞いに来た娘が叫ぶ。黒川は不敵に笑い、熱い麦茶を飲み干した。
「……人生には、ハザードマップに載っていない同居人もいるということだ」
完璧な計画は壊れた。だが、想定外の新しい生活も案外悪くない。うむ、黒川は満足げに笑った。終
〜Happy end〜




